シャイニングの写真化 ドクター・スリープ

40年前の惨劇を生き延びたダニー(ユアン・マクレガー)は、心に傷を抱えた孤独な大人になっていた。父親に殺されかけたトラウマ、終わらない幼い日の悪夢。そんな彼のまわりで起こる児童連続失跡事件。ある日、ダニーのもとに謎の少女アブラ(カイリー・カラン)からメッセージが送られてくる。彼女は「特別な力(シャイニング)」を持っており、事件の現場を“目撃”していたのだ。

事件の謎を追う二人。やがて二人は、ダニーにとって運命の場所、あの”呪われたホテル”にたどりつく。

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ドクター・スリープ
(映画『ドクター・スリープ』US版メイン予告【HD】2019年11月29日(金)公開 - YouTube

ハロランの丁寧すぎる説明


映画はダニーとウェンディがオーバールックホテルを脱出し、フロリダに越してきたところから始まる。彼らは『シャイニング』で自分たちを閉じ込めた雪にうんざりしており、雪のまったく降らないフロリダに移住したのだ。そうやって彼らはホテルの災難から抜け出したかに見えたが、ダニーにはホテルの霊がまだ見えていた。彼はトイレに行こうとして、半開きのシャワーカーテンに目が留まり、しばらくするとそれに手がかかり中からオーバールックホテルにいた腐乱した裸の霊が顔をのぞかせる。ダニーはそれを見てトイレに行けず身動きが取れなくなり、その場で漏らしてしまう。次の日、幽霊になったハロランがダニーに助言を与えにくる。

映画を見終わった後で気づくが、ハロランの助言はこの映画で起こることを言葉で説明しすぎている。その説明がこれから起こることをほとんど言ってしまっている。彼は、ダニーのシャイニングの能力を狙っている者たちがいて、それらのものは蚊のようにシャイニングを吸って生きているという。そして、それらの蚊のような性質を逆に利用して同士討ちさせてやればいいという。映画はこの通りに進む。シャイニングを持つものがいてそれを追うものがいて生気を吸うのに成功したり失敗したりする。そして、最後の最後でそれらを同士討ちさせることに成功する。ほとんどネタバレしているようなものだ。それは大して重要ではなく、ダニーと死んだ家族との関係やダニーの立ち直り、アル中の克服が重要だということなのかもしれない。けれど、映画内で約三十年ついで八年とかなり過程を飛ばしているために、それらのことについてはっきりとは描かれていない。

『ドリーム』(検算と正義 Hidden Figures(邦題:ドリーム) - kitlog - 映画の批評)では同じように最初のシーンがその映画全体を見る上での手助けになっていたが、それはあくまでも暗示程度ではっきりとは言っていない。

たとえば彼は、すぐれた脚本とは「書き手がその主題に取り憑かれるところから始まる。一つのテーマとコンセプト、一つの人生観、一つのキャラクターを巡る洞察に憑かれることから始まるのだ。芸術家は自分の気持ち、感情、思考を受け手に伝えるために、受け手を魅了する手段として適切なスタイルを使うのだ」と述べている。小説の映画化を論じたときにも、映画化に最もふさわしい小説とは、一部の人々が考えているような、アクションに富む小説ではない、と彼は論じる。

”むしろ逆に、主として人物の内面を語る小説のほうが映画化には向いている。そういう小説は、(…)どの時点で人物が何を考え何を感じているか、それを判断するための完璧な指針を、映画を作る人間に与えてくれるからだ。映画を作る側はそれを頼りに、小説中での人物の心理の動きに対応するような映画の中の行動を考え出せばよい。(…)役者に作品の意味を文字通り言わせたりする必要はない。”

この発言は、キューブリックの映画作りの美学を批評的に定義するための、有効な標識となってくれる。(p92)

「キューブリック あるいは偶然性の美学」トマス・アレン・ネルソン『イメージフォーラム 1988 4月増刊 キューブリック KUBRICK

ドクター・スリープ
(映画『ドクター・スリープ』US版メイン予告【HD】2019年11月29日(金)公開 - YouTube

ハロランのくれた箱、『シャイニング』の写真


ハロランはそれらの説明の後で、ダニーに箱を渡す。それは幽霊を閉じ込めることができるのだという。その箱は、いわばポケモンのモンスターボールのように幽霊を出し入れできるのだ。ダニーは家に戻って、ハロランに言われたとおりに風呂の女の幽霊に対峙し、それを箱に閉じ込めることに成功する。彼はそれまで無口だったが、テレビを見ながら母親と会話をすることができるようになる。『シャイニング』であれだけ苦しんだのにとてもあっさりした解決法だ。霊を頭の中の箱に入れてしまえばいいのだから。おそらくこの解決がダニーの人生にとって良くなかったのではないだろうか。それは奥行きのない箱で狂気/正気、現実/虚構といった完全な二分法を彼の考えに(つまりは映画に)もたらし彼の才能を大きく塞いでしまう。それは映画の面白さに直結してしまうだろう。ダニーは映画内でアルコール中毒から脱するが、映画内の酒はすでにアルコールが抜けてはいないだろうか。

ドクター・スリープ
(映画『ドクター・スリープ』US版メイン予告【HD】2019年11月29日(金)公開 - YouTube

物の名前を制定した古人たちもまた、狂気(マニアー)というものを、恥ずべきものとも、非難すべきものとも、考えていなかったということである。じじつ、もしそうでなかったら、彼ら古人たちは、技術の中でも最も立派な技術、未来の事柄を判断する技術に、ちょうどこのマニアーという名前を織り込んで、この技術を「マニケー」(予言術=狂気の術)と呼ぶようなことはしなかっただろう。いな、彼らは、狂気が神から授けられて生じるとき、これを立派なものとみとめたからこそ、このような名前をきめたのである。(p53)

パイドロス』プラトン

ダニーに必要だったのは狂気を閉じ込めてしまうような箱ではなく、『シャイニング』に登場した迷路ではないだろうか。『シャイニング』では虚実の入り混じった演出がなされる。ジャックがホテル内の迷路の模型つまり虚構を覗き込むと、それがそのまま彼の妻ウェンディと息子のダニーが遊んでいる現実の生垣の迷路につながってしまう。そこでは現実が虚構につながっており、虚構が現実につながっているという相互運動がある。ハロランのくれた箱はそのような運動を単に閉じ込めることに過ぎない。

『シャイニング』ではそのような閉じ込めは一度だけ起きる。ジャックが積雪の迷路の中でダニーを探して迷子になり、死んでしまった後で、写真に定着されてしまったことだ。ジャックは現実と空想とが入り混じったホテルの中で、前の管理者でホテルで双子の娘に残忍な殺人を行ったグレーディに会い、完全に気が狂ってしまう。それまでは夫婦間のコミュニケーションの失敗がお互いをイライラさせていただけだったが、ホテルがそれを助長し始める。幽霊はジャックには助言をし、妻のウェンディには抽象的な恐怖を与える。グレーディは「妻や息子にはしつけが必要ですよ」とジャックに唆して、ジャックは妻子を「おしおきの時間だ」といって襲い始める。そのような道徳的な押しつけは『シャイニング』では恐怖ではあるが、通用しない。キューブリックはそれよりも複雑なものを映画に込めようとした。それゆえ、単純な押しつけをするジャックを複雑な迷路に迷い込ませ自滅させたのだ。小説を書くといってホテルにやってきて同じ文章のコピーを何度もタイプライターで打っているというのも、狂気と同時に単純さの証拠だろう。単純なものはそこに存在することはできなくなった。それは過去の映画に対する批判の意味も含まれているに違いない。

彼は、自分の作品に対し、複雑な感情、複雑な心理をもって反応することを観客に要求する芸術家である。この点で彼は、明快な道徳的メッセージを好むプドフキンの正反対と言ってよい。「人間には、明快なものを嫌う性質があり、逆に難解なもの、謎、寓話に惹かれる性質があるのだ」。(p96)

「キューブリック あるいは偶然性の美学」トマス・アレン・ネルソン『イメージフォーラム 1988 4月増刊 キューブリック KUBRICK

フォリー・ベルジェールのバー

フォリー・ベルジェールのバー
(Better Know Manet's A Bar at the Folies-Bergère - YouTube

マネの『フォリー・ベルジェールのバー』は不思議な絵である。それは『シャイニング』の迷路に似ている。この絵は正面に描かれている女性とその手元に中途半端にうつっている酒瓶など以外は全て鏡の中にうつったものが描かれている。女性の後ろに奥行きがあるように見えても、そこにあるのは壁に過ぎない。鏡の中に光源が描かれそれが後ろにあるように見えるが、実際の光源は女性の正面にある。正面の女性は鏡の中で著しく右側に描かれており、彼女の前に男性が立っているが、鏡の外にはその姿を認めることはできない。また、正面の女性の視線と鏡の女性の視線が食い違っているようにも見える。そこから作者がこの絵の中で占める位置を特定することができない。鑑賞者はいくつかの視線をさまようことになる。それはあの迷路のようにある特定の押しつけを逃れていく。

あらゆる古典的な絵画は、線や遠近法や消失点などのシステムによって、鑑賞者と画家に対して、なんらかの確乎とした固定的で不動の場所を指定していたのであり、その場所から光景が見られることになっていたのでした。それゆえタブローを見ながら、どこからその絵が見られているのか、上からか下からか、斜めからか正面からなのか、ということが分かるわけです。しかし、このマネの作品のような場合、人物がこんなに近くに描かれていて、すべてが間近にあって何やら手で触れられそうな印象を受けるというのに、それにもかかわらず、あるいはひょっとしたらそれゆえに、いずれにしてもそうした印象を持ちつつも、画家がこのような絵を描くためにどこにいたのか、また、このような光景を見るために我々はどこにいるべきなのかを知ることはできないのです。さてお解りでしょう、マネはこうした技法によってタブローの特性を用いたのであって、そのとき絵画は表象作用がわれわれに押しつけ、鑑賞者にただひとつの鑑賞点を押しつけるような、いわば規範的な空間ではなくなります。(p79,80)

マネの絵画』ミシェル・フーコー

映画に出てくる写真の中に私たちは自分の姿を探そうとすることは滅多にないだろう。たとえば、『シャイニング』の最後にうつった一九二一年の写真の中に私たちがうつっているとは少しも考えられない。しかし、鏡ならどうだろうか。鏡の内容は写真と違って流動的である。観客は無意識のうちに鏡の中に自分の姿を探そうとはしないだろうか。『ドクター・スリープ』でも使われている鏡にうつったREDRUMが反対になってMURDERつまり殺人に見えるシーンが『シャイニング』から引用されている。しかし、こちらの方はあまり大きな意味をなしているようには思われない。『シャイニング』の方では現実と虚構の境があやふやになっていくことのシグナルとして使われている。現実の方に鏡文字が使われていて、それが何をあらわしているのかを知るために鏡を見ないといけない。もしかしたら鏡の中のほうが正しく文字が書かれた世界なのではないか。もしかしたら鏡の中にうつっているのが現実で、鏡の外の世界は全く別の現実に変わってしまったのではないか。鏡の存在とその利用は、現実と虚構を何度も往復させる。『ドクター・スリープ』ではその運動がハロランの箱によって閉ざされている。『ジョーカー』(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ゴッサム ジョーカー - kitlog - 映画の批評)でもおそらく同じ効果を狙って重要な場面で鏡が使われていた。観客は鏡の中に何かを発見しようとする。

キューブリックの映画は、映画という形式を露骨に操作してイデオロギーを明快に打ち出すものではないのだ。彼の映画は、「真の思想、力ある思想というものは、非常に多くの側面を持っているものであって、真正面から攻撃を加えても無駄である。思想は観客が自分で発見すべきものだ。自分で発見したことの快感が、その思想をいっそう力強いものにするのだ」という彼の信念を、そのまま体現している。(p95)

「キューブリック あるいは偶然性の美学」トマス・アレン・ネルソン『イメージフォーラム 1988 4月増刊 キューブリック KUBRICK

ドクター・スリープ
(映画『ドクター・スリープ』US版メイン予告【HD】2019年11月29日(金)公開 - YouTube
9/10/2020
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