ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ゴッサム ジョーカー
アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)はコメディアンを夢見る心優しい男。母親から「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」と教わった彼は、大都会で大道芸人として暮らしながら、いつの日か世界中に笑顔を届けようと心に誓う。しかし、周囲から冷たい反応や暴力を受け、しだいに精神を病んでいった彼は、自ら施したピエロメイクの悪“ジョーカー”へ変貌を遂げる。
ジョーカー | 映画-Movie Walker
(映画『ジョーカー』オフィシャルサイト)
(映画「ジョーカー」US版予告【HD】2019年10月4日(金)公開 - YouTube) |
ウェイン夫妻殺人事件と一人の男
バットマン/ブルース・ウェインの父親トーマス・ウェイン。トーマスは1939年にコミックへ初登場を果たした。コミックでは医師・慈善活動家としてゴッサム・シティで活躍していたものの、ブルースの目の前で妻と共に強盗によって殺害されてしまう。この事件はブルースの人生に大きく影響を与え、後にバットマンとなる大きなきっかけとなった。
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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(虚構が勝利するために ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド - kitlog - 映画の批評)では、実在のシャロン・テート殺人事件に架空の二人の男が介入し、歴史を変えてしまったことがコメディ調で描かれた。『ジョーカー』もおそらくこれと同じ形式をとっている。実際のコミックの中の正史に違う人物が介入しその歴史に異なった意味を与えようというのだ。それがジョーカーのいうジョークである。W.リップマンによれば、喜劇の本質のひとつは場違いな人間が存在していることである。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で二人の場違いな人間が存在したように、『ジョーカー』では一人の場違いな人間が存在したことで喜劇を構成している。前者に比べて、後者が笑えないのはジョーカーの最後のセリフのとおり、それを笑えるのはジョーカー本人しかいないからだ。
ジョーカーはそれによって何がしたかったのか。それは、トーマス・ウェインの殺害に関与することである。彼はオペラを鑑賞した後、家族三人いるところでたまたま強盗に会い、トーマスとその妻マーサが拳銃で撃たれ、息子のブルースだけが生き残った。彼は後にバットマンになる。『バットマン vs スーパーマン』でもブルースは両親が裏通りでたまたま死んだことをスーパーマンに告げているが、もしそれが偶然でなかったとしたらどうなるだろうか。犯人がたまたまそこに出くわした人物を狙ったという物語ではなかったとしたら。そこにもしも政治的な問題や思想的な問題や経済的な問題が絡んでいたら。ジョーカーはラストの精神科医との対話で一瞬だけブルースだけが残された場面を回想し、彼はそこに介入する。もしそうだとしたらバットマンにとって都合の悪いだろうなという話をジョークとしてジョーカーは創作したのではないか。
もし彼が気にしている環境がたまたま洗練された上流社会の集団であれば、彼はそれにふさわしいと思う人格を模倣するであろう。その人格は彼の立居振舞い、会話、話題の選択、嗜好、を場合に応じて調整する作用をする。人生の喜劇の多くはここにある。人びとが自分と異質の状況に対応するとき、自分の性格をどのように想定するかにある。興業主に囲まれた教授、ポーカーゲームに加わった司祭、田舎にきた都会者、本物のダイヤモンドに混じった人造ダイヤのように。(p235)
『世論(上)』リップマン
ジョーカーは『ダークナイト』では銀行強盗に紛れ込んだり、看護婦に紛れ込んだり、儀仗兵に紛れ込んだりしているが、『ジョーカー』ではかわいそうな貧しい労働者に紛れ込んでいる。
(映画「ジョーカー」US版予告【HD】2019年10月4日(金)公開 - YouTube) |
『ダークナイト』が隠したかったもの、というジョーク
二〇〇八年のクリストファー・ノーラン監督作『ダークナイト』では検事としてゴッサムの希望となっていたハービー・デントがジョーカーの企みによって復讐者となり殺人を重ねていく。ジョーカーの計画でデントはその恋人レイチェルとともに誘拐され、それぞれ別の場所で爆弾と一緒に縛りつけられていた。ジョーカーはそのことをバットマンに告げて、どちらを助けるかを選ばせた。バットマンはデントを助け、レイチェルを警察に助けに行かせるが、レイチェルのほうは間に合わなかった。デントはその時顔を焼かれ、顔が半分焼けただれたトゥーフェイスとなった。彼はジョーカーを手伝ってデントとレイチェルを誘拐した警察官やマフィアを処刑していく。デントは映画のはじめは検事としての正義を貫こうとしていた。検事としての正義とは法を守らせることだが、それは犯罪が起こった後で犯罪者を裁くことで、字義通りそれはデントが犯罪が起こった後、終わった後にしか行動できないことを意味する。それでもゴッサムの犯罪は減らない。なので、彼はバットマンになろうとする。犯罪が起こる前、あるいは犯罪が起こっている最中に犯罪に介入しようと思うようになる。現代のセキュリティの概念と同じである。
犯罪行為に事後的に介入することが近代刑法の原則(第二章)であり、そしてその原則にしたがってポリツァイの機能分化、警察の司法警察化がすすんでいったとしたら、現代の動きはこの近代化の方向を逆向きに(おそらく次元を変えながら)たどりなおすものであり、しかもその動きは加速している。(p283)
『完全版 自由論: 現在性の系譜学 (河出文庫) 』酒井隆史
しかし、デントにはバットマンになる能力はなかった。結果的に自分の顔の半分と恋人を失ってしまった。それで今度はジョーカーになろうとして怪物トゥーフェイスとなる。彼が頼りにするのはコインである。コインの裏表によって、対象を殺すかどうかを決める。表なら死に裏なら助かるという風に。それはジョーカーに教えられたやり方だ。ジョーカーは公平こそが世の中をカオスにするといい、トゥーフェイスはコイントスによって生と死の確率を五十対五十まで引き上げる。日常生活で死んでしまう確率はほんの僅かであるが、カオスな世界ではそれが二分の一にまで引き上げられるのだ。トゥーフェイスはここで内面を隠している。彼は復讐する人間を選んでいる時点でジョーカーのいうほど公平ではない。ただまねをしようとしているだけである。
犯罪原因に照準を定めるよりは、むしろ犯罪をあらかじめ予防する方向への犯罪政策のシフトが示唆されている。(p304)
現在のモニタリングはもはや「内面をもった個人」のような「センチメンタル」なものには関心を示すことはない。それはまなざしと相関的に主体を構成したりはしないのだ。主要な問題は、犯罪を根絶する人道主義的課題ではいっさいなく、犯罪を特定のゾーンに封じ込めるなどして、それによって社会の一部に与えるリスクを最小化することなのだ。(p305)
『完全版 自由論: 現在性の系譜学 (河出文庫) 』酒井隆史
このトゥーフェイスの中途半端さに秘密がある。彼はコイントスの確率で偶然人を殺したように見せかけようとした。実際には復讐心があるにもかかわらず。次に私はこう疑わざるを得ない。ウェイン夫妻が強盗に殺されたのはたまたまだったのかと。バットマンが復讐者になってしまったデントの犯罪を隠そうとしたのは、ゴッサムから高潔な人間がいたという希望が消えてしまうからではなく、犯罪がたまたま行われるのではなく人間の内面の変化によって行われることを隠そうとしたからではないか。バットマンは両親が殺されてしまったのは偶然ではなく、何か理由があるかもしれないということを恐れたのではないだろうか。それは彼の存在理由にかかわることである。
ゴッサムではそのような偶然が街を覆っていて、一般市民と犯罪者の間には何の関係もないように見える。ジョーカーはゴッサムから避難した一般市民の船と囚人の船の二つにそれぞれ爆弾を仕掛け、起爆装置を相手側に持たせる。一般市民の船の爆弾の起爆装置は囚人が、囚人のは一般市民が持っている。ジョーカーは互いを疑心暗鬼にして彼らにスイッチを押させようとするが、両者とも押さなかった。バットマンは人間の勝利だというが、本当にそうだろうか。船にはそれぞれ五百人ほどの人間がいて問題なのはスイッチを押すか押さないかだとされ、市民の方はすぐに多数決、数の問題となった。お互いの船には知り合いはいなかったのだろうか。「向こうの船にはおれの友人が乗っているかもしれない」「あっちにはわたしの知り合いがいるかも」こういう話にはならなかった。なぜか、それは彼らがコインの裏表、善と悪といったように完全に分断されているからだ。両方ともスイッチを押さなかった、ハッピーな結末だ。しかし、それは一般市民と囚人が干渉しあわなかった、関わり合いにならなかったということでもある。「偶然」が支配する世界は、このような分断を正当化するのではないだろうか。お互いに全く関係のない集団が同じ場所で暮らしている。
『ダークナイト』ではこのような「偶然」をバットマンとジョーカー二人でトゥーフェイスから守ったのだ。それは人びとから内面を隠す偶然である。だとすれば混沌を望んでいるジョーカーがすべきことはただ一つである。内面をもう一度ゴッサムに導入すればよい。彼は『ダークナイト』のジョーカーと違って一般市民と囚人の間に橋をかける。その導き手として『ジョーカー』のアーサーは存在している。
彼はなぜ笑ってしまうのか、悲劇の場合
(映画「ジョーカー」US版予告【HD】2019年10月4日(金)公開 - YouTube) |
アーサーは生まれつきの障害で何でもないときに声を上げて笑ってしまう。その笑い声がいつも場違いなため、周りにいる人間をいらいらさせてしまう。彼がバスに乗っているとき、前の席の子供が後ろを振り返ったので彼は変顔をして笑わせる。するとその親が「うちの子にかまわないで」と注意する。アーサーは気分的には申し訳ない気分になっているのだろうが、それは表には出ず、高らかに声を出して笑ってしまう。その親は変なものを見るような顔をしているので、アーサーは病気の診断のカードを渡して説明するのだが、彼はずっと笑い続けている。コメディショーの時でも、笑うタイミングが他の観客と大幅にずれていたり、地下鉄で女性が男たちに絡まれている時にもアーサーがどうしようと思っていたのかは分からないが、自然に高笑いが出てしまってその男たちに何がおかしいんだと因縁をつけられ、リンチにあってしまう。
笑いに伴う無感動というものを指摘したい。滑稽は、極めて平静な、極めて取り乱さない精神の表面に落ちてくるという条件においてでなければ、その揺り動かす効果を生み出しえないもののようである。われ関せずがその本来の環境である。笑いには情緒より以上の大敵はない。例えば憐憫とかあるいは更に愛情をさえ我々に呼び起こす人物を我々が笑いえないと言おうとするのではない。ただその時でも数刻の間はこの愛情を忘れ、この憐憫を沈黙させなければならぬのである。(p14)
『笑い (岩波文庫 青 645-3)』ベルクソン
アーサーの生活している状況は憐憫を忘れさせるということはない。彼自身は笑っているが、こちらは全然笑うことができない。彼は世話をしなければならない母親と二人暮らしで彼自身は給料の安いピエロの派遣で仕事をしている。彼には生まれつきの病気があるため薬をいくつも服用し、身体は痩せ細り、精神に問題があるとされている。笑いの発作は何の役にも立たず、ただ周囲を不快にするばかりである。仕事中に街のチンピラのような子供に仕事の看板を盗まれ壊され蹴られ、そのことを会社に訴えても話は聞かれず「お前が悪い、看板は給料から引いておく」といいところがない。同僚に護身用で拳銃をもらうが、それを小児病棟での仕事中に落としてしまい「病院に拳銃を持っていくなんて理解できない」といって仕事を首になってしまう。ソーシャルワーカーの市の予算もカットされ、彼は薬を受け取ることもできなくなってしまった。
彼はそれまでの生活に耐えようとしているが、まわりがどんどん彼にとって悪い方に変わっていってしまう。それでも彼は病気のせいで笑ってしまう。無理やり笑わされるというのが正しいかもしれない。彼の笑いはまだ無意識である。
アーサーは地下鉄で女性に絡んでいた男たちを笑ってしまいリンチを受けるが、銃で反撃し、彼ら三人を射殺してしまう。彼はその場で怖くなって大急ぎで逃げ出すが、トイレに入って自分の顔を見直すと気分がよくなって踊ってしまう。それは操り人形になったかのような不気味な踊りである。ジョーカーがジョーカーを操り始めている。街には彼の模倣者が溢れデモを行っている。彼は自分の存在が知られ始めていると感じる。
彼はなぜ笑ってしまうのか、喜劇の場合
(映画「ジョーカー」US版予告【HD】2019年10月4日(金)公開 - YouTube) |
アーサーは母子家庭だが二人の父親のような人間が存在する。彼と彼の母親の大好きなコメディショーのスターで司会のマレー(ロバート・デ・ニーロ)と市長候補者のトーマス・ウェイン(ブレット・カレン)だ。しかし映画の後半アーサーは二人ともに拒絶される。上の引用にあるように、それが悲劇であるためには内面が誰かに見られている必要があった。実際には彼らはアーサーには何の関心もなかった。笑いの瞬間には人はその対象の内面を無視している。だから笑いには時に差別的な言動が見られるのだ。アーサーはそのような無視の対象だったのだと気づく。同時に恋人だと思っていた近所に住むシングルマザーの黒人女性も、関係妄想だったことに気づく。彼の内面を見てくれるものは誰もいない。それが悲劇が喜劇に変わる瞬間である。しかし、喜劇はそれだけでは終わらない。
アーサーはその父親のような存在に自分の内面が見られているような気分をずっと感じていた。彼はマレーのコメディショーを観覧していることを夢想し、客席でマレーのネタにあわせて拍手と「I love you」という掛け声を送り、マレーの目に留まる。アーサーにスポットライトが当たり、彼はこの番組をいつもは母と楽しみにしていること、母子家庭で母を支えていることを自己紹介で述べる。他の観客たちは「母親と二人で暮らしてるなんて」という感じで引き気味だが、マレーはアーサーをフォローして彼を元気付けようとする。マレーは彼を舞台に上がらせ、「君のおかげで盛り上がったよ、君が息子だったら」みたいなことをいう。アーサーにとってマレーは自分を気にかけてくれる父親のような存在だった。
けれど、そうではなかった。マレーはテレビのコメディ番組でアーサーが劇場でやったネタを取り上げて放送し、嘲笑する。そのネタの中でアーサーは「周りは無理だって言ったけど、僕こそが一流のコメディアンだ」といってのけるのだが、マレーはそれに「どこが?」という反応をして客席の笑いを誘う。アーサーはコメディアンとして場違いであるといわれている。アーサーはそれを病気の母親と見ていて、自分はマレーに見られていなかったことに気づく。マレーは自分の内面に関心がないのだと。彼は同時に笑いが罰のようなものだと気づく。彼は自分のネタ帳に「精神に病のあるものにとって、普通にしてろといわれるのが一番つらい」と書いているが、マレーはそうやって「普通にしてろ」という側の人間だったのだ。お前のことは何も知らないが普通にしてろ。彼はマレーを見ても笑えなくなってしまう。彼は笑いが何かを分ける手段なのではないかと気づき始めている。
我々の笑いは常に集団の笑いである。諸君は汽車中なり共同食卓なりにおいて、旅行者たちが世間話を語りあっているのを聞かれたことが多分おありであろう。その話は彼らが心からそれを笑っているから、必ずや彼らにとってはおかしいものに違いないのだ。諸君ももしかその仲間であったなら、彼らと同じように笑ったことであろう。けれども諸君はその仲間でなかったから、少しも笑いたい気はしなかったのである。(p15,16)
『笑い (岩波文庫 青 645-3)』ベルクソン
デパートの夜番の職にありついた「チャーリー」が、ポーレットの前で得意のスケートをご披露し、調子に乗って、目かくししてたってヘッチャラですよ、とかなんとかいいながら、階上の床のはずれ毛一筋のところまで悠々と滑ってくる、ケッサクのシーン。(p141,142)
5―「チャーリー」からの脱出『チャーリー・チャップリン 講談社現代新書』岩崎昶
民衆がピエロの仮装をしてデモをしている一方で、富裕層たちは豪華な劇場で『モダンタイムズ』のチャップリンを見ながら優雅な笑いを見せている。アーサーはその会場に忍び込んでいた。彼は母のトーマス・ウェイン宛の手紙を開け、自分がトーマスと母との子供なのではないかということを確かめに来たのだ。彼は会場の使用人の制服を盗んで劇場内に忍び込み、富裕層が笑うのと一緒に笑っていた。それは、もし自分がトーマスの息子なら、アーサーもここにいる富裕層の人々と同じメンバーになれるという見込みがあるからだ。笑いはいつも集団の笑いである。実際には彼は映画に映されるチャップリンと同じ貧しい側の人間である。でも「トーマスの息子ならば」ということでトーマスに直談判しにいく。彼はトーマスがトイレで一人になったところで、自分はペニー・フラック(フランセス・コンロイ)の息子であると告げる。トーマスは「あの女はクレージーだ。精神病で、お前は彼女の子供ではなく養子だ」と告げられ、笑っていると殴られてしまう。
トーマスとの関係が母親の妄想ではないと信じたいアーサーは精神病院の記録を探しにいく。記録を盗み見ると、そこには確かに母は精神病で養子を授かったことが記されていた。母はいつも笑っているアーサーが目障りだと虐待している記録もあった。彼は想像の父親に拒絶されたが、同時に母親にも拒絶されていた。誰も彼の内面に興味がない。それゆえこれは悲劇ではなく喜劇である。喜劇の世界の中で彼は母親の内面に興味をなくしてしまい殺してしまう。後日、アーサーはトーマスが母のペニーを愛していたのではないかと思わせる写真を家で見つける。笑いが矯正の装置だと先ほど書いたが、それでも矯正されないものは精神病院に送られるのではないだろうか。ペニーは本当に精神病だったのだろうか。アーサーの現実は妄想と区別がつかなくなってくるが、何が現実かということについて断言している人間がなぜか存在している。トーマスはその一人だが、そう断言できるのはなぜなのか。笑いの罰で効果のないものは精神病院に入れられて罰を受ける。それは誰の基準でそうなっているのだろうか。それはウェイン産業の都合なのではないだろうか。『ダークナイト』の船のように一般市民と囚人がきっぱり別々になってしまうのはなぜなのだろうか。
出口からやってくる男
(映画「ジョーカー」US版予告【HD】2019年10月4日(金)公開 - YouTube) |
笑いが《習俗を懲戒する》のである。(p25)
社会は自分に不安を感じさせる或る物に直面してはいるが、しかしそれもただ徴候としてだけのことで――殆ど一つの脅威ともいえぬもの、せいぜい一つの身振りである。だからして社会がそれに呼応するにも、一つの身振りをもってするのだ。笑いはこの種の或る物、一種の社会的身振りであるに違いない。その吹き込む懸念によって、笑いは「中心はずれ」を矯め抑える。(p27)
『笑い (岩波文庫 青 645-3)』ベルクソン
母が倒れて病院に行ったとき、アーサーが外で休んでいると警官が彼に話しかけてくる。彼は警官の話を聞いて母が倒れたと聞いていたので警官を許せない気持ちもあるが、犯人は彼である。彼は警官から「最近職場を辞められてますね。それはなぜ?」と聞かれる。警官「職場に銃を持っていったとか」彼は「ピエロの小道具だ」などと答え、その場をごまかす。彼は「母のところへ行かないと」といって、病院に入ろうとするが自動ドアのガラスにぶつかってしまう。警官が「出口専用ですよ」とつっこむ。少し笑いそうなところだが、彼の事情を知っているものとしては笑いにくいところである。『キング・オブ・コメディ』の最後パプキンが司会者のジェリーを誘拐し番組を乗っ取って、代理としてその番組に出てくるのだが、そこでネタとして「私がジェリーを誘拐して椅子に縛り付けてきたのです。だから彼は来られないのです。」という。映画内の観客はネタだと思っているから大爆笑しているが、それが事実だと知っている映画を見ている観客には笑えるようなシーンにはなりにくい。それと同じである。アーサーはそれでも強引に出口から入っていく。これが彼の行動原理を決める。彼は出口からやってくるのだ。
どういうことか。笑いとは社会における一種の罰である。笑われたものは笑われたことで自分のことを何らかの形で矯正しなければならないのではないかと思ってしまう。しかし誰が矯正の基準になるのか。ジョーカーはこれを出口から入るように逆にする。つまり、「笑いが罰になる」という形式を「罰が笑いになる」という形式に反転させるのだ。彼が下す罰は死である。彼は自分が矯正の基準だとして他人を笑っているものを殺害する。例えばランダル(グレン・フレシュラー)、彼は職場にいる小人症の男を馬鹿にして「お前らにとってミニゴルフはゴルフなのか」と馬鹿にして笑っていた。アーサーの母が死んだ後、ランダルと小人症のゲイリー(リー・ギル)が見舞いに来たのだが、アーサーは予めハサミを用意してランダルを殺したがゲイリーは殺さなかった。ゲイリーは笑う側ではなかったからだ。彼は笑う基準を作っているものにしか興味がない。
マレーについても同じだ。マレーはアーサーの地下のコメディーショーのネタを馬鹿にしたが、アーサーをテレビに呼んだ。彼はピエロの格好をして番組に出演する。マレーはネタをやってくれという。アーサーはネタ帳を取り出し何かを言おうとするが、マレーが途中でツッコミをいれてくる。「それくらい覚えられないのか?」スタジオに笑いがこぼれる。マレーは笑いの基準であることを彼は確認した。ジョーカーはネタ帳を見るのをやめて、自分が地下鉄の殺人の犯人だとしゃべり始める。まわりは嘘だろと最初は思っていたが本当かもしれないと思い始める。マレーは「なぜ殺した?」というとジョーカーは「音痴で笑えなかったから」と答える。ジョーカーは自分のことを話し始め「観客は被害者のことばかり気にかけている。なぜならトーマス・ウェインがそうするようにテレビで言っているからだ。我々のようなものは見向きもされない」などと話し始めるが、マレーはさえぎって「そうやって自分を憐れんで、自分勝手な」などと言い始めたので、ジョーカーはピストルでマレーを殺害する。ジョーカーは笑いの基準はあくまで自分にあることを示そうとしている。誰が場違いなのかはジョーカーが決める。彼は笑われるほうではなく笑うほうだ。彼の場合は順番が逆で罰(死)そのものが笑いなのである。彼は出口から、罰の方から笑いをとろうとするのだ。それは彼にしか笑えないのだが。
ドラマであるならば、一定の名称をもった我々の情念あるいは弱点を描写する際でもそれらを旨く人物に合体してしまうから、それらの名称は忘れられ、それらの一般的特性は消され、我々はもはや少しもそれらを念頭にもたず、ただひたすらそれらを包摂している人物だけを念頭にもつのである。このゆえにこそ、ドラマの標題が一つの固有名詞でないということは滅多にないのである。ところが反対に大部分の喜劇は普通名詞を掲げている、「守銭奴」とか「賭博者」とか等々。
『笑い (岩波文庫 青 645-3)』ベルクソン
彼には模倣者がたくさんいる。外ではピエロの仮装をして多くの人間がデモを行ったり暴徒と化したりしている。ジョーカーの名前は彼の芸名を超えて広く一般性を獲得しようとしている。その意味でこれは喜劇なのだ。この街に不満を持ち暴れるもの、今まで忘れられていたものがジョーカーである。一般化したジョーカーの名は街のあらゆる犯罪に感染する。それはウェイン夫妻を殺害した強盗も無縁ではない。彼もまたジョーカーである。こうしてジョーカーはウェイン家の歴史に介入して、ウェイン夫妻殺人事件はたまたまではなかった、街に不満を持つものに殺されたのだというジョークをつくり上げる。
ジョーカーは仮装したピエロに囲まれて、彼らの歓声で立ち上がりあの奇妙なダンスを踊る。そして自分の血でピエロの笑っている口を完成させる。これは映画の冒頭のシーンと同じである。彼はピエロの仮装をして泣きながら口を広げ笑っている顔を作ろうとしていた。彼はこの物語の結末を知っていて結末と同じことを最初にやっているのではないだろうか。それがジョーカーの創作なら当然なのだが、彼は出口からつまり物語の結末からやってきているのではないか。彼はこの物語がどういうものか分かっていたから、笑っていたのではないだろうか。それは精神的な発作ではない。無意識にこの世界がジョーカーのジョークだと知っていたから何でもないところで笑っていたのだ。
『ジョーカー』の強みの一つは、どこまでが実際の出来事でどこからが想像の範疇だったのかについて、誰もが自身の主張を論じることができ、それぞれの説について不正確だと否定することは誰にもできない点にある。フィクション史上で最も信頼できない語り手を扱う映画作品なのだから、当然のことと言えるだろう。
ジョーカー - 映画レビュー - Joker Review
(映画「ジョーカー」US版予告【HD】2019年10月4日(金)公開 - YouTube) |
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9/10/2020
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