語り手不在のメタフィクション HELLO WORLD ドラゴンクエスト ユア・ストーリー

京都に暮らす内気な男子高校生・直実(北村匠海)の前に、10年後の未来から来た自分を名乗る青年・ナオミ(松坂桃李)が突然現れる。ナオミによれば、同級生の瑠璃(浜辺美波)は直実と結ばれるが、その後事故によって命を落としてしまうと言う。「頼む、力を貸してくれ。」彼女を救う為、大人になった自分自身を「先生」と呼ぶ、奇妙なバディが誕生する。しかしその中で直実は、瑠璃に迫る運命、ナオミの真の目的、そしてこの現実世界に隠された大いなる秘密を知ることになる。

オリジナル劇場アニメ『HELLO WORLD』公式サイト|INTRODUCTION&STORY

HELLO WORLD
(映画『HELLO WORLD(ハロー・ワールド)』予告【2019年9月20日(金)公開】 - YouTube

少年リュカは父パパスと旅を続けていた。 その目的は、ゲマ率いる魔物たちに連れ去られた母を取り戻すこと。 旅の道中、遂にゲマと遭遇し、魔物たちと激しい戦いを繰り広げるパパス。 しかし一瞬のスキをつかれ、リュカが人質にとられてしまい、手出しができなくなったパパスは、リュカの目の前で無念の死を遂げる――

それから10年。故郷に戻ったリュカは「天空のつるぎと勇者を探し出せば、母を救うことができる」というパパスの日記を発見する。 父の遺志を受け継ぎ、リュカは再び冒険の旅にでることに。 立ちはだかるいくつもの試練、そしてビアンカとフローラ、2人の女性をめぐる究極の選択。 果たして冒険の先に待ち受けるものとは!?

映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』公式サイト|INTRODUCTION

『ジョーカー』と『アラジン』

『ジョーカー』(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ゴッサム ジョーカー - kitlog - 映画の批評)はメタフィクションだと確実には明示されていないが私は映画内の出来事をジョーカーの語った劇中劇だととらえている。最後のカウンセリングのシーンは劇中でほとんどの時間を占める八〇年代とは異なった時間、おそらく現代に近い時間のものだろう。ジョーカーはカウンセリングの途中でそれまでとは違う雰囲気で笑って見せ、カウンセラーに「何がおかしいの」と聞かれ「あなたには分からない」という。それは『ミスター・ガラス』の精神科医のように人々を抑えつける役割の人には分からないという意味だろう(スクリーンは反射して透過し最後に割れる ミスター・ガラス - kitlog - 映画の批評)。ここでの最後のジョーカーの笑いは彼の主体性を垣間見せている。それは彼が自分の事に関する創作を語っているという自信、あるいはこの映画には出てこないが聞き手としてバットマンが存在しているという確信があるからだ。

この構造は『アラジン』でも同じである。(閉じた魔法の世界 アラジン - kitlog - 映画の批評)アラジンについての批評で監督・主演:ジーニーと書いたが、ジーニーがこの映画の内容をコントロールしている。彼が子供たちに自分の物語を聞かせるところからこの映画は始まる。そのせいで主役であるはずのアラジンがアニメ版と比べて少しおかしなことになっているのが気になるが、それはジーニーを語り手として主役に近い位置に引き上げているためだ。

いずれにしろ、この二つの映画は映画内に語り手を置き、その語り手が主役として活躍するという形をとっている。しかし、『HELLO WORLD』(以下『ハロワ』)『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(以下『ドラクエ』)ともにこれとは違う形でメタフィクションを活用している。

主体性の削除

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー
(「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」予告② - YouTube

『ハロワ』『ドラクエ』ともに主人公的な存在が主役であることを物語内で複数回否定される。両方とも主役に「あなたはゲームの世界にいるんだよ」と宣告する。

『ハロワ』では主人公のいる世界が別の世界のデータで作られた世界だとされ、その主人公のいる世界をデータだと思っていた世界もまたデータであることが示される。直美のいる世界に十年後から来たという十年後の直美=ナオミがやってきて直美に彼女を作らないかと助言をする。その彼女というのが瑠璃で、ナオミは彼女が過去のある時点で死んでしまうのを直美に防いでほしいのだという。が、それはナオミの嘘で彼は直美の世界の直美に恋をした瑠璃のデータを奪って、ナオミの世界で脳死状態にある瑠璃を治療しようというのだ。直美はナオミに踊らされていただけだったことが明らかになり、直美の世界に瑠璃が消えてしまいその世界そのものがデータとしての整合性を失い不安定になってしまう。物語はナオミの世界にうつり、意識を失ったままの瑠璃を助けるというかたちで主人公を交代させる。しかし、瑠璃を取り返そうとした直美がナオミの世界に侵入してきたことで、ナオミの世界もまたデータであることが明らかになる。そうして彼ら二人はそれぞれのデータの世界を元に戻そうと協力して事態を収拾するが、それもまた別の誰かが設定したイベントに過ぎないことが最後の最後に明らかになる。そのイベントがクリアされておそらく現実の直美がやせ細った驚いた顔をして意識を失った状態から目を覚ます。

『ドラクエ』では主人公リュカが伝説の勇者なのではないかという期待の中で冒険を続け、数多くの敵を倒していくが、結局のところ彼は天空のつるぎを抜くことができず、魔王ミルドラースの復活をもくろむ敵のゲマに石にされてしまう。彼は主人公ではなかったことが示され、代わりに自分とビアンカの間の息子が天空のつるぎを抜くことができることが明らかになる。勇者の物語が勇者の発見の物語にかわったところでリュカたちはミルドラースの復活を阻止しにゲマを倒しにいく。リュカとビアンカとその息子に途中でヘンリーたちの軍隊もやってきて、ゲマの軍団と一進一退の攻防を繰り広げ、最後のところでリュカの息子が天空のつるぎを空に投げ入れミルドラースを封印しようとする。そこで世界が静止し不安定になり始め、ミルドラースが登場し自分はこのゲームに侵入したコンピュータウィルスであることを告げる。ミルドラースはゲームのCGの設定をいじり、ゲーム内の色を消したり重力を消したりして「これは偽者だ、現実を見ろ」という。リュカはミルドラースに教えられ、自分がVRのゲームをしていたことを思いだす。普通はなかなか考えられないが、ゲームをしていて現実や現実の記憶が存在することを忘れていたというのだ。ゲームをしているのを知らずにコントローラを握っていたという経験はどうやったらできるのか。映画館にいて映画の終わりに照明がつく前に誰かが照明をつけたような、映画を見ている途中で「これは映画なのに何感動してるの、何真剣に見てるの」とわざわざ大声で観客のひとりが騒ぎ出し始めたような感覚で私はそれを見ていた。彼は茫然とするが、アンチウィルスプログラムだというスライムの助けも借りて、ゲーム内のキャラクターもその思い出もリアルなものだとしてミルドラースを撃破する。その後ゲームは元通りになるが、主人公はどこか浮かない顔をして映画は終わる。

メタフィクションと奴隷

HELLO WORLD
(映画『HELLO WORLD(ハロー・ワールド)』予告【2019年9月20日(金)公開】 - YouTube

『ジョーカー』のジョーカーと『アラジン』のジーニーは映画の語り手として登場しているが、彼らはともに自分の解放について語っている。ジョーカーはそれまでの彼の八〇年代風ジョークの後でカウンセリングルームを脱出して鎖を解き、ジーニーは拘束具の腕輪を解かれ魔人であることの呪いから解放される。劇中劇が回想や創作だったとしても、それが解放の過程や条件であるために意味があると思える。

『ハロワ』や『ドラクエ』の場合は、メタフィクションは主人公のためのものではないために、主人公もゲームやデータという環境の一部という意味合いが強い。両者とも最後に今までの世界がメタフィクションの世界だと明らかになって、現実がはじまるという風になっているが、それまでのストーリーは主人公のコントロール下にないのだからほとんど意味がないのではないかとさえ思えてくる。最後の最後でようやく物語が始まったけど、残された時間は僅かですぐに終わってしまったという感覚をおぼえる。それまでの過程に意味がなかったという風にされるのだから。『ドラクエ』でリュカとミルドラースが対峙したときに、スライムがものすごく熱い感じで「おれはこのゲームのアンチウイルスプログラムだ」といって主人公側についてゲームを守ろうとするのだけど、ここで本来守られるべきはリュカのストーリーだったはずで、それがゲームつまり環境を守ることにすり替わってしまって、とても可笑しな場面になってしまっている。ゲームの方を守ろうとするのはドラクエの物語を壊すことになってしまうので、ゲームかどうかの二項対立がなければ笑えるようなことにはなっていないのだけど、主体性というか主人公性を削除することが目的だったのだろう。

『ドラクエ』では最初は父親に守られていたものの、父親が死に、奴隷になった主人公がそこから脱出し冒険を経てレベルアップし魔王を倒すところまでが描かれる。しかし、それがゲームのことなのだと告げられる。『ハロワ』では自分が現実世界の過去のデータ内存在だと告げられ、十年後の自分からこうしたら間違いないという日記のような攻略本の通りに行動させられるも、そのマニュアル的思考から脱出し世界の秩序を回復する。けど、それもデータの世界のことだったのだと明示される。『西遊記』で孫悟空がお釈迦様の手のひらのまわりをうろうろしてるだけという場面をこれらの映画が延々やってるのはなぜなのだろうか。奴隷であることを主人公が断ち切っても、そのことをなかったことにするためにメタフィクションを利用しているのはなぜなのだろうか。現実の主従関係を維持するためなのだろうか。特に『ドラクエ』の最後に出てきた敵は空間をすべてCGだという風に見せて、世界はどのようにでも作れるぞというような優越感を示している。が、いろんな世界を作れるとか設定をいろいろ考えられるというのは物語をつくる以前の問題である。奴隷の経験を無化した結果、ほとんどのシーンに意味がなくなってしまって『海獣の子供』の主人公のようにそれについて語る言葉をなくしてしまう。(海、空、宇宙の大きさは免罪符にならない 海獣の子供 - kitlog - 映画の批評

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー
(「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」予告② - YouTube

9/10/2020
更新

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