閉じた魔法の世界 アラジン

ダイヤモンドの心を持ちながらも、本当の自分の居場所を探す貧しい青年アラジン(メナ・マスード)。彼が巡り合ったのは、王宮の外に自由を求める王女ジャスミン(ナオミ・スコット)、そして“3つの願い”を叶えることができる“ランプの魔人”ジーニー(ウィル・スミス)。果たして3人は、この運命の出会いによってそれぞれの“本当の願い”に気づき、それを叶えることはできるのだろうか……?

アラジン | 映画-Movie Walker

『アラジン』ジャスミン
(Disney's Aladdin Official Trailer - In Theaters May 24! - YouTube

ダイヤモンドの原石

この二〇一九年の実写映画『アラジン』は、ディズニールネサンスと呼ばれる時期のアニメ版の『アラジン』とストーリーがほとんど同じである。だからその分変更した場面が目に付いてしまう。最も不可解なことの一つは、ダイヤモンドの原石に関わることだ。アニメ版では魔法の洞窟が「ダイヤモンドの原石でなければ入れない」というので、ジャファーは王から代々受け継がれてきた指輪を盗み、それを使って水晶玉で誰が原石なのかを占っている。ここでは人を探すのに魔法が使われていて、それは物語外の存在もしくは物語のなかでキャラクターを超越した存在を想起させる。それは言わば、映画監督がいることの比喩かもしれない。

それに対して実写版はどうだろうか。アラジンは相棒のアブーが盗んでしまったジャスミンのブレスレットを返そうと宮殿に忍び込む。彼は、宮殿の兵をかわし塀を軽々と乗り越える。それを見ていたオウムのイアーゴは「面白いやつがいる」といってそれをジャファーに報告し、ジャファーはアラジンをダイヤモンドの原石かもしれないと思って魔法の洞窟に行かせる。ここではアニメ版でアラジンを選んだような魔法は存在していない。ジャファーがアラジンを魔法の洞窟がいうダイヤモンドの原石にふさわしいと思った理由は何なのだろうか。宮殿に忍び込んだ身体能力なのだろうか。それとも盗っ人でありながら王女に近づいた野心か何かなのだろうか。ジャファーも盗っ人から出世して王宮の中で地位を得たことになっているが、アラジンに似たものを感じたためだろうか。いずれも推測でしかない。はっきりしていることは、アラジンを選ぶ際に魔法が用いられていないことだ。それはなぜなのだろうか。

アニメ版では魔法の洞窟を探すのにも虫型の魔法のアイテムが使われているが、実写ではそれがない。そしてジャファーが使う蛇のステッキも催眠術がほとんど解除されてしまって効力が弱まっているようにみえる。魔法の力が弱まっているのだろうか。

『アラジン』アラジン
(Disney's Aladdin Official Trailer - In Theaters May 24! - YouTube

自信を喪失させる魔法

ジャスミンのブレスレットをアブーが盗んでしまって、アラジンはジャスミンをだました風になってしまう。彼女は怒って宮殿に帰ってしまった。アラジンはアブーに「盗んでいいものと悪いものがある」といって、それを宮殿に返しに行こうとする。宮殿内は見張りの兵士がたくさんいて建物も複雑である。それでも彼は手近にあるものを盗みながら、宮殿内の人物のふりをしてジャスミンのいる部屋にまで到達する。ジャスミンはアラジンがまるで宮殿の主みたいに自分のところまでやってきて驚いていた。ここではアラジンには他のものになりきる自信も能力もあるように思える。しかし、ジーニーと出会ってからそれは一変しているように見える。

アラジンは王女は王子としか結婚できないと知って、ジーニーに「自分を王子にしてくれ」と願う。アラジンはジーニーの魔法の力で見た目を王子に変え、パレードを用意して『♪アリ王子のお通り』だとアグラバーに登場する。それを見たアグラバーの国王が彼を気に入ったと宮殿の中へ招待する。そこで、アラジンはジャスミンにふさわしい王子なのか、国王やジャスミンに質問されるのだが、彼はそれにまともに答えることができない。言葉に詰まって意味不明にジャムに固執したり、ジャスミンを金で買いたいなどとその場で言ってしまう。ジーニーは呆れて、今まで生きていて一番恥をかいたとつぶやく。アラジンは王宮に盗っ人として忍び込んだときにはあれだけ自信たっぷりに王宮の人物になりきり、警備が厳重な王女の部屋にまでたどり着いたのに、魔法を使って王子の衣装を着た途端にまるで自信のない人物になったようにみえる。これはどう見ても変だ。

事情は大体分かる。重要なのはアラジンが三つ目の願いについて言及する場面で、彼はそれを自分のために使うかジーニーを自由にするために使うのか実写でもアニメでも悩むことになる。アニメ版でなぜアラジンが三つ目の願いを自分のために使おうとするかというと、国王にジャスミンにふさわしいと認められたために、アラジンは国王になることになってしまったからだ。彼はジャスミンと結婚することばかり考えていたのだろう、それで認められて次の国王になるのはアラジンだと言われたときに、ジーニーがいないと国王になるのは無理だと思ったのだ。だからアラジンは最後の願いを自分のために使おうとした。しかし、実写版では国王になりたいのはジャスミンのほうである。アラジンには結婚して国王になって政治を行うというようなプレッシャーは与えられていない。だから、彼が盗っ人のまま宮殿で主のように振舞うことのできる人物のままであったなら、ジーニーの最後の願いで悩むことはなかったのだ。しかし、その悩みが必要ということでアラジンはダメな人物にされてしまった、ようにみえる。ジーニーがいないと自分はダメなままだ、というわけだ。

『アラジン』ジーニー
(Disney's Aladdin Official Trailer - In Theaters May 24! - YouTube

監督・主演:ジーニー

映画は大きな船が洋上にいるシーンから始まり、その陰から人間化したジーニーが乗った比較的小さな船が姿を現す。そこでジーニーは子供たちに物語を披露する。そしてアラジンの物語が始まる。この映画はアラジンの物語をジーニーが話している、創作しているという形をとっている。そのためか様々なことがジーニーのために矮小化されているのではないかと思われる。初めのほうに書いた「アラジンの世界の魔法が弱くなっているのではないか、アニメ版と比べると超越的な主体が不在になっているのではないか」という疑問も答えを出すことができる。ジーニーが語る世界ではジーニーが一番だということになっているのだ。ジーニーはアラジンの横で筋トレをし鏡を見ながら自分の肉体美にむかって微笑んでいる。

それゆえ、ジーニー以外の魔法はなくなり、ジャファーの蛇のステッキもほとんど効力がなくなってすぐに見破られてしまう。アラジンをダイヤモンドの原石だと認定する主体も示唆されない。それはおそらくジーニーにとってどうでもいいことだからだ。ジーニーはアラジンを友達だという。しかし、アニメ版の『アラジン』でジーニーはアラジンのことを愛称でアルと呼んでいたが、この作品ではそう呼ばなくなった。加えて、アラジンが王子に姿を変えてジャスミンの前で失敗したとき、ジーニーは恥をかいたといったり、王宮のパーティで「俺の邪魔をするなよ」といったり、明らかに友達の関係というよりは上下関係を持ち込んでいる。そのせいでアラジンの物語であるはずなのに、アラジンの地位が不当に貶められているように思える。

ジーニーのモノマネ

アニメ版のジーニーは亡くなったロビン・ウィリアムズが延々と他の俳優などのモノマネをしていたがそれはなぜなのだろうか。モノマネは何かある本物のマネをして偽者を演じることだが、それは学習であり、想像力を刺激することだ。しかし、それはあくまで想像力への刺激にとどまり、なんら形を成してはいない。だが物語の最後でジーニーは自由になり、彼は解放された。つまり、ここでは想像力が解放されたのだ。想像力への刺激にとどまり、準備段階にとどまっていたものが完成を見てその拘束を解かれる。映画はそこで終わってしまうがジーニーは、想像力はまだ魔法を失っていない。

あらゆる明証は直観的なものであるが、そればかりでなく、事物の真正な理解も、すべて直観的なものである。このことはすでに、あらゆる国語にみられる無数の比喩表現が証拠だてている。というのは、これらはみな、抽象的なものをすべて直観的なものへ引きもどそうとする試みだからである。何かある事柄についての抽象的な概念だけでは、決してそのものの本当の理解が得られない。もっとも、こういう概念のおかげで、多くの人々が多くのことについて語っているようにそれについて語ることができるようになるが。それどころか、中にはそのために概念をさえ必要とせず、単なる言葉だけで、たとえば習いおぼえた述語だけですませている人々もある。――

これに反して、およそ何事かを本当に理解するためには、それを直観的に把握し、それについてのはっきりした像を抱き、それもできれば現実そのものから、さもなければ想像力によってその像をうけとることが必要である。(p83,84)

知性について』ショーペンハウエル

ジーニーのモノマネは実写の映画ではジャスミンの本と等しい位置にある。ジャスミンは国の外交について意見を言おうとするが、「お前は本を読んでるだけで経験がない」と聞いてもらえない。彼女は宮殿の外にほとんど出たことがない。そこに本や地図の世界だけではない世界を見ようとアラジンが誘いに来る。『♪ホール・ニュー・ワールド』デロリアンではなく魔法の絨毯が彼らを見たことがない世界へ連れて行くが、アニメ版に見られたスフィンクスのような印象のあるシーン、本や地図に出てきそうな有名な本物の何かは出てこない。全体的に抽象的である。それはおそらく想像力を刺激するようなシーンとしては成功していない。絨毯で空を飛ぶことも、アニメ版にあったような籠の中の鳥が自由に空を飛ぶことと同一視するいったような複合的な意味づけもなされていない。

ジーニーはアラジンに「お前の上辺は変えることができるが、中身までは変えることができない。」といったが、映画表現自体が上辺だけのものになっていないだろうか。この映画は想像力の象徴だったジーニーが人間化するという話だが、その物語のために想像力自体に蓋がされていないだろうか。

固定的な思考習慣の本質や、それが労力を省くことによって生活を促進する作用は、その習慣が潜在意識になっていて、結論を自動的に導き、批判に対しても、個々の事実の矛盾に対しても保障されているという事実に基づいている。思考習慣はこのような働きをするのであって、その最後の弔鐘が鳴ったあとでも依然としてそうであり、そのときには障害物と化するのである。経済活動の世界においても同様である。新しいことをおこなおうとする人の胸中においてすら、慣行軌道の諸要素が浮かび上り、成立しつつある計画に反対する証拠を並べ立てるのである。意志を新しく働かし、その方向を変えることは次のような事情によって必要となる。日常の仕事と配慮の中から、すでにその中に含まれているもののほかに、新結合の立案と完成のために必要な余地と時間を搾り出すためには、また新結合を単なる夢や遊戯ではなく、実際に可能なものとみなしうるようにするためには、意志の新しい違った使い方が必要となってくる。このような精神的自由は、日常的必要をこえる大きな力の余剰を前提としており、それは独特なものであり、その性質上稀なものである。(p225,226)

経済発展の理論(上)』シュムペーター

11/17/2020
更新

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