監獄の誕生 パラサイト 半地下の家族
過去に度々事業に失敗、計画性も仕事もないが楽天的な父キム・ギテク。そんな甲斐性なしの夫に強くあたる母チュンスク。大学受験に落ち続け、若さも能力も持て余している息子ギウ。美大を目指すが上手くいかず、予備校に通うお金もない娘ギジョン… しがない内職で日々を繋ぐ彼らは、“ 半地下住宅”で 暮らす貧しい4人家族だ。
“半地下”の家は、暮らしにくい。窓を開ければ、路上で散布される消毒剤が入ってくる。電波が悪い。Wi-Fiも弱い。水圧が低いからトイレが家の一番高い位置に鎮座している。家族全員、ただただ“普通の暮らし”がしたい。
「僕の代わりに家庭教師をしないか?」受験経験は豊富だが学歴のないギウは、ある時、エリート大学生の友人から留学中の代打を頼まれる。“受験のプロ”のギウが向かった先は、IT企業の社長パク・ドンイク一家が暮らす高台の大豪邸だった——。
パク一家の心を掴んだギウは、続いて妹のギジョンを家庭教師として紹介する。更に、妹のギジョンはある仕掛けをしていき…“半地下住宅”で暮らすキム一家と、“ 高台の豪邸”で暮らすパク一家。この相反する2つの家族が交差した先に、想像を遥かに超える衝撃の光景が広がっていく——。
映画『パラサイト 半地下の家族』オフィシャルサイト
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街頭のない都市
なぜ韓国には半地下部屋が多いのか?
韓国は日本から独立した1945年以降、南北に分断。1950年には朝鮮戦争が勃発し、韓国全土が戦火で荒廃した。そのため朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は北朝鮮と再び戦争になった時に備えようと、1970年に建築法を改正、住宅を建設する際には防空壕の役割を果たす地下施設を設置するよう義務付けた。南北分断と戦争の恐怖から生まれた半地下部屋は、その後「漢江の奇跡」と言われる爆発的な経済成長に伴い、役割を変えていく。
1970年代以降、経済成長の恩恵を受けようと、地方から多くの人が仕事を求めてソウルなどの大都市圏に集まってきたが、安価な住宅の供給が追い付かなかったため、半地下部屋が賃貸部屋として使われるようになったのだ。当時の政府は住宅用として作られていなかった半地下部屋に居住する事を黙認した。しかしあまりにも住環境が劣悪だったため、1984年にはそれまで3分の2以上が地下にもぐっていなければならないという地下施設の定義を2分の1に緩和し、半分は地表に出ている半地下が爆発的に増加した。
カンヌ大賞作品の舞台「半地下」に見る韓国の格差社会と分断の歴史 - FNN.jpプライムオンライン
キム一家は半地下住宅に住んでおり、そこでは天井近くにハイサイドライトのように窓がある。窓の下側は地上の表面の高さと一致しており、そこから80㎝位のガラス窓が並んでいる。そこから見える風景は彼らの生活とほとんど同じようなものである。貧しい人々がいて、彼らが住む住宅が並んでいて、たまに酔っ払いが姿をあらわし、立小便をしたりしている。その窓は嵌め殺しではなく開けることができる。前の通りで消毒をしているときに、父のギテク(ソン・ガンホ)は「ちょうどいい、家の中も消毒しよう」と窓を開けるが、それで家の中は煙で充満し、さながら自作のガス室のようになってしまう。彼らの生活はすぐに外と地続きになってしまう。
パク一家は高台の豪邸に住んでおり、そこでは庭に向けて映画館のスクリーンのような大きな窓が取り付けられている。そこから見える風景は、一面緑の風景で他から区切られている。そこは外の世界と完全に断絶している。外を見ても外のことは何もわからない。そこで住人が何か自分と似たものを見ることはない。パク一家はそこに何も見ないし、同時に見られてもいない。余談だが、この庭の感じは『天気の子』(全ては太陽を隠すために 天気の子 - kitlog - 映画の批評)の雲の上とよく似ている。
映画はそれら二つの建築の内部を往復するような形で物語を進めていく。キム一家がそれらの住宅の外で移動する場面はあるが、その時は決まって他に人物がほとんどいない。この映画は外に全然人がいない。人々はみな建物の中に押し込まれているかのようだ。『新感染 ファイナル・エクスプレス』(見えなかった娘の歌いたくなかった歌 新感染 ファイナル・エクスプレス - kitlog - 映画の批評)でゾンビをデモに見立てて書いたが、『パラサイト』にはそのような街頭の人々のエネルギーは見いだせない。それと同じ理由で『パラサイト』は『ジョーカー』(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ゴッサム ジョーカー - kitlog - 映画の批評)とも違っている。
『パラサイト』はラストの一連のシーンとも相まって明確に「家の中にいろ」といっている。
近代の権力はもともと悲しみの受動的感情を通して次のような支配のジレンマを回避してきた。つまり個々人や集団の「諸能力」を増進させながら、それを他者への従属(権力)とむすびつけねばならない、というジレンマである。個々人や集団の諸能力の増進は、この悲しみの受動的感情――そこでは個々の人びとはこう考えるのだ。わたしにはこれ(とあれ)ぐらいしかない、この「日常」を受け入れるしかない、しょせんやれるのはここまでだ――を介して、むしろ他者への従属の強化をもたらすのである。(p13)
『完全版 自由論: 現在性の系譜学 (河出文庫) 』酒井隆史
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ダソンの自画像
キム一家の長男ギウ(チェ・ウシク)は友人のミニョク(パク・ソジュン)に金持ちパク一家の娘の家庭教師をやらないかとすすめられる。ミニョクは海外留学をすることが決まって自分の代わりに家庭教師ができる人物を探している。ギウは入隊前に二回、除隊後に二回も受験に失敗しているが、だからこそ受験については誰よりも詳しいだろうというのだ。それにその娘に手を出したりしないだろうし、彼女のタイプでもないだろうと思ったのだろう。ギウはそれを引き受けソウル大学在学の証明書を偽造し面接に出かける。
ギウは坂を上って高台の豪邸まで歩いていく。パク一家の妻ヨンギョ(チョ・ヨジョン)は証明書は見ずに、娘に教えているところを見せてほしいという。ギウはそれを引き受ける。パク家の娘ダヘ(チョン・ジソ)が英語の問題を解いている。だが一問解けなくて引っかかっている問題がある。彼女がそこに戻ろうとすると、ギウは彼女の手を取って脈を測り、動揺しているサインだと告げ、「これが第一問目だったらどうする。先に進めないままだ。受験は勢いが大事だ」とその引っかかっている問題を無視するよう説得する。それは、ギウが自分のことをどこか変だなと思っても勢いで採用してほしいという願望も含まれていて、そのことが無意識に伝わったのか無事採用される。ギウはミニョクに一家に幸福が訪れるという石をもらった時も「これは象徴的だ」と何度も言うが、彼の教え方も彼の状態を象徴している。キム家の四人は同じような手口でパク家のものを安心させて、その生活に入り込んでいく。彼らは台本を作りまるで地下の劇団のように打ち合わせと練習をしてパク家の信頼を得ようとする。
関連:ギウの石とグリーンブックの翡翠(手紙は届く(芸術の可能性について) グリーンブック - kitlog - 映画の批評)物語が動くのは、ギウがパク一家の写真の横に飾られている奇妙な絵に注目してからだ。その絵はパク家の息子ダソンが描いたもので、大きな目を見開いたような顔が用紙全体を占めている。ギウが何か分かった風に「これは芸術的だ。チンパンジーですか?」というとヨンギョは「自画像よ」といい、「なるほど、ダソンの感性は大人では理解しきれないほどだ」といって感心し、ヨンギョは「分かるのですか」と少し安心した風になる。ギウは「いい芸術の先生を知っている」といって、妹のギジョンに有能な芸大生の演技をさせる。ギジョンはダソンが精神分裂病で何か心に問題があると見破ったふりをし芸術療法が必要だといって、ヨンギョの信頼を得る。
ダソンについておかしなことはいくつもある。あの奇妙な絵を自画像だといっていること、インディアンの真似をしていること、天才のふりをしていること、トランシーバーにはまっていること、庭にテントを張ったことなどだ。ダソンの奇妙さがキム一家を引きよせているといっていいかもしれない。母のヨンギョはダソンのことを心配するあまりわけのわからない人物を信用してしまったのだから。ここで問題はダソンが奇妙な絵を自画像だと言っていることである。
ダソンがおかしくなったのは彼の誕生日の夜におなかがすいて台所でケーキを食べていると、地下室から目を見開いた知らない男が階段を上ってくるのを見たためである。その男はパク一家ともキム一家ともちがう、家政婦ムングァン(イ・ジョンウン)の夫グンセ(パク・ミョンフン)である。家政婦がパク家に秘密で誰も知らない地下室を夫の住処にしていたのだ。家政婦はパク家に内緒で夫に食べ物を与えていたり、パク一家が不在の時は夫を家にあげてくつろいでいた。ダソンはその男の顔を自画像として絵に描いているのだ。ダソンは誕生日の夜、地下室の男に見られることによって規律を与えられてしまったのではないか。パク一家の庭に象徴的にあらわれているような誰にも見られていない空間に異質で可視的な他者が自分たちを見ているのだ。その結果、ダソンはパク一家の中で唯一、貧しいものに想像的に同一化しようとしている。彼は地下の男を恐れていると同時に模範にしようとしている。彼が他にやってきた芸術の家庭教師は嫌ったのに、ギジョンにすぐなついたのもそのためだろう。また、キム一家のにおいの共通性に気づいたのもそのためだろう。
ダソンは富めるものと貧しいものの中間に配置されていて、両者を知り、調停することも可能な存在である。しかし、彼はまだ子供なのだ。それがこの映画の悲劇の素だろう。両者を知りうる人間に何の力も与えられていない。彼にできることといえば、皆を見ることと、将来起こる殺戮のシーンを自画像として描くことだけである。
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ダソンのパノプティコン
例えば、建築物が可視性であり、可視性の場であるとすれば、それは単に建築物が石の形態であるから、つまり物のアレンジメントであり、性質の組み合わせであるからではなく、何よりもまず光の形態であり、明と暗、不透明と透明、見られるものと見られないものなどを配置するからである。周知のページで、『言葉と物』はベラスケスの絵『宮廷の侍女たち』を、ある光の体制として描いている。この光の体制は、古典主義時代の表象空間を開き、見られるものと見るものたち、交換と反射をそこに分配し、絵の外として推論されるしかない王の場所にいたる。(中略)『監獄の誕生』の方は、監獄の建築を描くのである。見ることができずただ見られる囚人と、見られることなしにすべてを見る何らかの観察者を配置して、周辺の独房を光でみたし、中心の塔は不透明にしておく光の形態にほかならない〈一望監視装置〉を描くのである。(p92,93)
『フーコー』ドゥルーズ
パク一家はダソンの誕生日には外出することに決めていた。それはダソンが誕生日に地下の男を見てしまったからだ。パク夫妻はそれをダソンが幽霊を見たのだとパラフレーズしている。彼らは他のだれかがいることを知らない。今度の誕生日もキャンプに行く予定だったが、大雨のために途中で引き返すことになってしまった。ダソンはキャンプに行くことができなかったので、代わりに庭にテントを張り始める。あの誰もいなかった庭に自分が置かれることで見る見られるの関係を再構築しようとしているのかもしれない。ダソンのしていることは、地下の男を恐れると同時に真似をすることである。ダソンは地下の男が誕生日に出てくることを恐れて家の中にはいたくない。同時に、ダソンが地下の男の存在を知って「見る見られる」の関係を意識したように、自分の家族を見て何かの規律を与えようとしていると思われる。それはパク一家の内部にいながら外部にいることの真似なのだ。
ダソンが天才のふりをしているというのは姉のダヘの証言だ。「空を見てまぶしいフリをしたりして、ずっと空を眺めている」のだという。それはもしかしたら、地下室の男の地上へのあこがれを表現しているのかもしれない。同じようにインディアンのコスプレもこの中に虐げられたものがいるということの暗示だろう。彼がトランシーバーを使いたがるのも地下の男のモールス信号の模倣だろう。
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ダソンは誰にも見られていない空間の中に一つの監視装置を配置して、家族の変化を求めている。しかし、パク夫妻はそのことに全く気がつかない。パク夫妻はダソンが心配だから、庭の見えるソファで寝ようとする。はじめはダソンのことを意識してはいるが、テントでダソンの存在は隠れており、そのうち彼らは性行為を始め、まるでダソンがいないかのように振舞っている。ダソンの監視装置は用をなしていないのだ。パク夫妻に「誰かに見られているかもしれない」という意識を与えることはダソンにはできなかった。いっぽうで、そのすぐ下でテーブルの下に隠れているキム一家が「見られているかもしれないが絶対に見られてはいけない」という意識で隠れ、体を小さくし、その場を脱出するのだ。そして彼らは異常な大雨に見舞われる。雨は容赦ないトリクルダウンの様相を示し、すべての雨が最も低いところにある半地下の住宅に流れ込んでくる。キム一家の父ギテクは「計画しても無駄だ。誰が大雨で体育館に避難することを予想できただろう。」といい、これからは無計画に生きようとする。キム一家にとって計画とは演技と等しいものだった。彼らは台本を書いて演技の練習をしてパク一家の仕事をこなしていたのだ。とすれば、無計画とは演技をやめるということである。演技をやめるとは見られることを意識しないことだ。一連のシーンで監視装置は機能しなかったし、逆にギテクは見られることを意識するのをやめようとしている。ここでもダソンの無力さをあらわそうとしている。
見つめ、「写真にとる」ことで、主体を一種のスペクタクルに変えるこのまなざしは、サルトルやパノプティコンのまなざしという意味で主体を構成するのではない。むしろこの見られていること(まなざし)の非還元性が、わたしを表象のうちに構成しきれない残余として、秩序、主体の謎として私に取り憑く。あるいは本来的に表象に支えを持たないわたしに存在の裏地を与えてくれるというべきか。(p225,226)
『完全版 自由論: 現在性の系譜学 (河出文庫) 』酒井隆史
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インディアンの選択肢
インディアンの空想は、自分は高貴に生まれついているという思い込みで溢れている。彼の生も死も、自らの誇りを夢見るうちに過ぎていく。習俗をわれわれのそれに合わせようとするどころか、未開状態こそ種族の勲章であるかのようにこれに執着し、おそらく文明を憎悪するというより、ヨーロッパ人に似るのを恐れてこれを斥ける。(p270)
インディアンは彼の森の奥深く、悲惨な境涯にありながら、中世の貴族が彼の堅固な城の中でいだいていたのと同じ思想、同じ意見を温めているのである。両者を同じにするのに欠けているのは、インディアンが征服者となることだけである。(p282)
『アメリカのデモクラシー 第一巻(下)』トクヴィル
大雨の次の日、パク家ではダソンの誕生日パーティーが行われようとしていた。ヨンギョはサプライズで地下の男が出た時と同じ誕生日ケーキを芸術療法の先生のギジョンに出してもらうことで、ケーキの意味を変えてトラウマを克服させようとしていた。しかし、問題はケーキの記憶ではなく実際に地下に男がいることである。ドンイクはサプライズでギテクとともにインディアンのコスプレをしてダソンの前にあらわれて良いインディアンと悪いインディアンの対決をし、良いインディアンが勝つ、つまりダソンが勝つような芝居をしようといいはじめた。インディアン同士の戦いは一種の分割統治だろう。弱い者同士で競争させるという帝王学の教育かもしれない。ギテクは大雨のあとで演技をすることを、他人に見られることをやめようとしている。ギテクは打ち合わせ中にドンイクに「妻を愛しているか?」と尋ねる。ドンイクは二人の間に線を引くように少し怒って「今も勤務時間中だ、仕事だと思ってやってほしい」とプライベートには関わらずインディアンの演技に専念するようにいう。
そうこうしているうちに、インディアン同士の、弱い者同士の戦いが始まってしまう。キム一家と地下の男はすでに鉢合わせをしており、両方とも後ろ暗いことがあるのでお互いにお互いの弱みを握りあっている状態になり、結局どっちが相手側の口を封じるかという対決になってしまった。地下の男と家政婦は地下にいることが秘密だし、キム一家は全員が詐欺師であることが秘密だ。大雨の日に両者が戦って、キム一家が地下の男と家政婦を地下に閉じ込めた。その時、キム一家の母チュンスクは家政婦を蹴り飛ばして、階段の上から落とし、家政婦は頭を打ってその後死んでしまった。地下の男は妻を殺された復讐のために翌日のパーティーで地下から上がってきたのだ。
男は地下に下りてきたギウを石で殴って半殺しにし、ギジョンをナイフで刺し殺し、チュンスクを殺そうとしたところで逆にBBQの串で刺され動けなくなる。ギテクは家族がみな地下の男のせいでひどい目にあうのを止める間がなかった。パーティーで集まったパク家の友人はみな逃げようとしており、ドンイクも逃げようとしてギテクに車の鍵を渡せと要求した。ギテクは鍵を投げたが、運悪くその鍵の上に地下の男が倒れこんできた。ドンイクは鍵を取ろうとするが、男のにおいがひどく鼻をつまんでやっと取ろうとしている。ギテクの目の前には二人の男がいる。自分の家族をひどい目に合わせた地下の男とその男のにおいに耐えられず鼻をつまんでいる男だ。ギテクは地下の男がドンイクの会社の元従業員だと知っていた。男はドンイクをリスペクトしていて、毎日彼の帰宅に合わせて地下のスイッチを操作して階段の電気をつけているのだという。また、ギテクはドンイクから変なにおい、地下鉄にいるような、切り干し大根のようなにおいといわれていた。
インディアンにはヨーロッパ人に捨て値で自分の生活圏を売り渡すか、戦うかの選択肢しかない。ギテクは臭いといわれている者たちの誇りのために戦ってしまったのだ。彼はドンイクが言うようにインディアン同士の戦いをすることはできなかった。彼はドンイクを刺した。その後、カメラは奇妙な位置からギテクを撮りはじめる。何かが彼を見はじめたのだが、それが何なのかはわからない。
この殺人には一見して不可解さが残る。それゆえ貧困と犯罪の結びつきのイメージを強化するものになっているかもしれない。
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自発的な監獄のために
事件のあと、ギジョンは亡くなり、ギウとチュンスクは裁判にかけられ執行猶予がついた。ギテクは逃亡中である。ギウは頭を打って警察官に見えない警察官、医者に見えない医者、ギジョンの遺影を見て笑っているが、演技をしているものとしていないものの区別がつかなくなっている。あるいはパク家の誕生日会でのお金持ちたちの自然さを普通だと思っているのかもしれない。ギウは父のニュースを見て少し正気を取り戻す。ギテクが逃亡中でどの監視カメラにも映っておらず事件は混迷を極めているといったような内容だ。ギウには当てがあった。彼は警察が父の捜査で尾行している期間が過ぎるのを見計らって、パク一家が住んでいた豪邸を見ることができる山に登る。庭以外にその家を覗くことのできる場所があったのだ。彼は父が電灯の明滅を利用したモールス信号でメッセージを送っているのに気づく。ギテクはあの豪邸の秘密の地下に隠れている。
父はかつての地下の男のように誰とも知らぬ相手にメッセージを送っている。それが誰かに見られているとは限らないのだ。ましてやモールス信号で使われているのは私邸の階段の一つの電灯である。ほとんど誰にも見られない場所にメッセージを送っているが、それは確実に家族に向けて送られている。ギテクはそこで自分がどういう生活をしているかを伝えている。元の死んだ家政婦は庭に埋葬し、今住んでいるドイツ人の一家に見つからないように、冷蔵庫から食物を少しずつ盗み出すというネズミかゴキブリのような生活をしている。彼は半地下住宅の窓を開けて消毒薬を入れて自発的なガス室を作ったように、自発的な監獄を作ってしまった。おそらく出てきて裁判を受けた方がましなのに(この映画には外に出るべき街頭がない)。ギウはいつか大金持ちになってその豪邸を買い取り、父と再会することを夢見ている。それは演技者本人と演技の内容のようにどこかずれている。彼が妄想する半地下住宅はとても暗い。それは父のいる地下と呼応しあっている。おおっぴらに外に出ることのできない地下室がギテクを無能にする。それは半地下も同じである。
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