90年代からの亡霊 シン・ゴジラに関するメモ
第40回日本アカデミー賞の授賞式が3月3日、東京・グランドプリンスホテル新高輪国際館パミールで行われ、「シン・ゴジラ」が最優秀作品賞、最優秀監督賞をはじめとする7冠に輝き、幕を閉じた。総監督の庵野秀明はスケジュールの都合で欠席したが、樋口真嗣監督が顔を朱に染めながら精いっぱいの喜びを伝えた。
東宝が12年ぶりに製作し、興行収入80億円を突破する大ヒットを飾った「ゴジラ」映画が、日本アカデミー賞を席巻した。最優秀作品賞、最優秀監督賞のみならず、技術部門も軒並み戴冠し、5部門に名を連ねた。同作のエグゼクティブ・プロデューサーを務めた東宝の山内章弘氏は、ブロンズを抱え「こんなに重いとは思いませんでした。特撮、怪獣、シリーズものってジャンルの中に押し込めようとするなかで、こんなに評価して頂いてありがとうございます」と相好を崩した。
【第40回日本アカデミー賞】「シン・ゴジラ」が作品賞含む7冠! : 映画ニュース - 映画.com
(2016映画ベスト10|kitlog)去年のベスト10では『君の名は。』とともに『シン・ゴジラ』の名前も挙げているが、評価は保留していた。映画内のある一言が気になっていたためだ。それは映画全体を支配しているように思える。『シン・ゴジラ』はまさに21世紀、2010年代の怪物だろうが、この映画ではそれに対抗して90年代の亡霊が彷徨っている。矢口蘭堂(長谷川博己)は自虐混じりに「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という。この発言は日本ではリーダーが誰になっても同じであると言いたいのだろう。リーダーが誰になろうとそれを支える官僚やスタッフがいれば、政治は機能すると言いたいのだろうと思う。そうであれば、リーダーの代わりはいくらでもいて、それはすぐに見つかるというわけだ。映画ではゴジラの熱線で死亡した総理の空白を埋めた里見臨時首相(平泉成)は外国に頭を下げただけでほとんど何もしていない。実質、矢口が技術者を率いてシン・ゴジラを凍結させた。そこには仕事以外の何かは存在しているとは思えない。
これと似たような態度を最近目にした。
元々私自身は超個人主義者で、社会問題に対してはほぼ関心がない。右も左もなく、「何が起ころうが、自分が荒波を乗り切るだけの能力をつけておけばいい」としか考えていない。正直、「なるようになれ」としか思っていないのだ。
「これまでの記事を撤回したい…」沖縄で私はモノカキ廃業を覚悟した(中川 淳一郎) | 現代ビジネス | 講談社(2/5)
「オレは多分、この11年間で12万本以上のネットニュースを編集したけど、沖縄に来て、すべてがぶっ壊された感覚を味わってしまったんだ。いかに浅い知識をもとに、編集という本来は重い業務をやってきたのか、と。
もちろん沖縄絡みの記事も編集してきたし、ツイッターでも沖縄について軽口を叩いてきた。だけど、今、こうしてこの地にいて色々な話を聞くと、これまでの沖縄記事を全部撤回したい気持ちになったし、もっと言うと、ほぼ全部の記事を撤回したい気持ちになった。
編集者って、すごく重い仕事だっていうのに、毎日毎日、ただ数をこなすように仕事をしていたことが実に虚しくなってしまった。オレはほとんどの分野において専門家ではないのに、一体これまで何をやっていたのかね……。もうオレは廃業しなくちゃいけないのかな」
「これまでの記事を撤回したい…」沖縄で私はモノカキ廃業を覚悟した(中川 淳一郎) | 現代ビジネス | 講談社(5/5)
これは理想なき現場主義だろう。何が起ころうが(リーダーが誰に代わろうが)、仕事をするだけという態度は容易に官僚主義に安住してしまう。官僚主義は徹底して経験主義かつリアリズムであり、それは見かけの上の現状維持とシニカルな態度にしか繋がらない。(これは現在(2017年3月)上映中の『モアナと伝説の海』のオープニングCGアニメ『インナー・ワーキング』で表現されている。)
思考の分野では、リアリズムは事実の認識とその原因結果の分析とに力点をおく。そこでは、目的の役割は重くみられないで、思考のはたらきは事態の生起――思考が影響をあたえることも変革することもできない事実――を研究することであることが明に暗に強調される。行動の分野においては、リアリズムは、現に活動している諸勢力の抵抗しがたい強さとか実際の諸動向の必然性を重視し、それらの勢力や動向を容認して自らも順応してゆくことが最も懸命な態度であると主張する。このような姿勢は、それが「客観的」思考であるとしてとられるとしても、結局は思考そのものの枯渇となり行動の空しさとなるのがおちであろう。(p34)
『危機の二十年』E・H・カー
リアリズムに対抗するのはユートピアニズムだが、『シン・ゴジラ』はユートピア的な発想を排除した徹底したリアリズムの映画である。そこでは「ゴジラが現代に実際にあらわれたらどうなるか」というシミュレーションの一つが端的に表されている。そのような徹底したリアリズムの状況や思考が矢口に「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」と言わせるのではないかと思う(「ダメなリーダーしか出てこないな」と言わせてもいいわけだから)。もしもリーダーが理想を、リアリズムに対抗するユートピアを語ることができるという存在と認識しているならば、リーダーがすぐに見つかるとか誰でもいいとかいう発想は生まれてこないだろう。そのようなリーダーまたはユートピアに対する軽視は容易に政治的な不安定さを招くだろう。リーダーは誰でもよく、自分は仕事をするだけという発想なのだから。自分だけは荒波を乗り切っていけばよいのだからそれ以外のことには無関心になれる。最初に『シン・ゴジラ』を観た時の感想で(嗚呼、東京 シン・ゴジラ|kitlog)東京がかわいそうだと書いたのだが、今になって思えばそれは東京都知事の交代をめぐる悲劇を頭に描いていたのかもしれない。おそらく日本には保守や革新といった政治上の対立項は存在せず、政治的に安定か不安定かという対立しか存在しないのではないか。政治的安定をもたらすものは言うまでもなくリアリズムとユートピアニズムの調和である。
90年代のことは、あまり自分の感覚として政治がどう変わって思想や考え方がどう変わったかという肌感覚はない(あまり覚えてない)のだが、日本の政権運営の不安定さが初めて露呈したのがその年代だろう。バブルが崩壊したあとで現実主義者が目立っただろうと推測するが、手もとに特に資料はない。ただ、リアリズムだけでは思考の放棄を招くのは確かである。(初代『ゴジラ』であれば芹沢教授は日本に核が落とされたあとで、ゴジラにそれ以上の兵器「オキシジェン・デストロイヤー」を活用するのは必然的に更なる戦争を招くとして現実的に考え使用しないことを決め、尾形と恵美子の説得を頑なに拒否するが、後に偶然テレビから流れてきた少女たちの「平和に対する祈り、合唱(ユートピア)」に心を動かされてその使用を一度だけ認める。)
9/10/2020
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