足のないアンドロイド パッセンジャー
20××年。新たなる居住地を目指す“人類移住プロジェクト”として、5000人の乗客<パッセンジャー>を乗せた豪華宇宙船アヴァロン号が地球を出発。目的地の惑星到着まで120年、冬眠装置で眠る安全な旅であった。だが乗客の中で、なぜか二人の男女だけが90年も早く目覚めてしまう……。エンジニアのジム・プレストン(クリス・プラット)と作家のオーロラ・レーン(ジェニファー・ローレンス)は、絶望的状況の中でお互いに惹かれ合っていく。そんななか、彼らはなんとか生きる術を見つけようとするが、予期せぬ出来事が二人の運命を狂わせていくのだった……。
パッセンジャー | 映画-Movie Walker
(映画 『パッセンジャー』 予告 - YouTube) |
アンドロイドといえば去年『エクスマキナ』という映画があった。ある研究所にエンジニアの男が連れてこられ、アンドロイドの人工知能の性能をテストさせ…というものだ。男は女性型アンドロイドをテストしてるつもりだったが、実はそのアンドロイドに利用され、人間は窓のない研究所に閉じ込められアンドロイドはそこから出ていってしまう。シンギュラリティーの比喩なのだろうと思う。アンドロイドの造形などは素晴らしいと思ったのだが、アンドロイド自体が完璧すぎるというか、ほとんど人間に近く見えて、それがストカスティックな言語処理をしているとかどうでもよくなって、結果的に人間とアンドロイドの問題というよりも女性差別問題とか奴隷問題の方がクローズアップされてしまったように思う。この人間に近すぎるというのが重要だ。人間に近すぎるとはどういうことなのか(劇中ではウィトゲンシュタインやジャクソン・ポロックを暗示していたが)。
巨大な岩石をシールドで完全に防ぐことはできず、それは宇宙船のシステムの一部を毀損しシステムのエラーが一人の乗客を旅の途中の目的地の大分手前で起こしてしまう。それがジムなのだが、彼は5000人いる乗客のなかで唯一目覚め、そのことを受け入れ適応しようとして最初は宇宙船の設備を利用して快適に暮らそうとするが、孤独が彼につきまとう。唯一の話し相手はバーテンダーとして設計されたアンドロイドのアーサー(マイケル・シーン)だが、孤独を埋めるには何か物足りない。アーサーは上半身だけは人間のようだが足は工業用の機械のように機械がむき出しで地面にレールでもあるかのように滑らかにスライドをしてバーでの役目を果たしている。ジムは冬眠装置のマニュアルを探し出し、偶然見つけた女性を起こそうとしていると、起こすべきかどうかと、起こしてもいいのかどうかとアーサーに話を聞いてもらう。そして結局彼は一人でいることに耐えきれずに自殺を失敗した後にオーロラを強制的に冬眠から起こしてしまう。当然そのことは彼女にバレてはいけない。彼女は本当はあと90年眠っているはずだったのだ。そして別の惑星に到着し小説を書いて地球に戻るつもりだった(250年ほど先の未来に彼女の小説を読む人がいるのかとジムは冗談交じりに問いかけるが)。ジムはアーサーに言う。「自分が彼女を故意に起こしたことは秘密だ」と。
『哲学探究』が論じている主題の核をなすのは、「言葉の意味は何か」という根源的な問いである。『論考』でのウィトゲンシュタインは、すでに見たように、言葉というのは、世界のあり方、すなわち事態を写し取るものであるという発想を抱いていた。一方に世界の実在があり、他方に言葉や命題があり、それらが対応していること、そこにおいて言葉は意味を持つと考えられていたわけである。こうした言語観には、すでに述べたように、「誰」とか「いつ」といった、私たちの日常言語あるいは日常会話にとってあまりに基本的な要素がうまく位置づけられないという弱みがあるように思われる。つまり『論考』では、世界と言語だけが、いわば世界に生き、言語の語り手でもある私たち人間とは切り離されて論じられていたのである。(p215,216)
『英米哲学史講義』一ノ瀬正樹
『エクスマキナ』でのアンドロイドは『論理哲学論考』と『哲学探究』との間の壁を簡単に超えているように見える。彼女は意味を理解し、人間を騙す術まで心得ている。それに比べると『パッセンジャー』のアーサーはその境界線上にいるように思う。アーサーはジムが言った約束を守ることができないのだ。アーサーはオーロラにジムの秘密を教えてしまう。しかし、アーサーはオーロラに「ジムが故意にオーロラを起こした」と言ったのではない。アーサーはオーロラに向かって「ジムはあなたを起こすべきかどうかずっと悩んでいました、ジムはあなたと会うのを楽しみにしていました」と言ったのだ。アーサーは直接にはジムがオーロラを起こしたことを言っていないが、ジムがオーロラを起こしたことを限りなく黒に近いかたちで疑われるようなことを言ってしまった。アーサーにはジムが言った秘密の意味する背景が分かっていなかった。オーロラはその事実を確かめると呼吸困難になったように動揺しジムを責め、恐怖と怒りを露わにする。ここで現われる恐怖は二つの意味をもっているように思う。それはオーロラがジムに対してもつ恐怖、それとアーサーの中身が空っぽであり人間の形をしながら人間でないという恐怖である。その恐怖感がジムの孤独を増幅したことは想像に難くない。
機械が知能を持つというとき、我々はデネットが「志向的スタンス(intentional stance)」(Dennett,1973,p246)と呼ぶよりは、強い立場をとっている。デネットによれば、コンピュータに対して志向的スタンスをとるとは、「純粋な物理システムがあまりに複雑で、それでいて組織化されているとき、あたかもそれが信念や欲求をもち、合理的にふるまうかのように扱うことが、説明の上で、あるいは行動を予測する上で便利である」ということにすぎない。しかしシステムが(形式的な意味での)合理性をもつものとして扱うことは、あたかもそれが信念や欲求をもつかのように扱うこととは全く別の問題である。(p171)
……状況と機会に対する相対性こそが、会話の本質である。どんな言明でも、言語的あるいは論理的構成のみで意味が確定することはありえない。すべては動機づけられているのである。各言明の背後には問いがあり、それが第一義的に、意味を付与しているのである[Gadamer(1976),pp.88-89]
ガダマー、ハイデガー、ハバーマスらの論点は、たとえ「字義的」にせよ、意味を真偽条件に還元することは究極的に不可能であり、間違った方向であるという点にある。そのような見方は言語の副次的・派生的な側面(例えば数学的真理の陳述)に気をとられており、意味とコミュニケーションという中心的問題を無視している。解釈の役割をなくしてしまうと、残されるのは意味の本質ではなく、抜け殻である。(p182)
『コンピュータと認知を理解する』テリー・ウィノグラード フェルナンド・フローレス
アーサーにはジムの言った秘密がどういう類のものか分かっていなかった。それは彼が言ったことを言わなければ秘密を守ったことになるという問題ではないのだが、アーサーにはわからなかった。ジムとアーサーはコミュニケーションは表面上できていたが、背景を共有することはできなかったのだ。ジムとアーサーは同じ地平(horizon)に最初から立っていなかったのだ。アーサーに足がないことがこのアンドロイドが人間と同じ地平にいないことを象徴している。アーサーは同じ場所にいながら別の地平に立っているのだ。
真面目な意図の質問なら、その質問が該当する、目的や了解の背景(ガダマーによれば「地平」)が存在する。「豚は翼を持てるか?」と聞かれた場合を考えてみよう。分析的伝統に属する相手なら、その突拍子のなさに戸惑いつつも、現在の遺伝子工学の進展からみて、そのような可能性を否定できずにいることだろう。もちろん、「そのようなものはもはや豚と認めることはできない」と言い返して質問を退けることはできる。しかし質問が真面目だとすれば、論理的な可能性とか、「豚」の正確な意味とかが問題にされているのではない。質問者はある背景から、ある理由で聞いているのであり、適切な答えは(「冷蔵庫に水はあるか」への適切な答えと同様に)その背景に即したものでなければならない。(p170)
『コンピュータと認知を理解する』テリー・ウィノグラード フェルナンド・フローレス
アンドロイドは秘密を守ることができるだろうか。物語の結末に宇宙船内に楽園ができあがるが、そこにエンジニアのジムが改良した足のあるアーサーが登場し、120年眠っていた乗客たちに対して「Hi」と呼びかけるものだったら。
9/10/2020
更新
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