神話的カーテン すずめの戸締まり
九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、ぽつんとたたずむ古ぼけた扉。なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが…。
扉の向こう側からは災いが訪れてしまうため、草太は扉を閉めて鍵をかける“閉じ師”として旅を続けているという。すると、二人の前に突如、謎の猫・ダイジンが現れる。
「すずめ すき」「おまえは じゃま」
ダイジンがしゃべり出した次の瞬間、草太はなんと、椅子に姿を変えられてしまう―!それはすずめが幼い頃に使っていた、脚が1本欠けた小さな椅子。逃げるダイジンを捕まえようと3本脚の椅子の姿で走り出した草太を、すずめは慌てて追いかける。
やがて、日本各地で次々に開き始める扉。不思議な扉と小さな猫に導かれ、九州、四国、関西、そして東京と、日本列島を巻き込んでいくすずめの”戸締まりの旅”。旅先での出会いに助けられながら辿りついたその場所ですずめを待っていたのは、忘れられてしまったある真実だった。
映画『すずめの戸締まり』公式サイト
(映画『すずめの戸締まり』予告②【11月11日(金)公開】 - YouTube) |
『天気の子』にあって『すずめの戸締まり』にないもの
(全ては太陽を隠すために 天気の子 - kitlog - 映画の批評)
新海誠監督の『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』は二〇一一年の東日本大震災を受けてつくられている。(【3.11】『君の名は。』新海誠監督が語る 「2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきた」 | ハフポスト NEWS)『天気の子』は主人公の穂高が、東京が大雨で沈むか、大雨を止ませるために陽菜を人柱にすることを黙認するかの選択を迫られる。最終的に穂高は後者を選び、陽菜は救われるが、東京には雨が降り続き多くの土地が海に沈んでしまう。それは、少数を犠牲にして繁栄する社会や都市に対する若者の反抗の一つの表現だったが、選択の影響力がとてつもなく大きかったために無責任なようにも見える。ただ、震災時に核燃料のメルトダウンと水素爆発を起こした福島県の原子力発電所の事故は、十年以上を経た現在でも住民の帰還や復興の妨げになっている。一時期には、東京が安全圏から福島県の原発の電気を消費していたことに批判が起こり「東京に原発を」などといわれたが、それは東京の無責任を問う声だろう。実際に東京が無責任かについては賛否があるだろう。(半島の原発を大地震が直撃したら… 四国の震度6弱で避難リスク再燃 「逃げ場がなくなる」能登と同じ構図:東京新聞 TOKYO Web)この映画で東京にかつてない大雨が降ることは、福島県での原発事故のように、誰かの無責任の代償を別の誰かに支払わせることと同じ意味だろう。大雨はそのための力として、原発事故や東京の無責任を許す権力に匹敵するものとして働いている。穂高の無責任の代償を東京が払う。穂高が東京の沈没の回避より陽菜を選んだことを知っているものは少数だが、そのうちの誰も彼の責任を問わない。
不正義を是が非でも取り除くことを欲する人たちは、つねに平和を危機にさらすという道徳的に不利な立場に置かれる。特権集団は、たとえ正義への努力が最も平和的な枠組みにおいてなされたとしても、道徳的に不利な状況に自分たちを置くことになるであろう。彼らの主張にしたがえば、辛うじて保持されている均衡を乱すのは危険である。そして彼らは、こうした正義への努力の結果がアナーキーを生じさせることを推測し、それを恐れるふりをするであろう。平和への彼らのこうした情熱は、つねに自覚的に不誠実であるとは限らないであろう。社会で格別な特権を保持している人たちは、おのずと自分たちの特権を自らの権利と見なしがちであり、それほどの特権に与っていない人々に不平等をもたらす結果については配慮しなくなる傾向にある。こうして彼らは、不正義に対して自然に自己満足的になってしまう。不正義を内に含むものであっても、平和を乱すいかなる試みも、それゆえに正当化できない不満分子から派生するように彼らには思われるだろう。
さらに特権集団の場合、自分たちの特権を保っている暴力や強制力についての自覚は部分的なものにとどまり、したがって彼らに反対する人たちによる強制力の使用ないし暴力の威嚇についてはとくに手厳しくなってしまう。彼らの使用する強制力は、経済力という暗黙の力か、あるいは国家の警察力である。(p216,217)
『道徳的人間と非道徳的社会』ラインホールド・ニーバー
二〇一九年の『天気の子』で、東京は雨に沈んだが、それでもまだ、そこから復興に向かう人々の姿が描かれていた。それは、楽観主義なのか、東京に対する信頼なのかわからないが、ともかく雨に沈んだ土地でクレーンなどの重機が動き、水上用の別の移動手段が使われ、人々は標高が高い土地に住みはじめるなど、当然のことのように復興が描かれていた。そのような描写は二〇二二年の『すずめの戸締まり』にはない。そこでは廃墟が重要なテーマとなっており、廃墟とはつまり、復旧や復興がなされず人がいなくなってしまった場所だ。震災から約十年が経ったが、『天気の子』で見られたような災害が起きても(復興するから)「大丈夫」という状況にはならなかった。そのことが映画に強く反映されている。『すずめの戸締まり』で描かれる東北は、災害の瓦礫が撤去された後のむき出しの土地に雑草が生えただけの場所だ。登場人物の一人はそこを「ここはこんなにきれいだったんだ」というが、そのきれいはそこに震災の瓦礫がないくらいの意味でしかない。
もちろん災害にあった土地が単に放置されていたわけではない。ただ、思ったようにはならなかった。母が震災で亡くなって孤児になったすずめを引き取った環が、すずめがいたせいで結婚できず思ったような人生を歩めなかったとすずめに糾弾するが、後に謝って、この十年にあったことはそれだけじゃないというシーンが復興のあり様を暗示している。
「住む所も病院も学校も、働く所もない。放射能もあるのに帰れるわけがない」。震災直後は帰りたがっていた息子は16歳になり、「放射線量が気になるので帰りたくない」と話すという。
復興の姿、想定より「悪い」49% 被災3県の住民調査:朝日新聞デジタル
地震が起こらないだけの精神的勝利
(映画『すずめの戸締まり』予告②【11月11日(金)公開】 - YouTube) |
『君の名は。』、『天気の子』、『すずめの戸締まり』ではそれぞれ天災が主人公たちを襲う。『君の名は。』では隕石の落下が、『天気の子』では大雨による水害が、『すずめの戸締まり』では地震が起こる。ただ、『すずめの戸締まり』だけは災害の様子が違う。『君の名は。』の隕石の落下に何か原因、あるいはそれを誘因するようなものはないし、『天気の子』でも大雨の原因はぼかされている。『天気の子』では龍神のようなものが描かれるが、少なくともその原因は社会とは接続していないものだ。『すずめの戸締まり』では、地震の原因としてミミズが描かれている。ミミズがなぜ生じているのか、どうやって存在しているのかもわからないが、今回は人間側の社会的な要因として、廃墟が存在していることがミミズをこちら側の世界に呼ぶ要因になっていると説明される。人のいなくなった土地では後ろ戸が開いて、そこからミミズが現れる。すると、これまでの二作とは話が違ってくる。解決策が二つあるのだ。つまり、ミミズを退治するか、廃墟をどうにかするかの二択である。
大政翼賛会の成立過程は日本の政治史上の一時期としてどのような意義を持つものであろうか。(略)第二次近衛内閣は翼賛運動の母線に沿って新体制樹立計画をすすめようとしたが、企画院の経済体制改革案は、財界のつよい反撃を蒙り実効を挙げえず、また、官吏制度、議会制度のその他の政治体制上の改革も、官僚、右翼団体、旧政党など諸勢力の牽制をうけて挫折、かくて翼賛運動は精神運動化の方向を辿り、近衛は議会で、「翼賛会は政治結社ではなく、公事結社である」と言明するにいたった。
『第二次世界大戦外交史(上)』芦田均
ミミズを退治することと廃墟をどうにかすることは、前者が精神的解決、後者が物質的な解決と呼べるだろう。ミミズを退治することには、その土地で暮らしていた人たちに思いをはせ、魂を鎮めるといった精神的な要素が重要とされる。そうして後ろ戸から出てくるミミズをうまく退けることができたら、その地域に地震は起こらない。けれど、その土地に人が返ってくるわけではない。それはまた別の人の仕事だという風に「閉じ師」はそこから去っていってしまう。終盤に『もののけ姫』でデイダラボッチに首を戻したあとのような自然の回復を描いても、そこには誰もいない。こうして廃墟はそのままそこに残され物質的な解決は延期される。すずめは一番最後に最初の常世のシーンに戻り、十年前の子供の時分に向かって語りかけるが、大きくなった彼女は別の可能性について語らない。何らかの物質的な解決がなされるような別の可能性については、その円環の外にあり、締め出されている。ループものでありがちな何かを学んで次のループへということがなされない。復興がなされなかったことは、閉じたループの中で何か運命的なことでもあるかのように格上げされてしまう。
廃墟に精神的にかかわるだけで、廃墟がうまれた物質的な条件についてはこの映画で誰も踏み込まない。そのため、おかしなことに、最後に向かった東北の地ですずめたちはそこに住んでいる誰とも出会うことがない。「いってきます」「ただいま」「おかえり」といったような薄い生活の痕跡があるだけで、その影のような人々は何も主張しようとはしない。そこでは物質的な解決の手がかりさえ見出すことができない。物質的な解決を最初から断念したせいで、前二作にあったような政治的な権力の問題も表現から消えてしまった。『君の名は。』では、手荒なやり方だが、未来の危機を知っている少数の人がどうやって多数の人を動かし、それに対処するかについて描かれていた。『天気の子』では、拳銃と雨という形で力が二重になっていてややこしいが、上のニーバーの引用のように、社会がいかに現状維持のために抵抗するかが描かれていた。しかし、『すずめの戸締まり』では東北にほとんど人が誰もいないので、そのような力関係や政治的な関係といったものが見られない。廃墟と決められた場所はそう決められた所与のものとして、そこから状態が変化する可能性を見出せるようになってはいない。それを裏書きするように「閉じ師」は人に気づかれないことを美徳としており、主人公たちは誰とも関わらないし、人に気づかれるようなことをしてはならないのだろう。
では、この映画は積極的には何を描いたのか。
震災の死者という重し
(映画『すずめの戸締まり』予告②【11月11日(金)公開】 - YouTube) |
アングロ‐サクソンの言語哲学の内部では、虚構という話題は通常次のような陳腐な問いに結びつけられて出てくるのである。すなわち、「『グラッドストーンはイギリスで生まれた』という文と『シャーロック・ホームズはイギリスで生まれた』という文の両方が真である場合、真理について何を言わなければならないのか」という問いがそれである。
虚構的真理に関する哲学にとって重要なのは、この問題の解決が真理一般についてどう言うべきかを決定するのに果たしている役割なのである。もし真理が「実在への対応」ならば、ひとつの問題を抱えることになるだろう。つまり、さっきの二番目の文が対応する実在とは何か、という疑問が生じてくるのである。また、もし真理が逆に「保証された確言可能性」だとすれば、問題は一見最初のものより易しく見える。われわれはただ、各々の文を確言することに関わっている、状況とか、慣習とか、前提とかを明確にしさえすればいいように思えるのだ。(p330、331)
『プラグマティズムの帰結』リチャード・ローティ
この映画で行われるのは、物質的解決(の表現)でなく精神的解決(の表現)である。この映画の企画段階では、女性二人のダブル主人公ものが用意されたそうだが、公開した映画もその影響下にあるように思われる。それは、すずめと環の物語である。彼女たちに重くのしかかっているように思われる、すずめの母の死についての物語である。すずめは時折、環からくるLINEを見て「うわっ、環さん重いなー」といったりするのだが、実際に重いのは環ではなくすずめの母の死なのだ。環はすずめを育てるという交わしていない約束を守るのに必死なだけだ。すずめの母は環にもう十分だとも何ともいってくれない。すずめの母の死は再現なく環と間接的にすずめの中に膨らんでいく。この映画はそれを何とかしようとする。その重しは要石という形で描かれる。ダイジンとサダイジンはすずめの母の死の重たさそのものである。
(映画『すずめの戸締まり』予告②【11月11日(金)公開】 - YouTube) |
すずめは要石であるダイジンを廃墟で抜いて、ダイジンは要石の役割を閉じ師の草太にうつす。草太は椅子に姿を変えられ、すずめは草太を元に戻すためにダイジンを追いかけることになり、勢いのまま自分が住んでいる町を出ることになる。ここでは、すずめが町を出ることと要石を抜くことが関連して描かれている。ダイジンはすずめにとっての母の重しである。それを抜くことができたのは、すずめが見た夢の中で見た人物と似た人が現実に現れたからである。すずめは最初、夢の中の人物を死んだお母さんだと思っていたが、草太との出会いで違うかもしれないと思い始める。なぜかわからないがすずめが夢で見たのは草太かもしれないと思い始めて、母親への思いと草太に対する興味が混線してしまう。草太がすずめの母が作った椅子になるのは混線の表現である。草太に対する興味が増えた分、母親に対する思いは少し減ってしまう。母親の重しがとれようとしている。草太がダイジンに椅子にされてしまうが、ダイジンと椅子の追いかけっこはそのすずめの興味をめぐる競争である。
すずめが椅子になった草太のことを「草太のいない世界が怖い」といって、死んでほしくなかった母と並んで現在形で死んでほしくない存在と認識した時に、草太は要石に変えられてしまう。これは環の人生の再現なのだろう。環は好きな人とすずめの母とを天秤にかけてすずめの母の方を選ぶことにした。そしてすずめをほとんど無限責任という形で育てることになってしまった。類似して、すずめはダイジンのことを「うちの子になる?」といって拾うのだが、草太が要石になって天秤にかけたときにダイジンを拒絶する。環がすずめを引き取ることと、すずめがダイジンを拾うことが同じかといわれると違う気がするのだが、このことがこの映画の混乱の材料になっている。すずめのことを心配して環も自分の住む町を出てしまい、おそらくサダイジンもその時に要石を抜けてしまう。すずめがダイジンを拒否したようには、環はサダイジンを拒否できず、サダイジンという死んだすずめの母の重しを環はしっかりと背負いながら、死んだ母から離脱しようとするすずめを糾弾しようとする。環はそうやってすずめにいったことで、亡くなったすずめの母から離脱を始めている。環は、すずめにそういうべきではなかったと思い始めたからだ。おそらくそれはすずめにではなくてすずめの母親に言いたかったことだ。環はすずめに「そのことだけを考えてたわけじゃない」と謝り、自分の中のすずめの母親以外に関する部分を取り戻していく。最終的にダイジンがすずめの母が亡くなった土地まで連れて行ってくれるのだが、そこですずめが探しているのは、母親に関する何かではなくて、草太、つまり好きな人である。それを環も肯定する。おそらくそこにはもう死んだ母親は重しという意味では存在しない。彼女たちは、その重しを死者の国に返して戸を締める。
(映画『すずめの戸締まり』予告②【11月11日(金)公開】 - YouTube) |
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