全ては太陽を隠すために 天気の子

「あの光の中に、行ってみたかった」
高1の夏。離島から家出し、東京にやってきた帆高。
しかし生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、
怪しげなオカルト雑誌のライター業だった。
彼のこれからを示唆するかのように、連日降り続ける雨。
そんな中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は一人の少女に出会う。
ある事情を抱え、弟とふたりで明るくたくましく暮らすその少女・陽菜。
彼女には、不思議な能力があった。

映画『天気の子』公式サイト

天気の子
(映画『天気の子』スペシャル予報 - YouTube

混ざらなくなった記号

カーストや身分制度の厳しい社会には、流行は存在しない。人びとの諸階級への割当が徹底しているために、階級移動がまったくおこなわれないからだ。この移動の禁止が、記号を保護し、記号の意味を完全に明白なものにしている。誰もが疑問の余地のないやり方で、ひとつの地位を割当てられるのである。典礼においては――黒魔術や供犠を別にすれば――模造は不可能であり、それゆえ記号を混ぜあわせることは、事物の秩序そのものにたいする重大な違犯として処罰されることになる。最近とくに見られることだが、現代社会に生きるわれわれが、確実な記号の世界や強力な「象徴的秩序」の存在を夢想しはじめているとしたら、そのような幻想は捨ててしまわなければならない。(p119)

象徴交換と死』ボードリヤール

この映画では『君の名は。』のような、違う性質のものが効果的に対比して描かれるということがなくなってしまった。都会と田舎、男と女、過去と現在、生存者と死者、といったような対極的なものどうしが、作品のモチーフである糸のようにからまりあい、それが見る人に自由を与えるということは描かれない。『天気の子』は自由を正面から描こうとしながら、それに失敗している。むしろ、記号を閉じ込めようとしているのではないかとさえ思える。それは似たような人物、雨でくすんだ似たような風景が延々と続いて退屈であることと無関係ではない。太陽が描かれる瞬間だけがこの映画の救いだが、それは積極的に隠されようとしている。朝日は新しいものを告げようとし、夕日はあるものの終わりを宣告するが、この世界はそれらを全て拒否している。この映画は停滞の可能性しか描かれておらず、作られた定常状態に向かうだけの窮屈なものだ。この映画に描かれたものはその定常状態を完成するための仕組みである。最後にあらわれた江戸のような東京のイメージもそのためだろう。それは可能性に厚い雲によって蓋をされたイメージである。

幕藩体制の指導的政治理念は静的なものであり、平和と秩序の維持ということであった。社会は支配者と被支配者とにはっきり分けられており、後者は主として農民であった。支配者たる武士階級は農民を主に、土地を耕し、自分のために租税を生み出す道具であるとみなしていた。その代わりに、この体制がうまく作動しているときには、農民は僅かながら、少なくとも経済的安定と政治的正義という利益を享受したのである。厳しい倹約令をはじめとし、一六三九年から一八四五年(中略)までの鎖国、即ちほとんどすべての対外的接触の遮断に至るさまざまな工夫によって、支配者は当時の既存秩序を下から侵食しうるあらゆる勢力を、できる限り抑圧しようとした。(p14)

独裁と民主政治の社会的起源(下)』バリントン・ムーア

天気の子
(映画『天気の子』スペシャル予報 - YouTube

貧困者向け広告のパレード

『君の名は。』にあった田舎と都会といった記号の対比、交わりはこの映画にはない。この映画で描かれるのは雨でくすんだ薄汚れた東京だけである。『君の名は。』で都会と対比的に描かれた鮮やかな原色の田舎の風景の代わりを、『天気の子』ではかろうじて広告が担っている。新宿の風俗のラッピング広告からはじまって、サインやネオン、スナックやカップラーメンなどが、くすんだ世界に原色の彩りを提供している。けれども田舎の風景に三葉がいたのと同じように広告を代表して誰かがいるわけではない。それはこの映画では雲の上の世界と同じように空っぽで実体を持たない。広告は貧困のイメージ以上のものを持たず、それはくすんで薄汚れた東京を覆い隠すために存在しているに過ぎない。広告のある風景は『君の名は。』のように踊ることはできない。それはそこを取り繕って、せめて鮮やかには見せようと留まっているだけである。

天気の子
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「もしかして…」会話的独り言は単なる独り言に

たしかに、この秩序はかつて存在していた。それは無慈悲なヒエラルキーの秩序であった。記号の透明さは残酷さと結びつくものなのである。カースト社会、封建社会、古代社会などの残酷な社会では、記号の数は制限されており、全員にゆきわたることはなかった。各人は禁止されたものとしての自己の価値を十分に自覚し、カーストや部族や仲間たちの間でお互いに拘束しあっていた。(p119,120)

象徴交換と死』ボードリヤール

主人公の少年少女はほとんど同じ境遇である。未成年でお金がなくて親もいないまま東京で漂流している。普通に考えたら、彼らの出会いにそれほど特別なことはない。彼等は世間でパワーカップルと言われているもののちょうど真逆だ。同じ境遇であれば、出会いやすいし、彼らを隔てる障害も少ない。帆高はスマホを持ってるのだけど陽菜はスマホを持ってないところからも彼らのうちに障害の少ないことが伺える。帆高はなぜ陽菜にスマホを持っているかどうかを、連絡先を聞かないのだろう。それは彼らには違いがないからコミュニケーションの必要がそれほどないということをあらわしているのではないだろうか。陽菜は晴れ女の力のせいで透明な身体に変わってしまうが、帆高にとって彼女は透明で明白で、それゆえその状況を見る観客にとっては残酷なのだ。

『君の名は。』には「これってもしかして俺たち、私たち入れ替わってるー?」というモノローグがある。瀧と三葉はそれぞれ別の時間軸でお互いに独り言をいっているに過ぎないのだが、それが会話が成立しているみたいにみえる。他のシーンでもそうだが、モノローグはここにいない相手に対する呼びかけという意味を持っている。それは明らかにノートやスマホのメモの延長である。彼等は互いに身体が入れ替わってしまうために、面と向かって会話する手段はないが、ノートやスマホ、腕や顔などに文字で記録を残して会話をしている。それが物語の前半では空想の可能性もあるが、ここでは彼らを隔てるものをつなぐメディアが存在している。隔たりがあるがために、メディアが存在しているというべきか。その中で記号の混合がおこなわれ、その自由連繋の可能性のおかげで、これから何が起るかわからないという演出をすることができたのだ。

『天気の子』では、そのような記号の混合はおこなわれない。似たような人物と出会うだけで保守的に物語が完結する。帆高は「これってもしかして初めての女子の部屋」などと心の中でいうが、その言葉はどこにも響かない。響く対象があるとしたら、彼が頻繁にやり取りをしていたYahoo!知恵袋の誰とも分からない人々だろう。「これから初めての女子の部屋訪問です。十六歳高校生です。どうしたらいいですか」と彼はネットに書き込みたかったのかもしれない。けれど、Yahoo!知恵袋の背後にはこの映画では何の実体もない。それは何もあらわしていない、そんなものがこの映画を埋め尽くしている。

天気の子
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衰退している「世界」のいいわけ、スケープゴート

同じ境遇の少年少女を遠回りさせるために、この映画は少女に理不尽な呪いをかける。彼女は雨が降り続いている天候を晴れにすることができるが、その代償として空の雲の上に連れて行かれる。伝承では日本には昔から天気を制御するための人柱がいてという話がされるが、雲の上のイメージと同様空虚である。雲の上には草原があるだけで何もない。広告やYahoo!知恵袋の背後に何もないように見せているのと同様に空虚である。あらゆるものが説明を拒むために空っぽにさせられていて、記号が交じり合うことを懸命に避けている。記号の混合の拒否は秩序の撹乱を防ぎ、その中では天候問題に対して用意された正解は人柱という原始的な方法だけが唯一あるのみである。「大人になると選択を変えられなくなる」を街全体が覆っていて、とても息苦しい。「一人を犠牲にして皆が助かるならそうする」といい、何も考えず正解を一つしか用意していないせいで、まるで主人公の少年少女がスケープゴートにされているみたいにみえる。なぜ子供の選択をこれほど重くしなければならないのだろうか。

彼らは伝統的な考え方に対抗する知的立場を発展させることに、完全に失敗した。ハーバート・ノーマン(E.Herbert Norman)は数多くの日本の著作を検討し、「日本封建制の最も抑圧的な諸相、すなわち社会機構が硬直的であったこと、思想的に愚民政策が行われたこと、学問的に無味乾燥であったこと、人間的諸価値をおとしめたこと、外の世界に対する見方が偏狭であったことに対して、一貫して鋭い批判をあえてした著述家が、いはしなかったかを発見しようとした」。彼は年代記や文学作品の中に、封建的抑圧の冷酷さに対する、いくつかの断片的な嫌悪の表現を見出すことができた。しかし、彼はその体制全体を正面から攻撃した影響力のある思想家を、唯の一人も発見しえなかったのである。私見によれば、日本の商人階級が西欧で形成されたものに匹敵しうる、批判的な知的立場を発展させえなかったことは、心理的要因や、日本の価値体系が持つ何らかの特殊な効力では説明しえないと思われる。(p26,27)

独裁と民主政治の社会的起源(下)』バリントン・ムーア

封建的で衰退している「世界」は衰退していることを分かりにくくし、正しい正しくないとか、狂っている狂っていないといったような別の言葉で置き換えてしまう。それは廃墟のようなビルがネオンや広告の明かりに覆われてかろうじて存在しているのと同じである。それらは太陽のない世界で太陽の偽装をしているが、それらは何もあらわしてはいないが故に何も起らない。何も起らない、何も起りそうにない、水が低いところに流れていくだけという自然主義〔もののけ姫とはまた違った形の自然主義(動物を親にすることはできない ゴジラ キング・オブ・モンスターズ - kitlog - 映画の批評)〕がこの映画が描いた秩序である。その秩序のために沈没した都市でなぜ生活を続けようとしているのか理解することができなかった。

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11/17/2020
更新

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