動物を親にすることはできない ゴジラ キング・オブ・モンスターズ
「GODZILLA ゴジラ」から5年後の世界。神話時代のモスラ、ラドン、キングギドラらの怪獣たちが復活し、世界の覇権をかけてゴジラと争いを繰り広げる。未確認生物特務機関・モナークは、それによって引き起こされる世界の破滅を阻止するため立ち上がる。
ゴジラ キング・オブ・モンスターズ | 映画-Movie Walker
(映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』公式サイト)
(Godzilla: King of the Monsters - Final Trailer - Now Playing In Theaters - YouTube) |
文学的自由と政治的自由、なぜ自由の前に改革を欲したのか
ここに一つの注意すべきことがある。それは、革命を準備したすべての理念とすべての感情のうちで、本来の公共的自由の理念と好みとが、最後に現れているのであるが、また最初に消滅したということである。(…)ヴォルテールも、自由を殆ど考えていないくらいであった。彼はイギリスに三年間住んだが、自由を愛するまでには至らず、唯、自由を見たにすぎなかった。イギリス人において自由に説述されている懐疑哲学が、彼を魅惑している。イギリス人の政治法則を、彼はほとんど注意していない。彼はイギリス人の美徳よりも悪徳を注意している。彼はその傑作の一つとして、イギリス論を書いているが、その中で彼は、議会についてほんの少しだけしか語っていない。事実上、彼はイギリス人については、ことにその文学的自由を羨んでいる。けれども彼は、政治的自由についてはほとんど関心を示していない。彼にとっては、そこでは文学的自由が政治的自由なしに、長い間存在することができたかのようである。(p353)
『アンシャンレジームと革命』トクヴィル
(生存戦略と英雄精神 アベンジャーズ/エンドゲーム - kitlog - 映画の批評)ここでもサノスのような人物が登場しているが、この映画の場合は結局のところ自身の自滅を招き自由を失っていく。初代ゴジラでは、ゴジラを破壊してしまうほどの兵器であるオキシジェン・デストロイヤーをつくった芹沢博士が、その兵器は人類には扱いきれない強力な兵器だということで、設計の痕跡を全て消滅させようと自分の記憶までも破壊、つまり自殺してしまう。それは強大な兵器による殺戮やそれによる脅し、あるいは武器の開発競争が人々の自由を失わせるとの危惧で、博士なりの「大いなる力には大いなる責任がともなう」の答えだった。彼は戦争を避けるためにゴジラとの戦争に一度だけ加担した。瓦礫をバックに少女たちの平和を願う歌が偶然テレビから流れてきて、それに心を動かされたからだ。その一度だけの使用で彼は責任を感じて自殺してしまった。『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』では、その責任を何もかも反転させてしまった。ゴジラやギドラの力は利用するは、核兵器もオキシジェン・デストロイヤーも使用をためらわない。その結果、人間の自由はなくなってしまう。この映画が描いているのはオキシジェン・デストロイヤーが悪用されてしまった世界である。この映画の芹沢博士(渡辺謙)は人間はゴジラのペットになるというが、そのばかげた考えはこの映画の中ではほとんど問題にされない。
「こんな親なら子供は家出する」
(Godzilla: King of the Monsters - Final Trailer - Now Playing In Theaters - YouTube) |
マーク(カイル・チャンドラー)はオルカという怪獣の声を合成した音波によってコミュニケーションをはかる装置を開発したが、人間がそれを使って怪獣を操ろうというのはあまりにも危険だということで開発を停止していた。マークの家族は息子のアンドリューを以前のゴジラの出現によって亡くしており、彼等はばらばらになっていた。マークの妻エマ(ヴェラ・ファーミガ)はアンドリューためだと娘のマディソン(ミリー・ボビー・ブラウン)に言い聞かせて、こっそりオルカの開発を続けていた。エマは「人間は病原菌であり地球を汚染している。地球を破滅から救うには、ゴジラなどの怪獣にあらゆるものを破壊してもらう必要がある。そうすることで人口爆発や環境汚染、戦争から人類を救う」のだと宣言する。これはサノスといっていることは同系だがエマはサノスのように自分で力を持っていてコントロールできるわけではない。そのため、自分の夫も簡単に犠牲にしてしまう。エマは「アンドリューのため」というが実際に何をさしているのかはよく分からない。アンドリューをゴジラに殺されたことの報復にゴジラに対抗できるモンスターを生み出したかったのかもしれないし、アンドリューが死んだのはゴジラによる浄化のためで仕方なかったと言い聞かせたかったのかもしれない。いずれにせよ、モンスターはエマのコントロールの及ばないところにすぐにいってしまう。
(海、空、宇宙の大きさは免罪符にならない 海獣の子供 - kitlog - 映画の批評)『海獣の子供』の批評のときにも書いたが、人間より大きく見えるもの、たとえば海や宇宙の存在があるからといって人間の問題が過小評価されて良いわけではない。『海獣の子供』の海、空、宇宙にあたるものがゴジラやその他モンスターである。ゴジラはたとえば『ランペイジ 巨獣大乱闘』のゴリラのように手話によってコミュニケーションをできる存在ではない。また、モナークの眼の前でゴジラがギドラの三つの首のうちの一つをちぎって落とすシーンがあるのだが、モナークはそれを拾おうとはしていない(エコテロリストがポストクレジットで拾うが)。『パシフィック・リム』のKaijuのように、なんちゃってでも科学的な調査や研究の対象としてみなしていない。そればかりかモナークの人々は怪獣の意味などを探ろうとして大昔の神話をあてにしすぎている。彼らがゴジラやギドラに対してなんらかの結論を出すのもそこからの類推に過ぎない。そして安易な外来種批判に飛びついてしまったように見える。そんな不確かなものに現代の人間は頼っていいのだろうか。結果として、なんだかよくわからないがそれに服従するしかないといったような世界に近づいてしまっている。
(Godzilla: King of the Monsters - Final Trailer - Now Playing In Theaters - YouTube) |
モナークの芹沢はアンドリューを失ったマークに対して「傷を癒すには傷つけたものと和睦しなければならない」という。ゴジラと「協力」することに懐疑的なマークに芹沢はそう諭す。芹沢はその自分の言葉をあとづけるように、父が広島に落ちた原爆で被爆した経験を無化しゴジラのために原爆を使うことを決断する。何か良いことを言っている、している風だが、怪獣と共存できるという当てが外れて当惑し、自分の準拠点を見失ってしまっただけではないか。傷をどう癒すかという問題と人類の命運がかかっている事態を結び付けるべきではないだろう。この映画に出てくるのはこのような大人ばかりで、劇中で「こんな親なら子供は家出する」といわれるのも当然である。ゴジラにすがったところでゴジラは何も教えてはくれない。ゴジラとコミュニケーションできると思い込んだり、科学的な視点を失ったりして人々はますます自由をなくし、言葉をなくしていくだけである。それとも、芹沢が原爆の記憶をなかったようにして原爆を扱ったように、言葉をなくして何かを忘れたい、忘れさせたいのだろうか。その先にあるのは徹底的な無力感だけである。
一六九四年に、リトアニアとロシアにまたがる森の中で、熊たちと一緒に暮らしていた一○歳くらいの若者が捕まえられたのである。彼は理性の刻印を全く示さず、四つ足で歩き、一切の言語を持たず、普通の人間の声とは似ても似つかぬ声を上げた。彼が言葉を発するようになるまでには長い時間がかかったし、話せるようになってもなお、その話し方は非常に野蛮なものであった。彼が話せるようになるとすぐに、[熊と一緒に暮らしていた]初期の状態について人は彼に質問した。しかし、ゆりかごにいた赤ん坊の頃のことを我々が思い出せないのと同じように、彼もその頃のことについて何も思い出せなかったのである。(p197,198)
『人間認識起源論(上)』コンディヤック
『もののけ姫』的結末の罠
(Godzilla: King of the Monsters - Final Trailer - Now Playing In Theaters - YouTube) |
クレジットのシーンで新聞記事が映し出され「ゴジラの通ったあとに自然が再生!?」といったようなメッセージが発せられる。ゴジラは破壊の限りを尽くしたが、エマのいっていた通り、ゴジラは地球再生の使者なのだということなのだろう。これは一九九七年に公開されたジブリアニメの『もののけ姫』とほとんど同じ結末である。人間が森の神であるシシガミの首をとってしまったために、シシガミの首以外の部分がその首を求めて暴走する。首を求めたシシガミは噴火した火山灰のように地上に降り注ぎ、それが触れた部分の草木やあらゆる生命は枯れてしまう。地上がシシガミに飲まれてしまいそうになるところでアシタカとサンはシシガミに首を戻す。すると、それまで枯れていた自然が生命を取り戻し、村人たちは「シシガミは花咲か爺さんだったんだ!」といって感激する。全てが元通りになったように見える。これの何が問題なのか。
シシガミの首をとったのは、エボシという女性のリーダーで彼女の村はタタラという技術で製鉄業をしている。そこでは女が村で製鉄をし、男がそれを外に売りに行くという先進的な(といっていいのか)設定である。エボシは人身売買を嫌っていて、そういう目にあっていた女たちを買い取っては村においていた。彼女は女に持たせるためといって軽い銃火器をつくろうとしている。『もののけ姫』は自然対文明の二項対立で批評されることが多い(CiNii 論文 - スタジオジブリと近代文学(その2)「もののけ姫」と永井荷風「狐」、CiNii 論文 - アメリカにおける宮崎駿の受容-日本文化と歴史の新しい表象-)。それはおそらくアシタカの視点で作品を評価されているからではないだろうか。彼はタタリガミの呪いを受けた後で、この呪いがあらわれた情況を「くもりなきまなこで見定める」という。山の猪がタタリガミになったのはエボシの石火矢で撃たれその弾が体内に残っていたからだった。ここに山のものに代表されている自然と鉄に代表されるような文明があらわれている。彼の前にはもう少し分かりやすく、山犬に育てられたサンと製鉄所を運営するエボシという二人の女性という形で自然と文明の対立があらわれているように見える。「くもりなきまなこで見る」というときにその対立が決定的に際立って見えるだろう。しかし、劇中にいるアシタカは映画の中にあらわれたものすべてを見ることができるだろうか。
ここでもう一度『海獣の子供』であらわれていた対立について見てみたい(海、空、宇宙の大きさは免罪符にならない 海獣の子供 - kitlog - 映画の批評)。そこで主人公のルカと同じハンドボール部員との対立において、それを見ている先生が不公平であること、その不公平感が隠されて神秘化されていることを見た。これは単純な二項対立ではない。これと同じ構図が『もののけ姫』にもあてはまるのではないだろうか。
現実の社会構造は、まだ伝統的で、混乱的であり、不規律であった。そこでは、法律は多種多様で矛盾しあっており、身分ははっきりと差別されていたし、地位は固定されていたし、負担は不平等であった。そういうわけで、この現実社会の上に、少しずつ空想的社会が築かれていった。この空想的社会ではあらゆるものが単純であり、整然と等位置に並置されており、一律的であり、公正であり、理性に合致しているようにみえた。(p332)
『アンシャンレジームと革命』トクヴィル
注目すべきはエボシの存在である。彼女には敵が二ついる。一つは山の神であり、もう一つは侍である。エボシはシシガミの首を取ろうと山に入るのだが、その時に同時にエボシらの不在を狙ってタタラの村に侍が攻めてきている。アシタカは女だけが村に残されている状況を見て、エボシにそのことを伝え山を降りて村を守りに行くべきだという。エボシはその意見に取り合わず、「女たちには自分を守る武器を与えてある」といって山の奥深くへ入っていく。彼女は侍から村を守ることよりも「神殺し」をするほうが重要だと考えている。その一つには、シシガミの血が全ての傷や呪いを癒すとされているから、もう一つにはミカドからの命令があったからという理由が考えられる。エボシをそうやって山へ向かわせることによって温存されるのは侍ではないだろうか。侍は『海獣の子供』の先生のように対立しているにもかかわらず、それがないことにされるのだ。代わりに神秘的な世界観が呼び出される。つまり、山の神たちがあらわしているものは侍の世界観なのではないだろうか。侍の支配のための神話ではないのだろうか。ここでは侍は実体と精神に分かれている。そして、エボシは実体のほうには取り合わずに精神のほうと戦うよう仕向けられている。
まず分割して統治せよdivide et imperaの原理がある。これは古く、また十分試し尽くされたものであるが、いかなる時代の権力も、あちことに散乱しているばらばらの不平不満が、互いに照合され濃縮されることに驚異を感じたときにはいつでも、好んでこの原理に訴えてきた。受難者が、心配したり立腹したりしていることを、一つの川に流すのを邪魔しさえすれば、すなわち人々が、多くのさまざまな圧制にそれぞれ別個のカテゴリーの被害者として苦しむよう仕向さえすれば、どうであろう。そうなれば、川が一つにならないように支流の向きはそらされ、種族間やコミュニティ間の敵意が過度に高まるなかで、反抗のエネルギーは消え失せ、たちまち使い果たされてしまうであろう。……貧しい者同士が戦うことほど、豊かな者にとって喜ぶべきことはない。(p155,156)
『コミュニティ』ジグムント・バウマン
エボシが山に入ることによってどうなるか。彼女は動物に育てられたサンと対立することになる。ここで女性が分割して統治されていることになる。エボシは人身売買された女性を何人も救っているからサンのことも本来は救えるはずなのだが、サンは動物に育てられ自らの動物性を大事にするよう育てられたために山犬を殺したエボシに強烈な恨みがあってそれができないとされている。シシガミを殺すことはそのサンの迷信を解く意味もあるのだが理解されない。本当ならシシガミもほっといていいのかもしれない。どうにかすべきは侍のほうである。動物性とは(海、空、宇宙の大きさは免罪符にならない 海獣の子供 - kitlog - 映画の批評)ここにも書いたが、言葉を持たないことである。それは単に喋れないということではない。言葉は物事を分割するが、それは同時に物事の分割に気づくことでもある。言葉がなければ、われわれが何によって分けられ、何によって対立しているのかも分からない。それでは水の中で水のように生きるしかなくなってしまう。そして、分からないでいいというのが侍の世界観でそれがサンの造形に示されている。先生のことや侍のことには気づかなくていい、動物のままでいてと。
本来ならエボシとサンは対立しなくてもいい。しかし、そうするように仕向けられていることで山の神が怒って大変なことになり、エボシの側とサンの側両方に被害者が出て、共に自滅したような格好になる。そして主人公たちは大変だといって、世界を元通りにしようとする。「世界に逆らってはいけない」といわれているようだ。しかしそれは大きな世界ではなく単に侍の世界である。シシガミは首を取り戻したあと自然を全て元通りにする。自然の不変性は権力の不変性の比喩になっている。こうして、女性の自立的な世界観は女性同士が分割して統治されたために自滅し、あとには強烈な現状維持肯定をあとづけるような自然だけが残る。これが侍の世界観を保護する『もののけ姫』の神話である。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』もそのような自然信仰をあてにした現状維持が貫かれている。
11/17/2020
更新
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