海、空、宇宙の大きさは免罪符にならない 海獣の子供

自分の気持ちを言葉にするのが苦手な中学生の琉花は、夏休み初日に部活でチームメイトと問題を起こしてしまう。母親と距離を置いていた彼女は、長い夏の間、学校でも家でも自らの居場所を失うことに。そんな琉花が、父が働いている水族館へと足を運び、両親との思い出の詰まった大水槽に佇んでいた時、目の前で魚たちと一緒に泳ぐ不思議な少年“海”とその兄“空”と出会う。

琉花の父は言った――「彼等は、ジュゴンに育てられたんだ。」

明るく純真無垢な“海”と何もかも見透かしたような怖さを秘めた“空”。琉花は彼らに導かれるように、それまで見たことのなかった不思議な世界に触れていく。三人の出会いをきかっけに、地球上では様々な現象が起こり始める。夜空から光り輝く彗星が海へと堕ちた後、海のすべての生き物たちが日本へ移動を始めた。そして、巨大なザトウクジラまでもが現れ、“ソング”とともに海の生き物たちに「祭りの<本番>が近い」ことを伝え始める。

“海と空”が超常現象と関係していると知り、彼等を利用しようとする者。そんな二人を守る海洋学者のジムやアングラード。それぞれの思惑が交錯する人間たちは、生命の謎を解き明かすことができるのか。
“海と空”はどこから来たのか、<本番>とは何か。

これは、琉花が触れた生命の物語。

アニメーション映画「海獣の子供」公式サイト

海獣の子供
(【6.7公開】 『海獣の子供』 予告1(『Children of the Sea』 Official trailer 1 ) - YouTube

悪いところしか見ていない「先生」


主人公のルカはハンドボール部に所属している。彼女は身長は小柄だが、跳躍力と空中での巧みなボールさばきで他の部員たちを練習で圧倒していた。調子がよさそうだ。すると部活の顧問がこういう。「調子がいいとダメなんだあいつは。」直後に同じ部員の一人が練習中にルカの足を引っ掛けてわざと転ばせる。ルカは膝を擦りむき血が出ているが(大きな内出血?)、その転ばせた部員はルカを見てにやついている。そしてルカの怪我には目もくれず部員たちは練習を再開する。その後、ルカはその足をかけた部員に仕返しで顔に肘打ちをする。すると、今度は部員たちが駆け寄ってきて大事になってしまう。ルカは顧問に職員室に来るようにいわれ、何かいうことはないかと問われるが、はっきり答えることができない。するとその顧問は「向こうが悪いというんだな」といって決め付けてしまい、「謝れないならもう来なくていい」と言いつける。こうして夏休みの初日にルカはやるべきことも居場所も無くしてしまう。

この後彼女は悩むことになってしまう。「私がゴメンと言えばいいのだろうか」「なぜ光の当たるものと当たらないものがあるのだろう」彼女は相手の怪我だけが注目されて自分の怪我がほとんど無視されていることに不満と疑問を持っている。それは誰に対する不満や疑問なのだろうか。物語の最後に坂の上からハンドボールが転がってきて、その先にいざこざがあった部員がいる。ここで彼女たちが仲直りするかもしれないことが示唆されている。しかし、問題はここで隠されてしまうのだが、ルカが問題にすべきは足をかけてきた部員ではなく、部員を公平に見なかった顧問である。彼は「調子がいいとダメなんだあいつは」と部員のことを実際は良く見ている。しかし、問題が起ると片方の側に一方的に肩入れしているように見える。彼はなぜルカの怪我を見ないふりをしたのだろうか。そのことには何も触れられていない。ルカは不公平だと言えばよかったのだ。「足をかけた部員が悪いのではなく先生が不公平だ」と。しかし、彼女は自分のことを言葉にするのが不器用だとされてしまっていた(Naomi Scott - Speechless (Full) (From "Aladdin"/Official Video) - YouTube)。この後に彼女に不思議なことが起るが、それはここで隠された不公平を神秘化、正当化する試みである。

海獣の子供
(【6.7公開】 『海獣の子供』 予告1(『Children of the Sea』 Official trailer 1 ) - YouTube

動物性の詩的な虚偽


全て動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している。もっとも動物的な情況の内にも、人間的な情況の基本要素があることは確かである。かりにどうしてもそうする必要があるとしたら、動物も一個の主体とみなされ、それに対し世界の他の部分は客体とみなされうるかもしれない。しかしながら動物が自分自身をそう眺める可能性は、けっして彼には与えられていない。そのような情況を構成するさまざまな基本要素は、人間の知力によって捕捉されることはありうるけれども、動物がそれらを理解し、具現することはありえないのである。(p23,24)

動物的世界は、内在性と直接=無媒介=即時性の世界であると私は言うことができた。それはどういうことかと言うと、この世界はわれわれにとっては閉じられているように思えるということ、そしてわれわれはその世界の内に自分で自分を超越する能力を見分けることができないのであるが、まさしくそういう力を認めることができない程度にちょうど応じるような形で、その世界はわれわれにとって閉じられているということである。(p30)

宗教の理論』バタイユ

ルカは部員たちや学校に関わるものの多くを避けるようにして、子供の頃の思い出の水族館に行く。そこで彼女の父が働いて、ルカは父を探している時にウミと出会う。ウミとその兄弟のソラはジュゴンに育てられ、彼等は日光や乾燥に弱く、泳ぎが上手で魚たちは怖がって逃げていったりしない。泳ぐ彼等はほとんど魚も同然である。彼等はクジラのソングを聴くことができるルカを同類と認識し、彼女を「祭り」に誘おうとする。

言葉がまず否定される。言葉では言葉であらわすことのできるものしか伝えることができないとされる。しかし、言葉は道具であるから、それは物事の分割をし、例えば、「私」と「動物」を分ける。それが否定されるのだから、あらゆるものは区切られておらず、違いも不分明で消失し、あらゆるものが同じだという風にされる。ウミとソラの存在によって、人間と海洋生物との違いがあいまいになってくることからそれは始まる。そして最終的には人間と宇宙は同一であるとされる。そうすると人は情況に溶け合ってしまって飲み込まれるだけになってしまう。画面上ではルカがウミやソラのような泳ぎを覚えただけなのだが。

「人間と宇宙は似ているのではなく同じなのだ」と劇中の海洋学者はいう。その海洋学者はこうもいう。「宇宙には暗黒物質があって、人間はその存在についてほとんど分かっていない。人間の知っていることはごくわずかなんだ」と。これは、未知の物質に対する興味や関心、好奇心というよりは、何かを知ることについての諦念を含んでいるように思われる。「人には知られていないことはたくさんある」から「人にはどうせ何もわからない」までの距離は近い。このことが冒頭のハンドボールのシーンとつながってくる。そこでは暗黒物質は比喩として存在し、ルカの怪我はそれに相当するようになる。自分の傷が暗黒物質のように知られていなくても仕方がない、という考えを人と宇宙が同一だという世界観は正当化する。

やがて、言葉を使えたウミもソラがいなくなって言葉を無くしてしまう。

海獣の子供
(【6.7公開】 『海獣の子供』 予告1(『Children of the Sea』 Official trailer 1 ) - YouTube

パラフレーズ型権力


合理的な心の人は、純粋ではあるがしかし非現実的な体系を作ってこれに満足するのであるが、この満足感には確かになにか少し不気味なものがある。ライプニツは合理論的な心の人であったが、多くの合理論者とは比較にならぬほど事実にたいする絶大な興味をもっていた。けれどももし諸君が皮相な見解の権化ともいうべきものを求められるならば、あの魅力豊かに書かれている彼の『弁神論』を読まれさえすればよい。この書において彼は神の人間にたいするやり方の正しいことを弁明し、われわれの住むこの世界はありとあらゆる世界のなかでもっともよき世界であることを証明しようと試みているのである。私のいおうとするところの見本を次に引用しよう。(p23,24)

「…この地球はもろもろの恒星間の距離に比べると単なる一点に過ぎないものであるから、物理学的点よりも比較にならぬほど小さいものになるであろう。このようにわれわれの知っている宇宙のこの部分は、われわれに知られてはいないけれどしかもわれわれがその存在を許容せざるをえない部分と比較すれば、ほとんど虚無に等しいものとなってしまう。そしてわれわれの知っているすべての悪は、このほとんど無に等しいもののなかに存在しているのである。したがってもろもろの悪は、宇宙の包含するもろもろの善に比べるとほとんどなきに等しいといえる。」(p25)

ライプニッツの現実把握の薄弱なことはあまりにも明白であって、私が注釈を加えるまでもない。(p26)

プラグマティズム』W.ジェイムズ

ルカはうまく話すことができないと言う設定に苦しめられ、自身を動物の地位にまで貶め(られ)ている。うまく話せないというところを初期条件として合理化を進めた結果、認識されるべきものが認識されず、その認識されなかったものが因果関係を隠蔽して、代わりの表象として神秘的な世界観が用いられる。彼女には言葉が必要だが、夏休みに出会った不思議な人々はそれは必要ないという。彼女に起ったことの原因は隠されて別の表象に置き換えられてしまった。彼女には言葉が与えられず、その言葉を他の誰かがパラフレーズして別の問題に変えてしまったのだ。そして宇宙的な世界観を持ち出して、それらを問題として矮小化してしまった。彼女には考えることは期待されていないし、何の言葉も獲得できなかった(させてもらえなかった)。要するにこれは差別(の準備?)ではないだろうか。

古代においては、奴隷が鎖を断ち切るのを妨害しようとしたが、今日では、奴隷があえてそうする気にならないようにしたのである。

古代人は奴隷の身体は鎖で縛ったが、精神の自由を与え学問をすることを許した。この点、古代人は首尾一貫していた。このとき、隷属から脱する自然の出口があったわけである。奴隷はいつの日か自由になり、主人と対等になることができた。

南部のアメリカ人は、黒人が自分たちと混じり合うことはいつになってもありえないと考え、彼らに読み書きの学習を禁じ、違反には厳罰を科した。彼らを自分たちの位置に引き上げることを望まず、できる限り獣に近い状態に留めるのである。(p332,333)

アメリカのデモクラシー 第一巻(下)』トクヴィル
11/17/2020
更新

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