物語の接ぎ木 劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦
(『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』【公開直前PV】|2月16日(金)試合開始! - YouTube) |
小学生の時に、春高バレーのテレビ中継で見た“小さな巨人”に憧れ、烏野高校バレー部に入部した日向翔陽。だがそこには中学最初で最後の公式戦で惨敗した相手・影山飛雄の姿が!?反目しあうも、日向の抜群の運動能力と影山の正確なトスは、奇跡のようなクイック攻撃、通称“変人速攻”を生み、烏野復活の力となる。
東京の音駒高校との合同合宿で、日向は因縁のライバルとなる孤爪研磨と出会う。超攻撃的なプレースタイルの烏野高校に対し、“繋ぐ”をモットーにした超守備的なプレースタイルの音駒高校。音駒高校との試合を経て新たな可能性を見つけ出していく烏野高校のメンバーたち
MOVIE|アニメ『ハイキュー!!』公式サイト
つないでいかないんですか
珠世のもとに突如現れた耀哉の鎹烏は、鬼である珠世を鬼殺隊の本拠地へ誘う。一方、蝶屋敷で耀哉からの手紙を受け取った炭治郎は、稽古に参加していないという義勇のもとを訪れる。はじめは拒否されつつも、根気強く義勇に話しかける炭治郎。根負けした義勇は、自分が稽古に参加しない理由を語り始める。
第二話 - あらすじ | テレビアニメ「鬼滅の刃」柱稽古編
(テレビアニメ「鬼滅の刃」柱稽古編 第1弾PV - YouTube) |
『鬼滅の刃』柱稽古編第二話で、水柱の富岡義勇は柱でいることを拒否し引退か何かを考えている。過去に富岡の友人で錆兎という人物がいた。鬼殺隊の試験で富岡は錆兎に守られて何もできないまま突破し、錆兎はその試験で亡くなってしまった。そのため富岡は自分が水柱にふさわしくなく、炭治郎が水の呼吸を極めて水柱になればいいと思っているという。富岡は人が変わったように自分の物語を急に終わらせようとしている。炭治郎は富岡が錆兎の代わりに死ねばよかったと思っていると察して、自分と煉獄さんとの関係を思い出す。猗窩座との戦いで煉獄さんが生き残っていたほうがよかったのではないか、と。それでも炭治郎は富岡に「義勇さんは錆兎から託されたものをつないでいかないんですか?」と尋ねる。富岡は同じ言葉を以前に錆兎からいわれたことがあったことを思い出す。鬼殺隊に入る前、富岡は鬼の襲撃にあったが、富岡の姉が命を懸けて富岡を逃がし、富岡だけが生き残った。それがきっかけで自分が死ねばよかったと思っている富岡に錆兎が「死ねばよかったなんていうんじゃない、姉から託された命をお前もつないでいくんだ」という。富岡はその時と将来の富岡に向かって予め先送りされていたかのような錆兎の言葉(物語の続きになるもの)を思い出し、物語を終わらせるのを考え直す。
(物語と物語を救援するもの 劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 - kitlog - 映画の批評)
この「つないんでいかないんですか」という声は、物語には必ず続きがあるように見えるから、物語と関わるうえで常に作者と読者の両方に浮かんでくる。それでも、ある人気コンテンツの物語が終わってしまった時に、読者や視聴者は何を考えるだろうか。まずは、作者に続きを書いてほしいと願うだろう。それがどういう形であれダメなら、同じ物語を何度も読みなおしたり、他人の感想を聞いたりして別の解釈を楽しむか、あるいは自分で考えて何か物語の続きを表現しようとするかもしれない。それもできなくなると、既存の物語で続きになりそうな別の物語を探すかもしれない。『ハイキュー!!』はまさにそのような既存の物語の続きになりそうな別の物語で、既存の物語とは『SLAMDUNK』である。
エネルギー保存則に支配される現象にかんする限り、過去が未来を決定するのとまったく同様に未来が過去を決定する。(略)ここで物理的な力の世界から精神の世界の方に目を転じると、事情はまったく異なっていることが分かる。この世界では、精神の一状態がそれに先行する二つの状態にたいして、逆向きの支配力をもつことを示すような点は何もない。(p134,135)
われわれの内なる精神世界は因果性の原理に支配されているが、そればかりではなく、外なる世界の現象もまた、たとえそれが生命を欠いた現象であっても、われわれの精神の興味を引き、日常の注意の的となるものであれば、同じ因果性の原理の支配のもとにあるか、少なくともそれに似た存在形態をもっている。(p136)
『連続性の哲学』パース
ある作品が別の作品の続きとして読める。『SLAMDUNK』が終わった後で、同じような高校生バスケ漫画を探してみたり、バスケ漫画だがストリートバスケや3on3を扱うもの、バスケでなくても偉大な作品の終わりと見立てて天才プレーヤーが死んだ後のサッカー漫画をそれの続きとして読むことはありうる。それは必ずしもその連載終了時から始まる必要はなく過去のものでも未来のものでもいい。それは全く抽象的な次元だが、読者がつながっているとさえ思えれば。
『ハイキュー!!』は身体能力がずば抜けて高いが素人に近い日向翔陽とバレーの技術は全国レベルだが自分勝手で「コート上の王様」と揶揄される影山飛雄が出会うところから始まる。この二人の関係はどうしても『SLAMDUNK』の桜木花道と流川楓を思い出してしまう。『SLAMDUNK』の彼らの関係は同じチームの中で最初は素人の桜木が流川を勝手にライバル視していたところから、徐々に流川が桜木を不器用な形で認めはじめ、最後は山王戦の逆転の大事な場面で流川が桜木にパスを出すところまでつながっていく。
『ハイキュー!!』の第一話はその関係を圧縮したような物語になっている。中学時代からはじまって日向はバレーをしたいが部員が集まらず、中学最後の大会も他の部活から人を集めて何とか参加する。そんな素人同然の彼らが影山のいる強豪校と対戦して負けてしまうのだが、影山は日向の才能を見て一目置き、日向は影山をライバル視する。日向は高校で影山を倒すと誓うのだが、日向と影山は同じ烏野高校に入学したことが判明し、彼らは協力して戦わないといけないことを知る。バレーボールは自分のコートにボールを落とさず相手のコートにボールを落とすスポーツなので、ライバルだからといって相手のトスやレシーブをつながないことはありえない。特に影山はセッターなので、レシーバーなら彼にボールを届けて、スパイカーなら彼からボールを受け取らないといけない。日向と影山がどんなライバル関係にあっても同じチームならパスをしないといけない。彼らはキャプテンからの命令で『SLAMDUNK』であったようなライバル関係を見直さない限り烏野高校のバレー部への入部を認められない。こうして『SLAMDUNK』はライバルの二人がパスをしたところで終わったが、『ハイキュー!!』の二人はパスをしたところから始まる。
(大ヒット御礼PV【烏野】篇『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』|特大ヒット上映中! - YouTube) |
繋ぐか飛ぶか、完全情報ゲームの中で
春の高校バレー宮城県代表決定戦、春高初戦と、強敵を次々と倒す中で進化を遂げた烏野高校は、春高2回戦で優勝候補・稲荷崎高校を下す。そして、遂に3回戦で、因縁のライバル校・音駒高校と対戦することとなる。
幾度となく練習試合を重ねても、公式の舞台で兵刃を交えることが一度もなかった両雄 烏野高校対音駒高校の通称“ゴミ捨て場の決戦”。
約束の地で、「もう一回」が無い戦いがいよいよ始まる― 。
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烏野(からすの)高校と音駒(ねこま)高校は伝統的なライバルであり、カラスとネコの名がつくことから両校の対戦はゴミ捨て場の決戦と呼ばれている。両校は監督どうしが中学からライバルという縁で練習試合では何度も対戦しているが、公式戦で対戦したことがない。烏野は宮城県で音駒は東京都にあり、それぞれが県や都の予選を通ってしかも全国大会で両校とも勝ち進むことでしか公式で試合をすることができない。今回ようやくその機会が巡ってきた。
両校のバレーはほとんど真逆の戦略で、烏野は攻撃的、音駒は守備的である。烏野は、日向と影山の「変人速攻」や、トスを上げたときにほぼ全員がアタックをしにいって相手のブロックを迷わせる「シンクロ攻撃」などで点をガンガン取りに行くスタイル。普通のバレーのスパイクはセッターがトスでボールをあげて、それをスパイカーが打つ。普通の速攻はセッターがトスをあげるのと同時くらいにスパイカーが飛んで、セッターがスパイカーのジャンプ到達点にボールを送り込んで、スパイカーが打つ。日向と影山の「変人速攻」はボールがセッターの影山に上がった瞬間に、つまりトスを上げる前に、日向が先に飛んでスパイクのモーションに入り、スパイクの手を打ち下ろすところにピンポイントで影山がトスでボールを置きにいく。スパイクは飛んでくるボールに手を当てるが、「変人速攻」では動いている手にボールを当てるというように逆のイメージの運動である。
音駒は守備的でとにかくボールをつないでつないで、その間にセッターの孤爪研磨が敵の弱いところを見つけ、そこから徐々に相手を崩していくようなバレーになっている。音駒では孤爪が身体の脳のような存在で、コートでチームがボールをつなぐことを脳を動かすための血液のめぐりに例えてチームができあがっている。といっても、チーム内に上下関係があるわけではなく、孤爪は勝ち負けに執着がないので、何かを高圧的に命令したりすることがない。孤爪個人としては、ゲーム好きで試合を分析するのは、勝ちたいというよりも客観的に勝ち負けの行方を知りたいからという感じだ。
(『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』【公開直前PV】|2月16日(金)試合開始! - YouTube) |
孤爪が弱点として目を付けたのは、日向である。それはおそらく彼が烏野の中で一番未熟でありながら、「変人速攻」という一番の武器を持っているからだ。最も強大でありながら最も未熟という性質が崩しやすいのはそうだが、孤爪は同時に日向を「常に新しい」と評価している。孤爪にとって日向は常に新しい攻略法が必要なゲームなのだ。孤爪は「ゲームオーバーよりゲームクリアのほうが悲しい」という。彼は負けるよりも日向があらゆる可能性を出し尽くして分析し終わってしまい、それがゲームでなくなってしまうことのほうがきついのだ。攻略しつくしてしまったゲームはもはやゲームではない。
孤爪は日向に狙いを定めて、日向のスパイクの助走区間にボールを落とす。そこに烏野のレシーバーが入ってきてボールを拾い影山にボールがいく。日向がスパイクの助走をしようとするが、その区間にボールを拾ったレシーバーの体が残ってしまうため、日向は走れず「変人速攻」をすることができない。「変人速攻」は基本的には日向がスパイクをする技だが、日向がスパイクをするだろうというかたちで囮にもなっている。日向がスパイクをすると思えばそこにブロックが集まって、他のプレーヤーが楽にスパイクをすることができる。これは烏野の攻撃の基本形になっている。なので、日向がスパイクを打たないのならば囮について考える必要がなく、囮のせいで迷わせられるスパイクもただのスパイクになってしまう。これはいわば、じゃんけんで出す手を一つ封じられたような状態である。こちらがチョキとパーしか出せなくて相手がグー、チョキ、パーを出せるなら、相手はチョキだけを出せばいい。
完全情報がないと状況はもっと複雑になる。その理由を見るために、先に述べたじゃんけんゲームを考えてみよう。これは完全情報ゲームではない。なぜなら、プレーヤーたちは、他人がどう出ようとしているかを知らないで同時に戦略を選ばねばならないからである。このゲームは、相手がどう出るかを知っていると勝つのは簡単である。相手は石か紙かはさみか三つのうちから一つを選択するだけで、あなたはそれぞれに紙かはさみか石で応えてやれば勝てる。(p47)
『ゲームの理論入門』モートン・D・デービス
日向は何が何でもスパイクを打てるようにしなければならない。試合の中の手札を増やし、「グー」を復活させなければならない。ただ、映画の中で日向はそれ以上のことをやっているように見える。日向は影山にオープンを要求する。そして日向は目一杯上に飛ぶ。オープンとは速攻の時とは真逆のトスで、ボールを上に高く上げる。トスからスパイクまでの時間が短い速攻と違って、オープンの場合は味方も相手もトスしたボールの落下点を見る余裕がある。当然スパイクが打たれる位置が分かるので当然相手はブロックを三枚重ねてくる。ただ、それを日向も見ることができる。日向は身長が160cmほどだが跳躍力がずば抜けていてほかの長身プレーヤーとも互角に戦える。跳躍力がある分だけ滞空時間が長いので、ブロックは自分が飛ぶタイミングを合わせづらい。ここで日向は守備のズレを最後まで特権的に見ることができる。日向は新しく自分にとっての完全情報ゲームを始めてしまう。それは後だしじゃんけんに近い。
孤爪は日向が新しいゲームを始めたことを楽しいと思い、これがずっと続いてほしいと思う。ただボールをつなぐのは分析のための時間を得るはずだったのだが、日向のゲームが基礎的な身体能力を強調するものであるため、なす術がなく、つなぐこと自体が楽しいと自己目的になってしまう。
(『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』【公開直前PV】|2月16日(金)試合開始! - YouTube) |
時間の作り方
劇場版『SLAMDUNK』の大ヒットの影響もあるのかもしれないが、その構成と同じようにこの映画ではリアルな試合の時間が流れて、リアルな大きさのコートの空間がそこにあり、合間にキャラクターの回想がはさまるようになっている。リアルなバレーに見えるように登場人物が一人称で見たような映像も使われている。注目すべきはリアルな試合の時間が流れていることで、これまで放映されていたテレビアニメ版に比べて様々な登場人物の影が薄くなっている。テレビ版であったような登場人物のモノローグが省かれて彼らの考えていることがあまりわからない。もちろんテレビアニメシリーズに比べて映画は時間が少ない。映画でモノローグをいくつもはさむとテンポが悪くなる可能性もある。それにしても、テレビアニメに比べて観客(画面で見ているものも含めて)やベンチのメンバーや監督やマネージャー、烏野のコートにいるメンバーでさえ全然コミュニケーションをしていない。コミュニケーションは相手がいる場合もあれば自分に対してのこともあるだろう。それが物足りないレベルでしか描かれていない。なので、孤爪と黒尾の過去や黒尾と月島のブロッカー対決などが描かれるが、烏野対音駒の対決はほとんど日向対孤爪の対決に集約されてしまう。孤爪が日向を抑えるかどうか、日向がそれを乗り越えるかどうか。そこから出てくる日向の解決策はオープントスのスパイクだが、実際普通のスパイクに変わりないので、これまでの過程を知らなければ拍子抜けになってしまう可能性もある。
一般に、プレーヤーの人数が少ないほど、ゲームは単純になる。最も単純なゲームからより複雑なゲームへと進むにつれて、理論はあまり満足なものでなくなって行く。これは以下のようなやっかいな疑似保存法則(quasi-conservation law)の形でほとんど表現される。ゲームの重要性が大なるほど――すなわち、現実問題に対する応用性が多いほど――分析的に取り扱うことが困難になる。少なくとも数学者の見地からして、最も満足すべき理論は競争的二人ゲームの理論である。(p14)
『ゲームの理論入門』モートン・D・デービス
(『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』【公開直前PV】|2月16日(金)試合開始! - YouTube) |
上の文で比較として考慮しているのは、音駒戦の前の試合、稲荷崎高校戦である。この試合はバレーボールにとってオリジナルなものは何かについて一つの答えを示しているように思う。(SEASON4|アニメ『ハイキュー!!』公式サイト)
この全国大会の前に、宮城県予選の終了後に全日本ユースと県一年生選抜の合宿が行われたが、日向はどちらにも選ばれなかった。日向は納得できずに、一年生合宿に潜り込もうとする。一年生合宿の方は宮城県予選の決勝で戦った白鳥沢高校の監督が仕切っていたが、日向は影山がいないと何もできない、だから個人としては選ばないとその監督はいう。白鳥沢の監督は自身が日向のように小柄で、自分の経験から小柄な選手がミドルブロッカーをするのをよしとしていない。結局日向は日向を評価していた他の監督のはからいで合宿所にいられることになったが、練習はさせてもらえず球拾いをすることになる。日向は球拾いをしながら、コートの中とは違う視点で他の選手を観察し、影山がいないと何もできないの課題に答えようとする。球拾いでも効率的にやろうとすれば、アタッカーとブロッカーの位置を見て、クロス、ストレートどちらに球が飛んでくるかなど予測できた方がいい。日向はまともな練習ができないながらも、そうやって自分で学ぶ方法を考えていく。
練習で二対二をやることになる。日向は相変わらず参加できない。選手は二回触ることができず三タッチで相手にボールを返さないといけないので、レシーブをしたらもう一人がトスをしてレシーブをした人がスパイクもしないといけないという風に、一人のやることが多く常に動いていないといけない。日向は外から見ていて、二対二が上手いチームとそうでないチームの何が違うのかを考えている。合宿に百沢という身長が二メートルあるがバレー経験が浅いため二対二のチーム組みを避けられている選手がいる。百沢は他人の評判通り、二対二でボールを返すのに手いっぱいで味方の足を引っ張っている。百沢は落ち込んでしまい休憩中に思わず日向に「お前が選ばれればよかったのに」と言ってしまう。それを聞いて、日向は「楽に行こうぜ」とアドバイスをする。
「楽に行こうぜ」は心理的な意味もあるかもしれないが、第一にはレシーブやトスの一つ一つをもっと高く上げようということだ。ボールを高く上げることで、忙しい二対二のあらゆる局面において、高いところからボールが落ちてくる分だけ時間が生まれ、その間に態勢を整えたり、何かを考えたりする余裕や何より時間を操っているというリズムが生じる。二対二で焦っているからといって、その自己表現として余裕のないボールを上げる必要はない。自分のリズムを作れるということを百沢は理解して、彼は自分の高さを生かしたプレーをすることができるようになる。
これは烏野対音駒戦の日向のやり方そのものである。ただ、稲荷崎戦はそれが登場人物のプレーだけでなくコンテンツの表現のレベルでも表れている。稲荷崎戦では観客の応援が一つの主要な要素として最初に登場してくる。稲荷崎高校の応援は豪華で吹奏楽が選手のプレーにこたえる形で場を盛り上げる。稲荷崎の宮侑は自分のサーブの時は自分のリズムを作るために指揮者のように吹奏楽を止める。応援の中で宮侑と宮治の双子の兄弟は奇抜なプレーでペースをつかみ、日向と影山の変人速攻もコピーして相手の勢いを削ごうとする。それに対して烏野高校は稲荷崎のような組織的な応援団がおらず、稲荷崎の応援団にペースを乱されてしまう。烏野は途中に即席の応援団が到着して、自分たちのペースをつかんでいく。
日向はこの試合の重要な二つの場面で高いレシーブを上げる。一つは宮侑と宮治の双子がツーアタックと見せかけてのフェイクセットで烏野のブロックが完全に置いてけぼりになり、完璧に見えた稲荷崎のアタックを日向が完璧にレシーブする。そのボールが高く上がって影山の方へゆっくりと落ちていく。様々な人物が今のこのシーンを見ている。コートの中の影山は思わず完璧だと思い、合宿にいた百沢は試合が映る画面を凝視し、合宿にいた監督は画面を見ながら日向のプレーに混乱している。リアルな試合の時間からすれば、ボールが一つ上がっただけで様々な人物の反応がその時間に存在するのはおかしなことになってしまうのかもしれない。だが、このバレーボール漫画の発見はボールを拾って空中に上げるとそこに時間が生じるということなのだ。そもそもバレーボールはサーブの時を除いてバスケのように後ろでタイマーがカウントダウンを刻んではいない。だから、ボールが上に上がれば時間を自由に作れる。コート上の選手だけでなく漫画やアニメや映画の作者も。その時間を作るという表現が稲荷崎戦ではできていたように思うが、音駒戦では物足りないものになっている。
日向が高いレシーブを上げたもう一つは三セット目の最後にデュースが何度も続いて、烏丸に勝ちが来そうなところでチームの全員が焦って速い攻撃をしてしまう。勝つためには相手の態勢が整う前に何かをしないといけないという気分が蔓延して、その分助走が足りなかったり、精度が落ちたりと中途半端なプレーの連鎖にはまってしまう。烏野の監督は「ゆっくり、ゆっくり」と叫ぶが観客の声に消されてしまう。日向はそこで「オーラーイ」と一度高いレシーブを上げて時間を作る。全員がボールを見る。コート上の烏野の選手だけでなく、稲荷崎の選手、ベンチ、観客、実況、ここで画面で見ていた百沢も合宿のことを思い出す。烏野の三年で控えにいる菅原は「周りにはただのレシーブにしか見えないだろうけど、泣きそう」という。それはボールを上げることが時間を作るからで、放っておけば何もない真空になってしまうところに何かが存在しているように思えるからだろう。それが物語をつないでいる。それは音駒戦でオープンに上げたトスを打つただのスパイクには足りなかったものだろうと思う。
(『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』【公開直前PV】|2月16日(金)試合開始! - YouTube) |
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