物語と物語を救援するもの 劇場版 鬼滅の刃 無限列車編

人喰い鬼がすむ大正時代の日本。鬼に家族を殺された竈門炭治郎は、鬼に変貌した妹の禰豆子を元に戻すため“鬼殺隊”に入隊。蝶屋敷での修業を終えた炭治郎と、同じく鬼殺隊の仲間となった我妻善逸、嘴平伊之助は、禰豆子を連れて、短期間に40人以上が行方不明になっているという“無限列車”に乗り込む。そこで鬼殺隊最強の剣士“柱”の一人である煉獄杏寿郎と合流した彼らは、無限列車の中で鬼に立ち向かう。

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鬼滅の刃
劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 予告編第1弾 2020年10月16日(金)公開 - YouTube

物語ることができないもの

仮りに一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮りにその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない。

意見の発表を沈黙させることに特有の害悪は、それが人類の利益を奪い取るということなのである。すなわち、それは、現代の人々の利益を奪うと共に、後代の人々の利益をも奪うものであり、また、その意見を懐抱している人々の利益を奪うことはもとより、その意見に反対の人々の利益をさらに一層多く奪うものである、ということである。(p36,37)

自由論』 J.S.ミル

『鬼滅の刃』のヒロイン・竈門禰豆子は話すことができない。彼女は鬼舞辻無惨によって鬼に変えられてしまったが、どういうわけか完全な鬼にはならず、半分人間半分鬼のような状態で、彼女の兄で主人公の竈門炭治郎の言うことをある程度理解できる。炭治郎は彼女が鬼から人間に治る見込みがあると信じて鬼殺隊に入隊し伝令を通じて旅を続け、妹を元に戻すため鬼の謎を解こうとしている。奇妙なのは炭治郎が禰豆子をいつでもどこでも背負って連れていくことだ。鬼殺隊から指示があった鬼のいる危険な現場へ行くときも炭治郎は禰豆子を木箱に入れて背負っていく。禰豆子はその木箱に収まるように子供の姿にならないといけない。なぜそこまでして彼女を旅に連れて行かないといけないのだろう。

『ジョジョの奇妙な冒険・第3部』では主人公・空条承太郎の母親が敵のディオの影響で病気になり、承太郎たちは彼女を助けるためにエジプトへ旅に出る。しかし、ディオを倒しに行く旅に母親を連れて行くようなことはしない。普通は病気の人間を背負って戦おうとは思わない。では炭治郎はなぜそうするのか。炭治郎は師匠である鱗滝から禰豆子を預かろうかという申し出を断ってまで旅に連れていく。それはなぜなのか。禰豆子は半分鬼にされてしまったが、動けないというわけではない。鬼のように太陽の光の下で行動することはできないが、戦う力は持っている。敵の力で戦うという意味では仮面ライダーを思い浮かべることができる。

世界征服を企む悪の秘密結社「ショッカー」に捕らえられた本郷猛は、組織の戦士となるべく改造手術を施されてしまう。だが、本郷は脳改造の直前に脱出を果たし、ショッカーから世界を守るために仮面ライダー1号として戦うことを決意。同じく改造手術を受けた一文字隼人=仮面ライダー2号と共に、ショッカー、ゲルショッカーの怪人を迎え撃つ。こうして「仮面ライダー」と「悪の組織」の、長きに渡る戦いが始まった!

仮面ライダー | 仮面ライダーWEB【公式】|東映

「脳改造の直前」にというのがポイントなのだろう。仮面ライダーたちは、身体は改造されたが脳までは改造されておらず、記憶や言語能力を完全に維持している。それゆえ、彼らは「世界征服を企むショッカー」とか「平和を守る」とかいった概念を保持して戦うことができる。彼らの戦いにはそういった言語がつきまとっていて、そのために彼らは物語を作ることができる。『鋼の錬金術師』の弟の方もこれと同じ理屈だろう。「改造」されて身体はなくなり鎧だけになってしまったが、記憶や言語能力はある。禰豆子にはそれらがほとんど欠けてしまっている。禰豆子の口が竹で封をされているのは普段人を噛まないためや牙を見せないためだろうが、話すことを封じられていることを外見で表示している。顔は何かを暗示するものとして元のままで残されている。彼女は記憶も言語能力も持ち合わせていないことで、力をもちながら自分で自分の物語を生きることができない。彼女は一人で物語を生きられないことになっている。加えて『鬼滅の刃』の敵である鬼舞辻は自分が鬼にしたものに呪いをかけていて、鬼が「鬼舞辻」という名前を出すことを禁じている。鬼は鬼になることで人間のころの記憶も薄れており、同時に頭の中の思考も鬼舞辻に読み取られ、鬼舞辻を思い描いて何かを考えること、物語ることができない。

そもそもこの鬼殺隊入隊のための修業のエピソードも、序盤に置くには引きが弱いかなと思い、もう少し短くできないかと相談したんです。そのときも「普通の人間がそんなにすぐ強くなるわけないと思います」と、決してご自身の信念を変えることはありませんでした。

【インタビュー】『鬼滅の刃』大ブレイクの陰にあった、絶え間ない努力――初代担当編集が明かす誕生秘話 - ライブドアニュース

炭治郎は禰豆子の物語も引き受けなければならないと思っている。するとどうなるか。まずは、炭治郎は禰豆子と同程度に強くならないといけない。そのため炭治郎の修行に長く時間を割いている。仮面ライダーの相棒の人間が仮面ライダーと同程度に強くなるまで話が進まないと考えるとおかしな話だが、禰豆子の存在がそのことに必然性を持たせている。次に、炭治郎は二人分話さなければならない。禰豆子が話すことができない分、彼の独り言や心の声、禰豆子がいることを前提とした会話などが繰り広げられる。禰豆子を物語に加えないと、禰豆子の物語に加わらないといけない。そのために炭治郎は禰豆子を背負って旅を続けている。この作品にあらわれる「説明台詞」のようなものや冗長な自分を鼓舞するためのセリフも禰豆子の言語能力の欠如をもとにした必然だろう。「俺は長男だから我慢できた」という奇妙なセリフが話題に上っているが、大正時代の家父長的な背景からというよりも、禰豆子が何というかわからないが、それと類似した言葉を何か禰豆子に発してもらいたかったということではないだろうか。(参考:News Up 「長男だからって我慢できない」~子どもをその気にさせる方法 | NHKニュース

鬼滅の刃
劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 予告編第1弾 2020年10月16日(金)公開 - YouTube

両義的な彼女、物が語ること

沈黙した世界は、他人から私のもとにやって来る世界である。この場合の他人が悪い霊だとしても、そうなのだ。この世界の両義性は、冷やかしのうちに巧みに入りこんでいる。それゆえ、沈黙とは単なる発話の不在ではない。発話は、陰険に押し殺された笑いのように、沈黙の底に沈んでいるのだ。沈黙は言語の裏面である。つまり、あらゆる解釈から逃れてしまったということだ。これがひとを恐れさせる沈黙である。発話とは、他人が、発せられた記号を救援すること、記号を介した自分自身の現出に立ち会うこと、この立ち合いによって両義性を解消することである。(p158)

全体性と無限』エマニュエル・レヴィナス

禰豆子は半人半鬼と両義的な存在であるが、炭治郎は人間として彼女を救いたいと思っている。そのためには彼女を物語に含めることが重要なのだ。鬼舞辻が手下である鬼の言論統制を強いている中ではそれは一層重要だろう。メタ的には彼女は敵の力をもって人間の側として生き残った、主人公になれたであろう存在だ。本来物語を得るものだった存在に、誰かが物語を与えないといけない。その対象は禰豆子にとどまらない。もう話すこともなくなってしまった鬼が炭治郎に見せるのは顔などの外見とその持ち物である。炭治郎は「悲しみのにおいがする」といって、鬼の持ち物や持ち物だったものにクローズアップする。それらは原稿用紙や衣服などだが、炭治郎はそれを踏みつけにしない。それを両義的なものや多義的なもの、つまりどうでもいいものではなく、それが人間だったことを示す唯一のものとして扱う。それは禰豆子を人間として救いたいという思いと連続している。漫画やアニメでキャラクターの過去編が物語の外の読者や視聴者だけに表現されることがあるが、炭治郎はにおいをかぎ取ってその読者や視聴者と同じ位置を占めることができる。読者が過去を見ているのではなく炭治郎が過去を見ている(嗅いでいる)。

映画のルーペは生組織の個々の細胞を我々の眼の前にもたらし、具体的な生の素材と実体をふたたび我々に感じとらせる。それはきみの手がなでたり打ったりしているのに、少しもきみが注意を払わず気づきもしないその手の動きをきみに示す。きみの生が手の中でいとなまれているのに、きみはそれを見向きもしないのだ。それはきみの生き生きとしたあらゆる身振りの内証をきみに見せる。その身振りの中にきみの魂が現れているのだが、きみはそれを知らない。映写機のルーペは、きみが気づかずにそれと共に生きている、壁に写るきみの影を示してくれるだろう。また何も知らないきみの手の中にある巻煙草の冒険と運命をきみに示してくれるだろうし、きみの道連れであり互いに生を形成し合っているすべての事物の――注意をはらわれないがゆえに――秘められた生を示してくれるだろう。(p83-85)

視覚的人間』ベラ・バラージュ
鬼滅の刃
劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 本予告 2020年10月16日(金)公開 - YouTube

「監督」でもなく「演技」でもなく

無限列車編の敵である魘夢は人間を眠らせて夢を見せる。それは良い夢、悪い夢さまざまだが、魘夢がそれをコントロールできる。魘夢は人間を眠らせた後、夢の中に使者を向かわせて、夢の外側にある無意識の領域にある精神核を破壊させる。核を破壊されたものは廃人になってしまう。どんなに肉体を鍛えていようが、人間の精神は等しく脆く、それを破壊すれば支配がたやすいというのが魘夢の考えだ。

炭治郎、伊之助、善逸の三人は炎柱の煉獄杏寿郎と合流して、乗客が何人も行方不明になっている無限列車の謎に立ち向かう。無限列車はすでに魘夢が支配していて、鬼殺隊の4人は皆眠らされてしまう。魘夢は幸福な夢を見せてから悪夢を見せて歪んだ人間の顔を見るのが好きなのだという。4人はそれぞれ違う「幸福」な夢を見ることになるのだが、それらには明らかな違いがある。

伊之助と善逸の夢は基本的に同じである。魘夢の使者として夢の中に入りこんだ子供が無意識領域に伊之助や善逸の分身がいるのを見て驚いていたが、彼ら二人は基本的に見たい夢を見ている。無意識にいる自分が監督となって夢の内容をコントロールして自分が主役として出演し、それに満足することが幸福なのだ。それらは基本的にギャグパートとして描かれていて、彼らの稚拙さを表しているのかもしれないが、その後の列車内の展開を言い当てているともいえる内容になっている。

炭治郎と杏寿郎の夢はそれと同じではない。彼らには無意識領域に自分の分身がいない。そのため夢の内容が彼らが内容を決めてそれに主演として登場するというような都合のいいものという形になっておらず、ある幸福な状況に巻き込まれるというものになっている。彼らはその状況に巻き込まれながら、幸福な演技をすることを強いられる。炭治郎の場合は鬼に殺されていない家族に夢の中で再会することになる。緊張の糸が切れ、昔のことが一度に思い出されて、涙が出る。彼はずっとその幸福な世界にいたいとも思う。だが、炭治郎の欲望は現実の禰豆子の方にいつも向いている。というよりも、この夢の中に他人がいないので欲望の向かう先がない。夢の中では形而上学的になってしまった現実の禰豆子が何か怪我をしたのを夢の中の炭治郎は嗅ぎ取り現実に戻らなくてはと夢の中の幸福な家族に背を向ける。炭治郎は夢から脱出するために刃を首に当てる。魘夢が炭治郎を夢の中に落とすたびに彼はそうする。魘夢はしびれを切らして炭治郎に今度は正反対の悪夢を見せる。悪夢の中で家族が恨みがましく生き残った炭治郎を責める。炭治郎は「言うはずが無いだろうそんなことを俺の家族が」といって現実に戻り、魘夢を斬る。彼は自分に関するあらゆる二次創作やメタフィクション、パラフレーズを拒否している。それらが彼が物語を救うこと、つまり禰豆子を救うことと真っ向から対立しているからであり、物語を無化、どうでもいいことにしてしまうものだからだ。炭治郎にとって家族は両義的でも多義的でもない。

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倫理的関係は、聖なるものとのあらゆる関係に抗する仕方で、関係を取り結ぶ者の知らないうちに当の関係がもちかねないあらゆる意義を排除することによって定義される。ある倫理的関係を取り結ぶとき、私は、自分が作者ではない劇、あるいは私よりも先に他者が結末を知っている劇のなかで演じることになるような役割を認めるのを拒むし、救済の劇であれ、劫罰の劇であれ、私の意に反して演じられたり、私を弄んだりするような劇であれば、それに出演するのを拒む。このことは悪辣な傲慢と同じではない。というのも、これはいささかも服従を排除しないからだ。ただし、服従は、まさに誰かが思い描いたり予示したりする謎めいた意図への非意志的な融即とは区別される。人間相互の関係に帰着しえないものはすべて、宗教の優れた形態ではなく、その永遠に原始的な形態を表しているのである。(p130)

全体性と無限』エマニュエル・レヴィナス
鬼滅の刃
劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 本予告 2020年10月16日(金)公開 - YouTube

映画は魘夢を倒した後に上弦の鬼・猗窩座が待ち構えていて、今までの精神的な戦いとは真逆のシンプルな力勝負が行われる。猗窩座と杏寿郎の凄まじい攻防に炭治郎は加わることができず、見ていることしかできない。杏寿郎の方も猗窩座の無限の回復力を前にじりじりと追い詰められていくが、太陽が出てくるまで時間を稼ぐことに戦いの質を変えることで猗窩座の方が追い詰められることになる。日の光に当たるとどんな鬼も死んでしまう。朝日が昇ろうとしている。不老不死で強くなるための時間が無限にあると思っているものに、人間の時間を思い出させる。猗窩座はもう少しのところで杏寿郎から逃亡する。杏寿郎はこの戦いで死に、炭治郎らが圧倒的な力不足と挫折感を味わって幕を閉じる。私はこれ以降の話の展開をまだ知らないので、このあたりのことを多く語ることはできない。杏寿郎のセリフは物語そのものへの批判でもあっただろうと思う。コロナ禍にあって「ここにいる者は誰も死なせない」は特別に響くだろうと思う。

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12/13/2020
更新

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