理性の弾丸 当事者を不在にする力 ズートピア
【4月6日 AFP】米国の白人医学生の半数が、アフリカ系米国人の生物学的特徴に関して誤った考えを抱いていることを示唆する研究結果が発表された。黒人に対する鎮痛治療が常態的に不十分である理由は、こうした誤解によって説明がつく可能性があるという。
米科学アカデミー紀要(PNAS)に発表された今回の研究は、米バージニア大学(University of Virginia)やその他の米国内の医学生、研修医として知られる1年目の医師の計222人を対象とした実験と調査に基づくものだ。
実験では、車のドアに手を挟んだなどの複数のシナリオを経験した黒人患者と白人患者に関する2件の模擬症例を被験者に読ませ、痛みを1~10点の10段階で評価させた。
さらに被験者には、黒人と白人との生物学的な違いに関するアンケートに回答させた。アンケートの質問には、「黒人の神経終末は、白人より感度が低い」や「黒人の血液が凝固する速度は、白人より速い」といった誤った記述の他、黒人は白人に比べて免疫系が強い、皮膚がより厚い、「繁殖能力が著しく高い」などの誤った記述も含まれていた。
その一方で、黒人は白人に比べて骨の密度と強度が高い、心臓病を発症しやすい、脊髄疾患の罹患(りかん)率が低いなどの事実を反映した正確な内容の記述もあった。
結果、被験者は平均して、誤った考えの12%近くを「正しい」と回答した。
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これまでの研究で、黒人患者は白人患者に比べて、鎮痛剤投与の割合が低いことが判明している。また投与される場合でも、その分量は、白人患者に配分されるよりはるかに少ないことが多い。
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また、「今回の研究が実証しているのは、黒人と白人との生物学的差異に関する、奴隷制の時代にさかのぼる考えが、黒人は白人より痛覚が鈍いという認識や、黒人患者の痛みに対して提案される治療の不十分さに関連していることだ」と説明した。(c)AFP
米黒人の鎮痛治療「格差」、誤解が原因か 研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
動物たちの“楽園”ズートピアで、ウサギとして初の警察官になったジュディ。でも、ひとつだけ問題が…。警察官になるのは通常、クマやカバのように大きくてタフな動物たちで、小さく可愛らしすぎる彼女は半人前扱いなのだ。だが、ついにジュディも捜査に参加するチャンスが!ただし、与えられた時間はたった48時間。失敗したらクビで、彼女の夢も消えてしまう…。頼みの綱は、事件の手がかりを握るサギ師のキツネ、ニックだけ。最も相棒にふさわしくない二人は、互いにダマしダマされながら、ある行方不明事件の捜査を開始。だが、その事件の背後にはズートピアを狙う陰謀が隠されていた…。
作品情報|ズートピア|映画|ディズニー
(Zootopia Official US Trailer #2 - YouTube) |
(羊か狼か番犬 アメリカンスナイパー|kitlog)『アメリカンスナイパー』では主人公クリス・カイルの父親が「人には3種類ある。羊と狼と番犬だ。男なら悪い狼から羊をまもる番犬になれ」とクリスに教える。父親の言いつけの通りに彼はネイビー・シールズに入隊する。後に彼にも息子ができるが、彼は息子には父親と同じこと、「羊と狼と番犬」についての比喩を言わなかった。『ズートピア』の物語もそのようなことと関係している。
人間を羊か狼か番犬に分類することはできるでしょうか。人間は互いに色々違ってはいますが、羊と狼と番犬ほど違っているとは思えません。それに人間は変化していくものです。人間は記憶喪失でもなければ(もしかしたら記憶喪失であっても)ある経験の一回目と二回目をそれが違うものだと認識することができる、それゆえにあらゆる感情に伴う意識は同一のものとしてとらえることはできません。そこには必ず変化があります。二回目は必ず一回目を経た二回目です。二回目の意識が一回目のそれと同じだとしたら、それは無意識だろうとベルクソンは述べています。
Taya Renae Kyle: If you think that this war isn't changing you you're wrong.
もしも何か固定的な人間に関する分類が言われるとしたら、そのような言明は明らかに政治的なものです。
羊か狼か番犬 アメリカンスナイパー|kitlog
『ズートピア』には様々な偏見が(なぜかそれは人間がいるかのような人間的偏見なのだが)あり、それがその通りだったり覆されたりという風にわれわれの普段固定的に「これはこうだ」とみなしているようなものについて批判的に「そうじゃないかもしれませんよ」という風に物語を仕立てていく。『ズートピア』の世界はファンタジックな雰囲気とは裏腹にどうやら「力」それも肉体的な力が支配する世界のように見える。市長はライオンで警察は屈強な大型動物や肉食動物で占められている。いきなり結末に関わる部分について書くが、副市長である羊のベルウェザーはある工作をしてその支配関係に革命を起こそうとする。偏見を覆すのではなく新たな偏見を創造することによって。具体的には支配関係の上位者である肉食動物を野性化・凶暴化するクスリを開発し(草食動物にも同じ効果があるが彼らには使わず)肉食動物を定期的に暴れさせ、彼らが危険な存在であることを大衆に認知させる。もともと野性化した肉食動物の失踪事件が起きていたのだが、それを解決した英雄の主人公ウサギのジュディが無知なことを利用して偏見を蔓延させる。「DNAに肉食動物が野性化する傾向が刻まれているのかもしれません」肉食動物の凶暴化は市民の安全保障に関わる問題であるから世論が大きく動き、ベルウェザーはその雰囲気の中で肉食動物の支配とは違う、ズートピア人口の90%を占める草食動物による民主主義による独裁をめざした。しかし、その動きに気づいたジュディとキツネに阻まれる。
興味深いのは偏見が創造される方法である。この世界でもともとある偏見はキツネが嘘をつくとか象が記憶力があるとか人間的なもので人間の存在を思わせるが決して人間は存在してはいない。肉食動物は草食動物を傷つけなくてもいいように進化したということになっている。けど、それはそうではないかもしれないという可能性によって覆される。それはいかに可能なのか。
知識には2種類ある。事実に関するものとある事実を推測するための知識だ。前者は例えば「東京スカイツリーが東京の東側にある」というのは事実でその場に行ったり写真や地図を見たりすれば容易に認められる知識だろう。後者はある図形が円ならばその図形が描く中心からの距離は一定であるというものだ。「円ならば」という風に条件がついていてその条件があればそれ以下のことが導けるというタイプの知識である。もしもわれわれが事実だけを知っているのであれば何も間違えることはない。スカイツリーが東京の西側にあると主張することも可能だがそれは意味を成さないとすぐにわかる。しかし、事実の確認が難しい何らかの暗闇を含んだ事象に関してはどうだろうか。例えば未来のことに関しては誰も何もわからないはずだが、それでは生活が成り立たないので予測や推測を行っている。その時に「AならばB」のように知識の種類が区別されていればいいが、われわれはしばしば条件を見ないで「AならばB」を「これはB」であるという風に理解してしまうのではないか。条件を確かめる前に判断してしまうのである。
そのことを利用して羊のベルウェザーがとった方法はこうだ。
《獣との信約はない》ほえる獣と信約するのは不可能である。なぜならば、かれらは、われわれのことばを理解しないので、権利のいかなる移転をも解せず受容しないし、いかなる権利をも他の者に移転することができない。そして、相互の受容がなければ、信約はないのである。(p220)
『リヴァイアサン(一)(岩波文庫)』ホッブズ
肉食動物を獣にすることで彼らを理解不能、コミュニケーション不能の存在にすることだ。つまり当事者(この場合は加害者の方)が何も話せなくなるのだ。もし凶暴化からすぐに意識が戻れば「何か首に衝撃があったあと急に意識がなくなって…」という風に何か解決のヒントとなるような証言ができたはずである。しかしベルウェザーはそれを封じた。「AならばB」の「A(ここでは夜の遠吠えの投与)」を隠してしまったので結果「Bである(肉食動物は凶暴化する)」という事実だけが残ったように見えるのだ。そうすると偏見の対象となったものはとても単純な何かに見えてしまう。「今まで暴れたのは肉食動物だけだ。肉食動物に生物学的欠陥があるのではないか。」それはわれわれが知性や理性が足りないからそうするのではなく、条件の知識が足りないために一層理性を働かせて遠い宇宙の様子を推測するようにそうするのだ。
『ズートピア』の場合は「AならばB」の隠された「A」はとても単純というか科学的なものでクスリを投与しさえすればよいというものだから、原因ははっきりしている。しかし人間の行為に関してはそう簡単にいくだろうか。
励ましも笑顔も「不謹慎」。熊本県などの一連の地震後、著名人がネット上で発信するコメントや画像をことごとく批判する「不謹慎狩り」という現象が起きた。なぜなのか。
「不謹慎狩り」なぜ起きた 地震後にネットで広がる:朝日新聞デジタル
心理学がまたしても言葉に欺かれていることが強く感じられる。ありうるすべての事例で発揮されるあらゆる注意を同じ語で指し示すことで、心理学は、それらの注意すべてが同じ性質を持つと想定して、それらのあいだにもはや大きな差異しか見ないのである。真実はどうかというと、各々の事例で注意は、それが向けられる対象によって特殊なニュアンスを持ち、いわば個別化されている。だからこそ心理学には、注意についてと同じく「利害」〔関心〕について語り、特殊な事例に即してより多様化し易い感受性を暗黙裡に介入させる傾向がすでにあるのだ。しかし、それでも多様性は十分に強調されてはいない。
『道徳と宗教の二つの源泉 (ちくま学芸文庫)』p60,61 ベルクソン
「不謹慎狩り」の件もそれを行った当事者に訊かずに「それがおこったのはなぜなのか」と問うているのは片手落のような気がしてならない。何か偏見を生産するとまでは言わないが、彼らの理由は(つまらないものであれ何であれ)もっと多様であるかもしれないのに。心理学主義は生物学的偏見と同様、重大なことを見落とす危険があることを知っておいたほうが良いと思う。
9/10/2020
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