思考術 SHERLOCK 2016元旦スペシャル
1895年のロンドン。数時間前に自ら命を断ったリコレッティ夫人の幽霊が、癒されることのない復讐への執念とともに路地を徘徊する。ホームズとワトソン、そして彼らの友人たちはその謎を解明すべく奔走し、“忌まわしき花嫁”の驚くべき真実が明らかになる。
SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁 | Movie Walker
NHK BSオンライン 「SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁」 5月9日放送
この映画はとても奇妙な物語を有しているが、KKKの覆面集団のようなものとして表象されるようなシャーロック(ベネディクト・カンバーバッチ)の女性嫌悪と物語で不意にあらわれるモリアーティの生死の確かめが中心となっている。シーズン3でモリアーティ(アンドリュー・スコット)は死んだことになっているがシャーロックはそれを疑っている。その2つが組み合わさって死体の交換、死んだのに死んでいない花嫁が夢のなかであるいは現実の中で幽霊のようにシャーロックを襲う。しかし、そのような過去と現在の交錯も一つの物語内物語としてあるいは物語内作者の物語として宙に浮いていることが混乱を呼び、これについて何か書くことを難しくしている。
物語は舞台の1895年のロンドンと現代のロンドンを交代しながら進む。交代といってもそれは生易しいものでなく、トリップつまり麻薬を摂取し中毒の手前でシャーロックは現代と1895年の夢を見る。彼は一体何のためにそんなことをしているのだろうか。『シャーロック・ホームズの思考術 』にはホームズのように考えるために「距離をとること」を意識するのが重要だと書かれている。物理的に現場から離れるとか精神的にあるいは無関係な活動を通じて距離をとることの重要性が書かれている。もちろん麻薬を吸って現実から距離をとれなどとはこの本にも書いていないし、ここでそれをすすめるつもりもない。シャーロックが距離をとりたかったのはモリアーティが存在するかしないか不確かな現実であり、同時にそれについて思い悩む自分自身でもある。彼はそれを解決あるいは解消するために全く無関係と思われる場所からはじめる。それが1895年のロンドンである(といっても彼が選んだのかは謎だが)。全くあり得べからざる方法だが、これは事件の解決ではなく一種の治療であるから、あり得べからざることは温存され物語が進む。
あり得べからざることを除去してゆけば、あとに残ったのが如何に信じがたいものであっても、それが事実に相違ないというのを、昔から私は公理としております。
『シャーロック・ホームズの叡智 (新潮文庫)』p68,69 コナン・ドイル/延原謙 訳
孤独な、情味のない頭脳だけの男、知的に卓抜なだけで、人情にまったく欠けた男とさえも思われるのである。女ぎらいで、しかも新しい友人をつくるのを好まぬことがすでに、彼の性格の非情さをよく表している。わけても親類関係のことをまったく秘して、おくびにも出さぬのにいたっては、いささか非情すぎるのである。というわけで、彼はまったく身よりのない孤児だとばかり私は思っていたのだが、ある日兄弟のことを話しはじめたのでびっくりしてしまった。
ある夏のこと、午後のお茶のあとで、話はゴルフ・クラブのことから、黄道の傾斜度変化の原因におよび、ついには隔世遺伝と遺伝的特性の問題にとぶといった具合で、いたってとりとめないものだった。ある人物に与えられた特別の才能というものが、どの程度その祖先によるものであるか、またその人の少年時代のしつけによるものであるかというのが、論点となった。
『シャーロック・ホームズの思い出 (新潮文庫)』p231 コナン・ドイル/延原謙 訳
1895年のホームズは忌まわしき花嫁事件の助言を得るために、兄のマイクロフト・ホームズ(マーク・ゲイティス)を尋ねる。彼は正典(原作とは言わないようだ)のように太っている。ホームズは黄道の傾斜度に関する論文を予習し兄弟でそれについてほんのちょっと会話がなされるが、それは物語にとってほとんど重要ではないように思う。『シャーロック・ホームズの思い出』の「ギリシャ語通訳」から引用されたそのシーンでは正典のように才能については語られなかった。特に隔世遺伝について。1895年のホームズと現代のシャーロックはお互いに違う時代の夢を見ることによって世代を超えて全く遠いところから経験を共有し、一つに見える二つの事件、二つに見える一つの事件を解こうとしている。それらは連続しているようで不連続で不連続なようで連続している。それらはといっても1895年の世界では正典の飛び飛びの引用でそこにも連続不連続の問題がある。
どんな事実でも、これを一般化するやり方は無限にあることは明らかであって、ここに選択が問題になる。この選択は簡単さを考慮することによってのみ導かれる。最もありふれた補間法の場合をとってみよう。我々は観測によって与えられた点の間を通って、できるだけ規則正しい連続な線を引く。なぜ角だった点や余り急激な屈曲を避けるのか。なぜ我々の曲線として最も気まぐれなジグザグな曲線をえがかないのか。その理由は、表現すべき法則はそれほど複雑なものであるはずはないということを我々が予め知っている、いや予め知っていると信じているからである。(p176)
一つの現象の進んで行く発達を全体として取るということをしないで、ただ一つ一つの瞬間を直ぐ前の瞬間と結びつけようと努力する。世界の現状は、いわゆるはるかな過去の記憶には直接影響を受けずに最も近い過去にのみ依存すると認める。この要請のために、現象の継起全部を直接研究する代りに、現象の「微分方程式」を書くことのみに限ることができる。(p184)
どの例においても遠隔作用は、少なくとも甚だ遠い距離における作用は存在しないと認められる。(p185)
『科学と仮説 (岩波文庫)』ポアンカレ
夢が内的な部分の運動によって惹き起されるもうひとつのしるしは、概念や想像の相互の連続が、無秩序であり偶然であるということであります。といいますのは、わたくしたちが目覚めているときには、ちょうど、乾いた平らなテーブルの上では水が人間の指に沿って流れていくように、まえに知った概念は、のちの思想や概念を呼び起す原因となります。しかし、夢のばあいには、普通は一貫性がありませんので(かりに一貫性があったとしても偶然的なものです)、その一貫性は、夢のなかでは、頭脳のすべての部分でその運動がいちように回復させることが起らないにちがいありません。こうして、わたくしたちの思想は、空中に浮かんでいる雲のあいだに見える星のように、人が観察しようとする順序にしたがうことなく、あちこちと飛び交う、ちぎれ雲のように現れてまいります。
『法の原理――人間の本性と政治体 (岩波文庫)』p33,34 ホッブズ
夢と現実に滑らかな線を引くことにどういう意味があるのかは具体的には分からない。しかし、シャーロックはそのやり方でモリアーティの謎を個人的に解いた。『思考術』のように精神的に距離をとる事が重要なために行われているのか。それとも、我々は眠って夢を見て起きることを毎日繰り返しているが、その事自体が現実のおおよそ連続的な経験と夢の不連続な痕跡、夢とは現実の感覚を再現しそれを一貫性なしに偶然組み合わせるものだとしたら、そういったあり得べからざるものがあり得べきものを決定し、それは意識されずに行われているがそれを意識することが考えるということではないか。「あり得べからざることを除去してゆけば、あとに残ったのが如何に信じがたいものであっても、それが事実に相違ない」のであれば、あり得べからざることを予め知っておかなければならないから。
(追記)
かなり前に観たのですが、なぜすぐに書かなかったのかといえば、映画公開当時シャーロックのように体調が悪かったからです。映画の内容とは全く関係ないのだが、劇場内から途中で出たいと思ったほどでした。といっても麻薬はやってませんが。タイトルも不吉だし。
4/18/2019
更新
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