”それ”はITかジョージーか、記憶と想像について IT/イット “それ”が見えたら、終わり。

一見、平和な田舎町で発生した相次ぐ児童失踪事件。内気な少年ビル(ジェイデン・リーバハー)の弟も、ある大雨の日に外出し、通りに夥しい血痕を残し消息を絶つ。悲しみに暮れ、自分を責めるビル。そんななか、突如“それ”は現れ“それ”を目撃して以来、ビルは恐怖にとり憑かれる。しかし、得体の知れない恐怖を抱えることになったのは、彼だけではなかった。不良少年たちにイジメの標的にされている子どもたちも“それ”に遭遇していた。自分の部屋、地下室、バスルーム、学校、図書館、そして町の中……何かに恐怖を感じる度に“それ”は、どこへでも姿を現す。ビルとその秘密を共有することになった仲間たちは“それ”に立ち向かうことを決意。だが真相に迫るビルたちを、さらに大きな恐怖が飲み込もうとしていた……。

IT/イット “それ”が見えたら、終わり。 | 映画-Movie Walker

二〇一九年の映画の批評はこちら(吐く男 IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。 - kitlog - 映画の批評

IT/イット “それ”が見えたら、終わり。
(映画『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』予告編 YouTube

float
/flóut/
[動](自)
1 [I([副])]〈物が〉(液面に)浮く, 浮き上がる((up));〈船・気球などが〉浮かぶ, 浮流[浮遊]する, 漂う(⇒FLY1[類語]);〈鳥・雲・木の葉などが〉ゆっくり飛んで[流れて]いく, ひらひら飛ぶ((away, past));〈音・においなどが〉流れる, 漂ってくる;〈月・雲などが〉(空に)かかる;〈旗が〉ひるがえる

a small boat floating on the river
川に浮かぶ小舟
the moon floating in the sky
空にかかる月.

3 〈幻想・考えなどが〉浮かぶ, 〈心が〉さまよう;〈決意などが〉(…間を)ぐらつく((between ...))

ideas floating in [through] one's mind
心に去来する考え.

floatの意味 - 英和辞典 - コトバンク

"You'll float too."とピエロの格好をした”それ”ペニーワイズはいう。floatは浮かぶという意味で、蝋を塗った折り紙の船が雨水に浮く様子や赤い風船、ラストのペニーワイズの恐怖にとらわれて浮かんでいる子どもたちなど、映画の中では浮かぶものが目に見える形で表されている。これはおそらくミスリードのためではないかと思う。つまり、ペニーワイズが望んでいるのは、物理的に何かが浮かぶということではなく、子どもたちの心のなかに何かを思い浮かべることだ。彼はそれをビジュアルから、つまり実際に浮かぶものから連想させ、子どもたちの心に何かを思い浮かばせ、何かを残そうとしている。それは、子どもたちそれぞれにとっての恐怖の対象である。それはひとりひとり違う。

ビル(ジェイデン・リーバハー)にとっては排水口に流されて行方不明になり死んだものとされているジョージー、ベバリー(ソフィア・リリス)にとっては生理で『キャリー』でも似たような人物像が見られるがこちらの方は女性であることに対する恐怖も描かれている。エディ(ジャック・ディラン・グレイザー)は潔癖症でエイズがその人に触ったものを触ると感染するとか事実と違うことを早口で喋っている。スタン(ワイアット・オレフ)はユダヤ教徒で父親が教会でラビを努めており、彼は教会にある顔の歪んだモディリアーニ風の絵を怖がっている。ベン(ジェレミー・レイ・テイラー)が転校生でデリーの町に最近越してきたのだが、彼はこの町の歴史を恐れている。マイク(チョーズン・ジェイコブス)は以前に火事にあい家族を亡くしたトラウマがある。特異なのは、牛乳瓶の蓋のようなメガネをかけ、眼が強調されたリッチー(フィン・ウルフハード)である。彼は彼ら「ルーザーズクラブ」のなかで唯一恐怖に感じるものがなかった。彼らがピエロに会ったことがあるか?いつピエロに出会った?何が怖い?とお互いに話しあっているときにリッチーは自分の経験や過去にある対象ではなくピエロが怖いという。彼にはそれまでピエロが出てこなかったのだが、みんなの話を聞いて怖いと思うようになったのだろう。実際に、彼がピエロがいるとされる館に入ったときに、彼は大量のピエロに囲まれることになる。これらのことから、リッチーはおそらく観客の代理であると考えられる。彼のように、映画を見ている観客もピエロが子どもたちを怖がらせる様子を見てピエロを怖いと思ったはずだ。その彼がラストのピエロを倒すシーンで勇敢なセリフとともにそれに立ち向かっていくシーンは、我々を物語に惹きつける役割をしている。

『スタンド・バイ・ミー』も少年たちの物語だが、ここでは彼らが遠くの川辺にある死体を探すということがはっきりしている。少年たちの一人が兄とその仲間の会話を偶然聞いて、ある場所に死体があることを知り、彼らはそれを見に行く。ここでは死体があることもそれがある場所もはっきりしている。それに比べて『IT』では物語の最初にジョージー(ジャクソン・ロバート・スコット)がピエロに連れ去られる描写があるが、ジョージーが死んでしまったのか死体はどこにあるのかといった情報は未確認のままである。この違いはとても重要だ。ピエロは明らかに実際の恐怖よりもあやふやな恐怖の方を具体的なものよりも抽象的なものを好んでいる節がある。それが動き出すはずがないのに動くかもしれないとか、そこにそれがいるはずもないのにいるとかいったような恐怖のほうが彼にとって都合がいい。それが理由でか、ベバリーに性的虐待をしている父やヘンリー(ニコラス・ハミルトン)を銃でしつけをする恐しい警官の父といったような具体的な恐怖の対象は排除されてしまう。ピエロはヘンリーに彼が無くした父親から借りていたナイフを送り、ヘンリーに父を殺すように仕向ける。ヘンリーはナイフ片手に父ににじり寄り、テレビの画面では子供向け教育番組の先生の顔がピエロに代わり父を殺せと連呼する。彼は父を殺してしまう。それはおそらくピエロの望んだことである。父が死んでしまえば、具体的な父の恐怖はもう生活の中で訂正されることなく(生きていれば話し合うことができる)、抽象的な恐怖に変わってしまう。そんなヘンリーも「ルーザーズクラブ」をいじめている具体的な恐怖の対象で、彼はベンの腹にナイフで自分の名前を刻もうとしたが、ピエロはそういった具体的なことは好まない。ヘンリーもまた井戸に落ちて死んでしまう。

(11月23日追記:具体的な恐怖、抽象的な恐怖はそれぞれ、下のコンディヤックの引用と考え合わせて、現前的恐怖、再生的恐怖とした方がいいかもしれない)

ピエロにとって恐怖が抽象的であることの利点は、記憶と想像がごっちゃになり観念と観念の結合に失敗が生じることである。

眠らない限り絶えず我々に現れている知覚[現前知覚]と、一定の時間的感覚を置かなければ――目覚めているときでさえ――経験できない知覚[再生知覚]との間に見られる違いに注目するならば、これらの知覚を思い浮かべるさいの我々の能力がどこまで達するのかを人はすぐにも見て取ることができるだろう。すなわち、あまり複雑でない形であれば、想像力によって意のままにそれを思い描くことができるのはなぜか。それに対して複雑な形の場合には、記憶によって呼び起こされる名前によってしかそれらを互いに区別できないのはなぜか、といったことを人は見て取るのである。(p69)

観念と観念とを結合するというこの能力には、長所と同時に不都合な点もある。これを分かりやすく示すために、二人の人間を想定してみよう。一人は、この結合の能力を全く持たない者であり、もう一人は、あまりにも容易かつ強力にこの結合がなされる結果、その個々の観念をもはや思いどおりには分離できなくなってしまうような者である。(略)後者の人間は、過剰な想像力と記憶とを持つことになるであろうが、この過剰は想像力と記憶との完全な喪失とほとんど同じような結果を生み出すことになるだろう。彼もまた反省能力を行使することがほとんどできないであろう。つまりそれは狂人である。互いに最もかけ離れた諸観念も、それらが彼の前には一緒に現れてくるという理由だけによって、精神においてあまりにも強く結合してしまうので、それらの無関係な諸観念があたかも自然的に結合しているかのように彼は判断してしまうであろうし、ある観念から別の観念への気ままな連想も、彼には必然的なものに見えるであろう。(p76)

人間認識起源論(上)』コンディヤック

子どもたちはあやふやな恐怖の結果、肉屋の扉が火事の現場のように見えてしまったり、油絵の肖像画が動きだす、薬を落とすと病人が目の前に現れるといったような観念の結合の失敗、動かないものを動くとおもったり、関係の薄いものどうしをつなげたりということを起こしてしまう。そこでは子どもたちは自分の記憶や想像をコントロール出来ないのだ。「ルーザーズクラブ」だけではない、映画のはじめにベバリーが学校でビッチであることが噂されそのせいでいじめられるが、ここでも記憶や想像が混乱している。この映画はその記憶や想像の支配権を取り戻す物語であり、それは喪の作業でもある。つまりわれわれは観念の結合を支配して、死んだ人間が墓から蘇ってくることがないといったようなことを、確かめそういった連想を現実の生活では抑圧しておかなければならない。(ヨロコビとカナシミのモーニングワーク インサイド・ヘッド|kitlog夢を統べるもの エイリアン:コヴェナント|kitlogこれらが関連している。)

ビルの恐怖の対象も他と比べると特異な点がある。それは、彼がその対象であるジョージーと会話ができるということだ。その点で彼の恐怖の対象は他の子どもたちと比べて具体的なのだ。そして、その具体性はピエロがヘンリーの父を殺させたように、ピエロにとっては好ましくないものだ。具体的なものは訂正可能である。訂正されるとそれは恐怖の対象でなくなり、恐怖そのものが消えてしまう。ビルはジョージーが排水口に流される直前、船の折り紙をつくってやったあとで、船の代名詞が”She”であることをジョージーに教えていた。ジョージーは船がsheであることに驚いていた。そのことをピエロは知らない。ピエロはジョージーになりすますが、船をsheと言わなかったことで偽物だと見抜かれて頭を羊の屠殺用の銃で撃ち抜かれてしまう。ビルはここで恐怖を記憶の問題にしたのだ。記憶の問題にして、その間違いから観念の結合が狂わされていることに気づくことができた。それによって弱ったピエロは子どもたちに取り囲まれる。恐怖の対象は子どもたちひとりひとり違うため、ピエロは子どもたちをそれぞれひとり孤独にしてから襲う必要があったが、もう今はそうすることができない。みんなで確認した恐怖はすでに恐怖ではない。ピエロは一旦敗北を認め、27年の間井戸の奥深くへ潜る。ビルは下水道の奥底にジョージーの着ていた服を見つけ、彼が死んだのだと皆と悲しみを共有する。それは決して恐怖の対象ではない。

IT/イット “それ”が見えたら、終わり。
(映画『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』予告編 YouTube

観念と観念の結合の失敗、喪の作業の失敗は現代の生活でも問題だと思われる。

記憶には、わたくしたちが見るところ、多少のあいまいさが残ります。とすれば、記憶とは、全体の概念がつかめたあとに生じる部分部分の喪失ということになりはしないでしょうか。きわめて離れた場所から見るときと、時間がはるか遠く過ぎ去ったあとから回想するときには、事物について同じような概念を持つことがあります。といいますのは、そのさいには、いずれも部分と部分とのあいだの区別がわからないからであります。つまり、いっぽうの概念は距離の作用によって。他ほうの概念は時の作用が衰えていくことによって起こるのであります。(p37)

法の原理』ホッブズ

ホッブズが記憶を問題にする場合、それは具体的である。それは何らかの形で知覚したものを問題にしているが、現代では実際に知覚してないものまで大量に扱わなければならない。そこでわれわれは経済的にその大量のものの中から何かを選び、積極的に部分部分を喪失させている。

人間は、見ることも、触れることも、嗅ぐことも、聞くことも、記憶することもできない世界の大きな部分を知力によって知ることが可能になった。しだいに人間は、自分の手の届かない世界についての信頼に足るイメージを、頭の中に勝手につくることになった。(p47)

われわれの意見が、直接に観察できるより大きな空間、より長い時間、より多くの事柄にまで及ぶことは避けられない。したがって、われわれの意見は、他人による報告と自分が想像できるものから、あれこれつなぎ合わせてできたものにならざるをえない。(p109)

われわれが外部から受ける印象は困惑するほど多様であるので、たとえあらゆる種類の検閲によって削除されたあとでも、なお寓話というさらに経済効率が大きい手段を採用せざるを得ない。あまりにも事物の数が多いので、われわれはそれをすべて頭の中に鮮明にしまっておくことができない。そこでわれわれは、そうした事物に名前をつけ、全体の印象をその名前によって表徴させるのがふつうである。

しかし、名前というものは穴だらけだ。古い意味は抜け落ち、新しい意味がしのび込む。そしてその名前があらわすすべての意味をそのままもちつづけようとする努力は、最初に受けた印象そのものを思い出そうとするのとほとんど同じくらい骨が折れる。しかも名前は思想に代わる通貨としては貧弱である。きわめて空疎で、抽象的で、非人間的である。そこでわれわれは、名前を個人的なステレオタイプを通して見ることを始め、深読みをし、ついには名前の中に何らかの人間的性質が具体化されていると思うようになる。(p214)

世論(上)』リップマン

名前、ジョージーという名前は、穴だらけかもしれないが、itという代名詞よりは具体的である。リップマンも認めているように、ジョージーという名前によってビルはジョージーから受けた印象を骨が折れる作業であろうとなかろうと思い出すことができる。それは”それ”によって分裂させられていた「ルーザーズクラブ」を一つにする名前である。

IT/イット “それ”が見えたら、終わり。
(映画『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』予告編 YouTube

関心があるのは、異質な意見を統率する者がどのようにして同質の投票を確保しおおせるか、その手順のみである。

この代表者大会は幸福の前兆であります。この大会は和解の力強さを示しております。リンカーンの党が復活したことを意味しております。

この傍点(ここでは強調)をふった言葉は接着剤である。この種の演説にあらわれるリンカーンは、もちろんエイブラハム・リンカーンとは何の関係もない。これは一つのステレオタイプにすぎないものであって、リンカーンという名を包みこんでいる敬虔な気持ちを、いまその人を真似ている共和党大統領候補者に移し変えることが可能になる。リンカーンの名は共和党員に、すなわちブル・ムース(一九一二年、ローズヴェルトが組織した革新党の党員を指す)にも共和党保守派たちにも、分裂前は自分たちが共通の歴史を持っていたということを想起させる。(p18,19)

世論(下)』リップマン
9/10/2020
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