岸辺露伴があらわれない ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない
美しい海沿いの町・杜王町。平和に見えるこの町で、変死事件など次々と奇妙な事件が続発する。見た目は不良だが、心根の優しい高校生・東方仗助(山崎賢人)は、“スタンド”と呼ばれる特殊能力の持ち主。彼のスタンドは、触れるだけで他人のケガや壊れたものを直すことができる“クレイジー・ダイヤモンド”だった。そんな優しい力を持つ仗助はある日、一連の事件に関わるスタンド使い、凶悪犯アンジェロ(山田孝之)の犯行を邪魔したことから、次の標的にされてしまう。水を操る能力“アクア・ネックレス”を駆使して、執拗に仗助を狙うアンジェロ。その狡猾な手口によって、ついに大切な祖父の命が奪われてしまう。家族と町を守るため、戦いを決意した仗助は、危険を知らせに来た空条承太郎(伊勢谷友介)と共に、アンジェロに立ち向かう。しかし、アンジェロの背後では、謎の兄弟がすべての糸を引いていた。果たして、仗助と町の運命は……?
ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章 | 映画-Movie Walker
(映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』予告3【HD】2017年8月4日(金)公開 - YouTube) |
自分自身はどうやって見えないものを可視化した絵を描くか、ということを追求し続けて、考えたのが「波紋」です。カエルを殴ったらカエルはなんともなくて、下の岩が割れていたというように表現すれば、使い手の超能力の強さがわかります。僕自身は、この波紋を思いついて「やった!」という達成感があったのですが、しばらくして、ある時、担当編集者が「もう波紋は飽きた」と言い出しました。
そこで波紋が飽きられたのは、たぶん一種類だけだったからで、それならたくさんの種類があれば飽きることはないだろう、ということで生まれたのが、「スタンド」です。心のエネルギーであるスタンドは、いわば超能力を可視化した「波紋」をさらにキャラクター化したものです。(p184,185)
『荒木飛呂彦の漫画術』荒木飛呂彦
下のインタビューによれば、荒木氏の提案で『ジョジョの奇妙な冒険』であるにもかかわらずスタンドが見えない映画ということも考えたそうだ。
――まず、『ジョジョの奇妙な冒険』にスタンドは欠かせない存在ですが、どうやって実写化しようと考えたのかが気になりました。
「ただね、荒木(飛呂彦)先生の発想は、“ジョジョにはスタンドが出ると誰もが思っているかもしれないけど、出さなくていいんんじゃない”だったんですよ」
――スタンドを出さなくても、成立すると?
「そうはいかないんですけど(笑)、荒木先生のベースにあったのは、『なぜ、スタンドを出してジョジョの物語を進めないといけないのか』。多分、“ジョジョと言ったら、スタンドですよね”といろんなスタンドを出したほうが原作ファンも喜ぶだろうという方向に行くのを警戒したんだと思います」
――スタンドという存在だけが際立つ作品ということですか。
「スタンド合戦というか。映画の人達はそっちに行きがちじゃないですか。そこで冗談なのか、本気なのか“スタンドは出さなくていいと思いますよ”と。でも、そうなんですよ。視覚化しなくてもいいという感覚は自分の中にもありました。スタンドが見えるのはスタンドを使える人だけですから。僕らはスタンドを使えない人ですよね?」
【ジョジョ連載】三池崇史監督「“スタンドは視覚化しなくてもいい”荒木先生の言葉がスタンドの実写化を大きく動かした」 (1/2)| テレビ・芸能ニュースならザテレビジョン
スタンドとは能力者の精神を具現化したものだが、それを見せないということは『ジョジョの奇妙な冒険:第二部』の波紋の表現に戻ることであり、しかも能力の多様性も表現しなければならないということで、画面がとても混乱するように思える。なぜそのようなことが検討されたのだろうか。そこにどんな葛藤があるのだろうか。
(PS4/PS3「ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン」PV第3弾 - YouTube) |
これはジョジョのゲームのPVだが上の映画の予告と見比べてほしい。そうすると、映画の予告編にはないがゲームのPVの方には「ゴゴゴゴ」「ドゴオオ」などの擬音の描き文字がキャラクターの周りを飾っていることがわかるはずだ。これは私の考えだが、スタンドというのは本で言われているとおり波紋の延長であることは確かだろうが、同時にこのような「ゴゴゴゴ」といった擬音の描き文字を延長したものであるように思う。スタンドはキャラクターの精神の表現だが、擬音の描き文字はその場の環境の精神の表現で、ジョジョの漫画においてはおそらくこれらが同時に存在していることが不可分なのではないかと思う(必ず同じコマに描かれていなければいけないということではない)。だから、もしも漫画から映画に移ったときしかも実写化で移ったときに、そのような漫画表現が映画表現として成立するかどうか迷われたのではないか。もしも映画にするということで漫画表現を一切排除するということなら、スタンドを出さないという提案になったのではないかと思う。
ストーリーが盛り上がると共に、前半ではあまり使っていなかったカットバックという効果線をどんどん入れていくことで、絵にスピード感や迫力を出しています。映画の効果音のような役割の「ドドドド」といった描き文字も多用して、最高潮のシーンは、その効果音がちょっとうるさいくらいです。(p267-270)
『荒木飛呂彦の漫画術』荒木飛呂彦
けれど、ジョジョ第四部でスタンドを出さないというのはシーンの表現が難しく無理であろう。スタンドは出さなければいけない。であるならば、同時に映画の中に漫画表現を散りばめるべきだったのではないだろうか。「ゴゴゴゴ」といったような描き文字を足すようなやり方で画面作りをするべきだったのではないだろうか。特に、準主役(?)の広瀬康一君のスタンドのエコーズは漫画にあらわれる擬音の描き文字を武器にするというメタな能力を持っている。この映画の続きでそのスタンドがあらわれるのかどうかわからないが、もし出てくるのなら急に漫画の擬音が映画にあらわれることになって、おかしなことにならないだろうか。
そう考えると、私としては最初に岸辺露伴を画面に出したほうが良かったのではないかと思う。彼は漫画家で作中で『ピンクダークの少年』という漫画を描いている。彼のスタンド「ヘブンズ・ドアー」は相手を本にしてその人物の過去を読んだり、あるいはその過去を消したり書き加えたりできるという、物語内作者のような能力を持っている。それによって何かを書き込まれたり消されたりしたキャラクターの行動が変化する、その書き込みや消去によって行動が導かれるのだが、そのキャラクターの過去を読むという行為はジョジョの漫画を読むという行為と類似させられている。ジョジョの漫画では突然、キャラクターの過去、子供の時のトラウマや、過去に事故にあったときの体験など、そのキャラクターをそのキャラクター足らしめるようなエピソードが挿入される。これは「ヘブンズ・ドアー」と同じで読者にできないのはそのキャラクターの過去に何かを書いたり消したりすることだけだ。そのようなメタ的な存在の岸辺露伴が出ていれば、違和感なく映画を漫画化することができたのではないかと思う。例えば、彼が映画の中で漫画を描いていて、観客はそれを見せられているという風にすれば、漫画表現はためらわず出すことができる。
もともとジョジョ第四部はそれまでとは違って日本の日常を舞台としている特異な作品だ。おそらく、日常という舞台を選んだ意図の中には、現実の漫画家の日常について考えるということも含まれているのだと思う。なので、物語内に漫画家が出てきたり、マンガ表現を武器にするキャラクターや、漫画を作るための道具を武器にするキャラクターもいるというような内省的な作品になっている。漫画とは何なのか、第三部でスタンドを登場させたがスタンドとは何なのかということを研究しようとしたのが第四部なのではないかと思う。そのことをスルーして第四部を映画で描くことができるのか、少なくともこの映画は成功しているようには見えないと思う。
9/10/2020
更新
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