力の空白との戦い スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム

スパイダーマンこと高校生のピーター(トム・ホランド)は夏休みに、学校の友人たちとヨーロッパ旅行に出かける。そこにニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)が突如現れ、ピーターにミッションを与える。炎や水など自然の力を操るクリーチャーたちによって、ヴェネチア、ベルリン、ロンドンといったヨーロッパの都市をはじめ、世界中に危機が迫っていた。ニックはピーターに、ベック(ジェイク・ギレンホール)と呼ばれる人物を引き合わせる。“別の世界”から来たという彼も、ピーターと共に敵に立ち向かっていく。彼は味方なのか、それとも……?

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム | 映画-Movie Walker

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム
(映画『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』予告(6.28世界最速公開) - YouTube

力の空白と空白の虚構

世界は『アベンジャーズ/エンドゲーム』(生存戦略と英雄精神 アベンジャーズ/エンドゲーム - kitlog - 映画の批評)で自己犠牲によって亡くなってしまったアイアンマンを惜しんでいた。アイアンマンとキャプテンアメリカがいなくなってしまったことを冒頭の高校の放送部の雑なコラージュ映像で冗談ぽく演出しているが、現実には人々が本気でアイアンマンを求めている様子が描かれる。ピーターの教室の壁にはアイアンマンの似顔絵で埋め尽くされ、街中はアイアンマンのグラフィティで溢れ、飛行機のなかでは映画のタイトルの中にトニー・スターク物語が配信されている。アイアンマンがいなくなった穴は大きい。

ホームレス支援のための集会にメイおばさんと出席したスパイダーマンは、マスコミから「宇宙からの脅威に今後どう対応するつもりですか」「アイアンマンの代わりは誰になるのですか、あなたがそうなるのですか」などと質問攻めを食らう。彼等はスパイダーマンの中身が十六歳の高校生であることを知らないが、それを知っていたら同じように質問をするだろうか。しかし、ピーターは自分の正体を明かすことができない。彼は大人のふりをすることの窮屈さとマスコミのプレッシャーに耐えられなくなり、その場から逃げ出してしまう。

年齢の問題もあるが、ピーターはスパイダーマンを「親愛なる隣人」だと定義している。それは、より人間的、地域重視と解されるのかもしれないが、スパイダーマンは裏を返せば遠くに行く移動手段を持たないのだ。アイアンマンは飛んでいくことができるが、スパイダーマンは糸でスイングして行くほかない。『ホームカミング』(大都市から遠く離れて スパイダーマン:ホームカミング - kitlog - 映画の批評)のように郊外の低層住宅地ではそれもできず地面を走っていくしかなかった。アイアンマンのようにインドからスパイダーマンのピンチに駆けつけにやってくるといったようなことができない。『ホームカミング』の舞台設定はほとんどスパイダーマンに向いていなかったのだが、『ファー・フロム・ホーム』でもそれは同じだ。旅行という名目で、遠距離の移動を強いられるが、スパイダーマンは自前の移動手段を持たないために、他人を運転手にすることになってしまう。そのために、ほかのヒーロー以上に他人に振り回されることになってしまうのだ。現にこの映画では何度も運転手をのっとられ行き先を変えられている。そのような不安定さも、アイアンマンのようになれるのかというところに影を落としている。

観客は物語のなかに大きな力の空白を認めざるをえない。そしてそのような空白が今回のスパイダーマンの敵である。その空白は敵のキャラクターとして実体化している。敵は空白で満たされたような空っぽのモンスターである。

アメリカ人ほど完全に自分の環境の支配者となった国民は存在したことがない。しかも、アメリカ人ほど強く、自分があざむかれ、失望させられたと感じている国民はいない。なぜなら、アメリカ人ほど、世界が与えることができる以上に多くのものを期待する国民はいないからである。

われわれは、こうしたとほうもない期待によって支配されているが、それらを次の二種類に分けることができる。

1 世界の出来事についての期待 ニュースがどれくらいたくさんあるか、どれくらい大勢の英雄がいるか、どれくらい傑作が創造されるか、日常的なものをどれくらいエキゾチックなものに変えることができるか、等についての期待。場所の遠近についての期待。

2 世界を変えるわれわれの能力についての期待 出来事がない時には出来事を作り出し、英雄が存在しない時には英雄を生み出し、自分の国にいながら外国へ行けるという、われわれの能力についての期待。芸術形式をわれわれのつごうに合わせて変えてしまう能力についての期待(小説を映画に、映画を小説に、また交響曲をムード音楽に変えること)。国家目的が欠けている時、それを作り出し、のちにその目的を追求することへの期待。価値の標準を作り出し、のちにそれが啓示され、自然に見出されたもののように尊敬することへの期待。

とほうもない期待をいだき、はぐくみ、つねに広げながら、われわれは幻影の需要を作っている。そしてその幻影はわれわれをあざむく。しかも人に金を支払ってその幻影を作り出してもらう。(p12,13)

幻影の時代』ブーアスティン

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム
(映画『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』予告(6.28世界最速公開) - YouTube

敵はオリジナルなきコピー

ピーターは自分はアイアンマンの代わりにはふさわしくないのだと思っている。それゆえ旅行にはスーツを持っていかなかったし、ニックの電話も無視していた。そんなときにあらわれたのがミステリオである。人びとがヒーローを求め、スパイダーマンはヒーローをやめたがっている、その空白が彼のねらいだ。ミステリオは映画撮影のように脚本家、CG製作、衣装、小道具などのスタッフを集め、ヒーローになりきり、敵を作り、彼の物語の設定を用意して、ニックやピーターに近づいてきた。彼はプロジェクターで敵の幻影をつくり、その内部に武器を装備したドローンを配置し、あたかもそこに巨人のような敵がいるように見せかけた。そして同じようにプロジェクターで自分の姿を映して、ミステリオがその敵と戦っているように見せかけた。彼は、自分が別の平行宇宙の地球からやってきたといい、その地球では火のエレメンタルによって世界が壊滅させられたのだという。その戦いで家族をなくしてしまったという設定もつけた。エレメンタルとは何かというのは「君たちの世界にもいるだろう神話的な存在だ」として、日本の風神雷神などの例も出している(動物を親にすることはできない ゴジラ キング・オブ・モンスターズ - kitlog - 映画の批評)。

このようにミステリオはヒーローとしては何のバックグラウンドもない記号的な存在だ。あらゆる虚構や神話の中から、使えそうなものを選んできて人々が信じそうなものを使っているだけである。ピーターの友達が「アイアンマン+ソー=?」といったのもそのためだ。それをオリジナルなきコピーといったりもするが要は嘘のことだ。嘘といってもいろいろあるが、それは解像度の低い、独創性のないものである。設定その他は彼にとっては人々が信じてくれそうなものであれば本当は何でもいいのだ。彼はピーターとヒーローの悩み「いつも正しいことを選ばないといけない」「人並みの人生を送れない」を共有して共感を得て、火のエレメンタルとの戦いで「あの時できなかったことを」とアイアンマンのような自己犠牲の精神を見せたことによって、ピーターを完全にだますことに成功する。ピーターは彼をヒーローとして認めてしまった。

全面的相対性の段階、全般的置換・組み合わせ・シミュレーションの段階である。あらゆる記号が互いに交換し合うが、今や決して実在と交換されることがないという意味でのシミュレーション(諸記号は十全に交換しあうわけではない。諸記号は、もはや実在と交換されないという条件つきでのみ、相互に完全に交換しあうのである)、記号の解放――何かを指示するという記号がかつてもっていた「古代的な」義務から解き放たれると、記号はついに自由になって構造的あるいは組み合わせ的ゲームに参加するようになる。このゲームを律する規則は、限定された等価関係という以前の規則にとって代わった無差別と全面的不決定性である。(p25,26)

象徴交換と死』ボードリヤール

欲望に従え?MonkeyからManへ

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム
(映画『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』予告(6.28世界最速公開) - YouTube
動物は新しいあるいは未知のなにものかを見たとき、それが自分にとって役立つかそれとも害を与えるかどうかを識別することだけを考え、それにしたがって接近したり逃れたりします。これにたいして人間は大部分のできごとについて、それらがどのようにして惹き起こされ、また始まったかを記憶していますので、かれにとって新しく起るすべてのことから原因と始まりとを見つけようといたします。(p97)

法の原理』ホッブズ

ピーターはアイアンマンからサングラスを託されていた。ただのサングラスではなく、世界中の通信網、端末にアクセスできる人工知能イーディスが搭載されている。彼はそれを「I trust you」という手紙と共に受け取ったのだが、それをミステリオに渡し承認を与えてしまう。ピーターは直前に友達を危険にさらしてしまったことを悔いていた。同時に彼は今の旅行も楽しみたいと思っている。何より今のままではアイアンマンのようにはなれそうもないと思っている。ミステリオはそれを聞いて、ピーターに「君は何がしたい?」という。これはミステリオがピーターの主体性を問うているように見えるのだが、実際には違う。ピーターはそれに対して「友達との旅行を続けたい。MJ(ゼンデイヤ)に本当のことを伝えたい」という。それはピーターの本心の欲望かもしれないが、ミステリオの目的に役立つ欲望でもある。ミステリオは「君は何がしたい?」ということで、「目先のことだけ考えてくれ」といっているのだ。そうやってピーターが目先のことだけを考えて行動してくれたらミステリオは助かるのだ。

ミステリオのメッセージを少し抽象的にあらわすなら、「動物でいてくれ」ということだ。そこに餌が落ちている。動物は拾いにいく。このような単純さをミステリオは求めている。ピーターが目先の欲望に従ってくれていれば、ミステリオの大きな野望は隠されたままである。ピーターがミステリオについてそれ以上知ろうとすることはない。ピーターの友達のネッド(ジェイコブ・バタロン)はニックが急遽用意したスーツ姿のピーターをスパイダーマンではなく、「ナイトモンキー」だという。奇しくもそれはピーターの状態をあらわしている。彼は物語の冒頭からManになりきれていない。劇中で「ピーターむずむず」とよばれるスパイダーマンの第六感が機能していないのだ。彼の第六感は危機を敏感に察知する能力で、事態の先読み、ほんの少し先の将来を予測する能力である。『インフィニティ・ウォー』でも彼はサノスの部下の宇宙船にいち早く気づいた。しかし、今作では旅行前にメイおばさんの投げたバナナをかわすことができなかった。彼は目先の目的以外のものを見失っている。

ピーターがそのことに気づくのは、アイアンマンの能力をミステリオに奪われてしまってからである。しかし彼は気づいただけで何も対策をしていかない。彼は自分が何によってだまされたのかをMJが拾ってきたものによって知ったにもかかわらず、それについては何も考えない。「ミステリオのもとに早く行かないと」と何も考えずに行ってしまった。ミステリオの「動物でいてくれ」はここでも機能して、ミステリオの幻に魅了されてだまされピーターは敗北し、新幹線に激突され負傷し、またもや運転手が自分ではない状態でそのまま新幹線でオランダまで飛ばされてしまう。

そこで、まず第一に、その目的が、なんらかの感覚的な喜びに向けられている人びと、すなわち一般的にその喜びを、安楽に生きること、食物をとること、身体に栄養を吸収することや排泄がうまくいくことに向けている人びとは、当然のことですが、このような目的には役立たないと想像されること、たとえばわたくしがまえに述べたような、将来にかかわる名誉や栄光をえると想像されることによって喜びを抱くことは少ないのであります。なぜかといいますと、情欲の本質は感覚の快楽にありまして、それは、現存するものにのみ快楽を感じ、名誉に預かりえないようなものを観察する性向を失っているからです。したがいまして、かれらを好奇心も野心も乏しいものにしてしまい、知識やその他の力への道――この二つのなかに認識力のすぐれたものがすべてありますが――をあまり考えないようにしてしまうからであります。そしてこれこそが、人びとが鈍感と呼ぶところのものであって、感覚的もしくは肉体的喜びを求めることから生まれるものであります。また、まさにそのような情念は心をめぐる精神的な動きが粗雑になり、困難をきたしているからだと考えられるでありましょう。(p104,105)

法の原理』ホッブズ

彼はほんの少しだけでも自分が見聞きしたものについて自分で考えるだけでよかったのだ。考えたものを実現する設備は整っている。

見つめられることの意味

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム
(映画『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』予告(6.28世界最速公開) - YouTube

ハイパー現実は、現実界と想像界との間の矛盾が消滅してしまうような、もっとずっと先に進んだ段階を代表している。この段階では、非現実は、もはや夢や幻覚、あの世やこの世のそれではなくて、現実が現実そのものに、錯覚を起こさせるほどよく似ていることを意味している。表象作用の危機から脱け出すためには、現実を純粋な反復行為のなかに閉じ込めなくてはならない。この傾向は、ポップ・アートや絵画のネオ・リアリズム中に出現する前に、すでにヌーヴォー・ロマンのなかに読みとることができる。ヌーヴォー・ロマンは、現実のまわりにすき間を作り、現実を純粋に客観的な状態にもどすために、あらゆる心理描写と主観性を追放しようとしたのである。たしかに、この客観性は、純粋な視線の持つ客観性――モノから解放された客観性――であり、モノをなめまわすようなまなざしにとってかわる、盲目の視線にほかならない。この循環的誘惑には、見つめられることの放棄という無意識の企てが、容易に見いだされる。(p172)

象徴交換と死』ボードリヤール

ミステリオにイーディスを渡してしまった後で、ピーターはMJに会う。ミステリオに全てを任せて彼は旅行中に買ったガラスのネックレスをMJに渡そうとしていた。そこで、彼女から「あなたはスパイダーマンでしょ」と正体を見破られる。ピーターは動揺して「僕がスパイダーマンだと思ってたから僕のことを見ていたの?」と尋ね、MJも同じく動揺して「そう、ほかにどんなわけがあるの」といってしまう。ピーターはショックを受けるが、ミステリオを倒したあとで誤解は解ける。MJは「あなたがスパイダーマンだから見ていたわけじゃない」といってキスをする。ピーターはガラスのブラック・ダリアのネックレスを渡そうとするが、それはケースの中で壊れていた。それでもMJは不完全なほうが好きとそれを受け取る。それはピーターにとっては神格化されたアイアンマンと同じでなくてもいいという意味があるだろうが、同時にコピーされた商品が壊れた過程を経てオリジナルになったともいえるだろう。

それに対して、オリジナルなきコピーであるミステリオはじっと見つめられることに耐えることはできない。それはあくまでもプロジェクターで投影したものであり、中身は空っぽである。そこには何の裏づけもなく、じっと見つめられるとその嘘がばれてしまう。だからミステリオたちは視線が定まらないように特殊効果を加え、人々を怖がらせるのだ。ミステリオは死ぬ間際に嘘をつき、この事件を起こした自分に向けられるべき視線をピーターの方へと誘導した。あなたたちがヒーローだと思っているスパイダーマンは悪いやつだと皆を怖がらせたのだ。

原因と結果、起源と終末を廃絶しようとするシミュレーションは、それらを、二重化という操作でおきかえる。このやり方で、閉ざされたシステム全体が、対象志向性そのものと対象志向性のもつ苦悩から――そしてメタ言語全体から、身を守ることになる。つまり、システムは、みずからのメタ言語のふりをすることによって(自分自身を批判するという形で、みずからを二重化することによって)メタ言語をあらかじめ遠ざけてしまう。(p177)

象徴交換と死』ボードリヤール

(宗教改革以後の)分裂した世界をまじりけのない教義で再統一し、ただひとつの言葉のもとで世界を普遍化し(日本に新スペインを建設しようとした伝道師たちがそうだ)、中央集権的な同じ戦略に基づいて国家の政治的エリートとなること、これがイエズス会士たちの目標だった。そのためには、効果的なシミュラークルをつくりださなければならない。イエズス会の組織と機構自体がそのようなシミュラークルのひとつだったが、それはまた劇場の絢爛豪華な舞台装置ともなっていたし(イエズス会は枢機卿やお偉方たちの登場する一大劇場なのだ)、体系的なやりかたで子どもを理想的本性という型にはめようとした最初の教育機関でもあった。(p123)

象徴交換と死』ボードリヤール

関連:(スクリーンは反射して透過し最後に割れる ミスター・ガラス - kitlog - 映画の批評
11/17/2020
更新

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