スクリーンは反射して透過し最後に割れる ミスター・ガラス

フィラデルフィアのある施設に3人の特殊な能力を持つ男が集められ、研究が開始された。彼らの共通点はひとつ―自分が人間を超える存在だと信じていること。不死身の肉体と悪を感知する力を持つデヴィッド(ブルース・ウィリス)、24もの人格を持つ多重人格者ケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)、そして、非凡なIQと生涯で94回も骨折した壊れやすい肉体を持つ〝ミスター・ガラス″(サミュエル・L.ジャクソン)…。彼らは人間を超える存在なのか?最後に明らかになる“驚愕の結末”とは?M.ナイト・シャマラン監督が『アンブレイカブル』のその後を描く、衝撃のサスペンス・スリラー。

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ミスター・ガラス
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映画のラスト、デヴィッドの息子ジョセフ(スペンサー・トリート・クラーク)は動画の拡散が始まってちょうど二時間だという。ミスター・ガラスことイライジャ・プライスはヒーローの存在を世間に知らしめるのだと言って、ヒーローの超人的な能力をおさめたシーンを監視カメラで記録し、それをネットにばらまくことを計画し実行した。そして二時間が経った。おそらく現実のわれわれ観客の時間でも映画を見始めてから二時間が経っている。シャマラン監督は自分でこの作品の中に俳優として登場しているが、逆にイライジャがこの映画の映画内監督を務めているように見えるよう作られている。彼が監視カメラを設置させ、彼のシナリオで騒動が起こる。彼の作った映画がラストで「拡散から二時間が経った」と言わせるのだ。そして観客がスクリーンだと思っていたのものは、白い膜ではなく実はガラスでそれは光を反射(スクリーン)しつつ透過(カメラ)し、最後エンドロールには割れて映画の内容は現実にあらわれてくる。映画の内容が飛び出してくるかもという演出になっている。では、その現実とは何なのか。イライジャが言う通り、単に「ヒーローの実在」を示すだけのものなのか。しかし、彼はそれを目指すには明らかに遠回りしているし、彼は死ぬ直前に「これはリミテッドシリーズ(特別編)ではなくオリジンなのだ」といい、シナリオが考えていたことと変わっていることが示唆されている。それはどういうことなのか。

社会秩序の防御的資質は、個人の生活における限界状況、すなわち、きまり切った日頃の存在を決定する秩序の限界に彼が近づくか超えるかする状況に着目すると、とくに明瞭な姿を呈する。このような限界状況はよく夢や幻想の中に生じる。それは世界にはその〈正常な〉面のほかにもうひとつの面があって、ひょっとすると、今までそれと認めてきた現実の見方ははかなくて欺瞞でさえあるのではないかという執拗な疑惑として意識の地平に現れてくる場合がある。そのような疑いが嵩じると、それが、破滅的な変形の可能性を秘めつつ、自己と他者の双方の自己同定まで及んでくる。こうした疑いが意識の中心領域を侵す場合には、いうまでもなく、現代の精神医学ならば神経症あるいは精神病とでも呼ぶような様子を帯びる。こうした容態の認識論的な地位が何であろうとも(通常、精神医学によって、あまりにも自信たっぷりに多くのことが診断されすぎるが、その理由はまさしく精神医学が強固に日常に根ざし〈公の〉世間的な現実規定に根ざしているからである)、個人がもつそれらへの非常な恐怖は、それまでは有効であった規範に対してそれらがもたらす脅威に内在しているのである。(p47)

聖なる天蓋』ピーター・L・バーガー

複数の女性を誘拐する異常者と他人に触れるとその人物の犯罪が見える特殊能力者の対決が映画の最初に描かれるが、その善悪の戦いは両者がともに精神病者だとして病人扱いされ監獄のような病院に入れられることで中断されてしまう。その病院の精神科医ステープル(サラ・ポールソン)はその二人デヴィッドとケヴィンとすでに病院で「治療」されていたイライジャの三人を英雄妄想、超人妄想の患者だと断定する。彼女はあらゆることを決めつけにかかる。「あなたが超人妄想を抱いたのはいつですか、それは子供の頃の記憶と関係しているのでは」「それを抑圧するために妄想を創り上げたのではないか」「あなたが特殊だと思っている能力は実は普通の人と大差ないのではないか」「あなたが特殊能力だと思っているものはただの推理でそれを後付けで不思議な力だと言っているだけではないか」彼女はそうやって、彼らが超人であると認識していることがいかに間違っているかを延々と述べる。それを聞いて彼らは次第に自信がなくなってくる。彼らの能力に関する確信は歪んだガラスに写った自己像のようにぼやけてしまう。しかも彼らは隔離されており、他の意見を聞くことができない。彼らの前にはその精神科医の言葉だけが唯一反復される。「あなたは妄想を抱いている」と。

ステープルの超人妄想についての批判は、本人だけでなく家族にも及んでいる。デヴィッドの息子ジョセフは「父は面白い冗談の言える普通の父親だ、だから病院から出してほしい」と精神科医に説得しに来るのだが、ステープルに一緒に自警活動をしていたことを見抜かれて「あなたも超人妄想を持っているのではないか」と疑われる。「あなたの母親は五年前に白血病で亡くなっている。その埋め合わせのために父を超人だと思いこんでいるのではないか」「コミックは人々の欲望を描いたもので本当ではない」といって父を超人として見ないよう言いくるめる。でなければあなたも精神病とみなされると言いたいのだ。誰もデヴィッドを超人として認識しないならデヴィッドは超人ではない。彼は精神病者として生きていくことになるだろう。ケヴィンの友人のケーシー(アニャ・テイラー=ジョイ)にしてもケヴィンの超人妄想を解くための手段としてしか、ステープルは扱っていない。

物語の終盤、精神科医のステープルはある組織に属していることが明らかになる。それは団体名も集合場所も不確かな謎の組織で、現行の秩序を維持することを目的としている(秩序維持型のヴィランとしてサノスがいる。おおきながんとれっと、アイアンマンという希望 アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー | kitlog)。それは表舞台に出ることなく隠れて存在している。彼女らは秩序の維持という名目で超人を世界から人道的に抹消している。超人が善であろうが悪であろうが関係なく、超人であれば世界から排除しようとする集団だ。秩序の維持を求めるものが超人を排除するのは、もちろん彼らが秩序を変えてしまう可能性があるからだ。彼らは存在しているだけで、現行の善悪の判断が変わってしまうかもしれない。犯罪ではないとされていた犯罪が犯罪になってしまうかもしれない。

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なぜこのように聖人には模倣者がいるのか。また、なぜ善の偉人たちは、その背後に群衆を引き連れたのか。彼らは何も求めはしないが、人々を得る。彼らは言葉で説得する必要はなく、そこにいるだけで十分である。彼らの存在は一つの呼びかけである。というのも、これこそまさに、もう一つの道徳の性格であるからだ。自然に由来する責務は圧力もしくは圧迫であるが、完全無欠な道徳のなかには呼びかけがある。
……
われわれはその人の生涯について話を単に聞いただけなのだが、そのときわれわれは、想像力によってわれわれの行動をその人の判断の下に置き、彼の非難を恐れ、称賛を誇りに思った。(p45)

道徳と宗教の二つの源泉』アンリ・ベルクソン

この映画では最初に「スーパーマン・パンチ」とヒーローごっこをしている若者が登場する。彼らは、何の関係もない通行人をいきなり後ろから殴ることを動画に撮り盛り上がっている。殴られた通行人が持っていた紙袋を落としたのを動画で見返して、映像的な効果として素晴らしいといっている。そこに、自警活動をしていたデヴィッドが現れ、彼らに制裁を加える。ここで、誰もがヒーローであるといったような漠然とした話は否定される。しかし、ヒーローには模倣者が存在していることは示されている。スーパーマンは架空の人物なので、彼は現実の人の行動について具体的にあれこれ言うようなことはない。だから、スーパーマンを名乗りながら悪いことをすることも可能かもしれない。しかし、ヒーローが実在していたらどうなのだろう。彼は自分の模倣者が自分と正反対の言動をすることを許容できるだろうか。そう考え始めるやいなや善悪の判断は別の様相を帯び始める。善悪の判断のまわりに超人がうろついている。彼らは共同体が与えたものではないものを持っている。ステープルたちには、そのことが脅威なのだ(善悪の象徴を抹消して秩序の維持をはかることは犯罪者に有利に働かないだろうか)。そして、彼女たちは迫害を始める。

イライジャは病院で薬漬けにされているということだったが、彼は薬をすり替えていて薬漬けのふりをしていた。つまり、彼には病院の出す処方、精神科医の診断が何を意味するかということがはっきりと分かっていたのだ。それはただの迫害である。そしてそのことが、彼の言う回り道なのだ。彼の当初の計画は、超人のデヴィッドとケヴィンをオープンしたばかりでメディアが集まっているオーサカ・タワーで戦わせて超人の存在を世に知らしめようというものだった。少なくとも彼はそう言っていた。しかし、彼はケヴィンと病院から脱出する際、地下を通って回り道をすることを選択する。ステープルは報告でその様子を知って、地下を通って遠回りをしたのなら、追いつけるという。実際彼女たちはイライジャたちに追いついた。オーサカ・タワーで行うはずの戦いは目撃者の少ない病院の前で行われる。デヴィッドとケヴィンは戦いお互いに派手に暴れたことが明確になり弱ったところで、ステープルの組織のものに殺されてしまう。武器を持っていないものが銃殺され、もうひとりは拷問や虐待のように水責めにあう。それはあくまで人道的に行われたように取り繕われる。精神病者が暴れたからそうしたのだという理屈が成り立ち、それは世にでることはない。けれど、それが世に出たらどうなるのか。

Glass - Official Trailer [HD] - YouTube
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「いかにして人間獣に記憶が植えつけられるか。いかにしてこの半ば鈍重な、半ば愚鈍な刹那的悟性に、この健忘の化身にいつまでも消え失せないような印象が刻みつけられるか。」……この古色蒼然たる問題は、必ずしも思い遣りのある返答と手段とをもって解決されているとは思われない。のみならず、人間の前史時代の全体を通じて、その記憶術より以上に恐ろしく無気味なものは恐らく一つもないとさえ言えるであろう。(中略)人間が自己に記憶をなさしめる必要を感じたとき、血や拷問や犠牲なしに済んだ試しはかつてない。(p66,67)

道徳の系譜』ニーチェ

イライジャは病院が頭のいい彼のために注意深く取り付けた監視カメラの映像を拡散させる。イライジャの遠回りによって、「ヒーローは実在している」から「ヒーローは迫害されて実在している」に変わってしまった。そのために舞台はオーサカ・タワーではなく病院である必要があったのだ。彼は、組織の超人に対する人道的な処理を記憶術に変えた。それは物質として最も壊れやすいイライジャだから思いつくアイデアだろう。
9/10/2020
更新

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