手紙は届く(芸術の可能性について) グリーンブック

1962年、アメリカ。ニューヨークのナイトクラブで用心棒を務めるイタリア系のトニー・リップ(ヴィゴ・モーテンセン)は、粗野で無教養だが、家族や周囲から愛されている。“神の域の技巧”を持ち、ケネディ大統領のためにホワイトハウスで演奏したこともある天才黒人ピアニスト、ドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)は、まだ差別が残る南部でのコンサートツアーを計画し、トニーを用心棒兼運転手として雇う。正反対のふたりは、黒人用旅行ガイド『グリーンブック』を頼りに旅を始めるが……。

グリーンブック | 映画-Movie Walker

(映画『グリーンブック』公式サイト

グリーンブック
(【公式】『グリーンブック』3.1(金)公開/本予告 《本年度アカデミー賞作品賞含む3部門受賞!》 - YouTube

アメリカの公民権運動の歴史

グリーンブック:1936年から1966年までヴィクター・H・グリーンにより毎年出版された黒人が利用可能な施設を記した旅行ガイドブック。ジム・クロウ法の適用が郡や州によって異なる南部で特に重宝された。

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この映画は一九六二年が舞台になっている。一九六三年には首都ワシントンで大規模な行進が起こり、キング牧師が有名な演説を行った。一九六三年はリンカーン大統領が奴隷解放宣言を公布してからちょうど百年目にあたり全国黒人向上協会は六三年までに解放を呼びかけていた。アメリカの六〇年代はマイノリティの差別撤廃に向けた運動が盛んに行われ転換が起こった時期だった。

一九五四年五月一七日の公立学校における人種隔離を違憲とした、あの最高裁の判決から、モントゴメリーのバス・ボイコット事件、リトルロック高校事件、自由な乗車運動、ミシシッピー大学事件、ランチカウンターのすわり込み運動などを間にはさみ、バーミングハム事件につづいて、その闘争の直接的な発展としてもたれた今回の「ワシントン大行進」にいたる期間は、アメリカ黒人の歴史において、たしかに一時期を画するものであった。(p14)

黒人の市民的自由についていえば、一八八三年に合衆国最高裁判所が、アメリカ国民にあたえられたいろいろな特権(公民権)はそもそも州の市民にそなわるものであるから、これらは憲法修正第十四条の適用はうけないとして一八七五年の公民権法を否定して以来、南部諸州では交通機関、学校、レストラン、娯楽施設などにおける人種差別と隔離が、さまざまな法律によって法制化されていった。こうしたことに、とりわけ大きな役割をはたしたのは、一八九六年にやはり最高裁判所がルイジアナ州の列車内の黒人隔離にかんしてくだした判決(裁判上の用語で言うとプレッシー対ファーグソン事件)で、それは「隔離はしても平等」”separate but equal”ならさべつではないとする有名な原理をうちたてることによって、あらゆる人種差別に法的支柱をあたえ、これを背後から助長したのである。(p148)

『アメリカ黒人の歴史』本田創造

一八九六年には憲法における黒人差別の撤廃を求めたプレッシーの裁判で(プレッシー対ファーガソン訴訟)、最高裁判所は黒人を社会的に隔離しても、平等な扱いをすることができると判決し、「分離すれども平等」という理論が提示され、黒人を差別する諸州の法律は憲法違反でないことが認められたのだった。

この状態を改善するために地道な公民権運動が展開され、一九五七年公民権法では、黒人の投票権の保護が定められ、一九六〇年公民権法では連邦裁判所に黒人有権者の選挙登録の管理の権利が認められた。さらに一九六四年公民権法では、図書館、公園などの公共施設、ホテル、飲食店、劇場など、「公衆の便宜を提供する市営の施設」でも人種差別をすることが禁じられた。(p389,390)

リトルロックを考える訳注『責任と判断』ハンナ・アレント

差別が社会的な問題だけでなく法的な問題でもあったために、六〇年代には大規模な政治的な運動や闘争が行われなければならなかった。しかし、この映画は黒人の差別について描いてはいるが、そのような闘争や運動とは一線を画している。黒人ピアニストであるシャーリーはイタリア系アメリカ人のトニーを運転手にして、黒人差別が根強い南部へ向けてコンサートツアーを回るのだという。そこで賭けられているのは芸術の可能性についてである。どういうことか。

南部のツアーに出るまで


トニーはナイトクラブで用心棒をしていたが、クラブの改装のために無職になってしまった。妻と二人の息子がいるが、彼は夜型の生活で家族が眠っている時間に帰ってくる。昼ごろに起きてリビングへ行くと、彼のイタリア系の友人がテレビの野球観戦で盛り上がっていてその一人が「黒人が来てるのに妻を一人にするな」と忠告する。キッチンを見ると黒人の修理工が作業を終えたところだった。妻のドロレス(リンダ・カーデリニ)が彼らにグラスで飲み物をわたすのを見ていたトニーは彼らが使ったグラスをゴミ箱に捨てる。それに気づいたドロレスはそれをゴミ箱から拾い上げる。彼はどうやら黒人を差別しているようだが、ここではコミュニティの影響も匂わされている。無職の彼は家賃の支払いのための金策に走り、ホットドッグの大食いや時計の質入れなどを行ったりする。ホットドッグの大食いでは、相手が二十四個を食べ彼が二十六個を食べて勝ったという。彼が大食いなのは明らかだが、彼は本当に二十六個も食べただろうか。彼はその前のシーンで、ナイトクラブの偉い人に認められるために、自分でその人の帽子を隠したあとで、自分で見つけてきたというでたらめなことをしている。そんな彼のもとに「ドクター」の運転手をやってみないかという依頼がやってくる。

(ブッカー・)ワシントンは、黒人の地位や境遇の改善には黒人じしんがまず腕を磨き技能を身につけて、優れた農夫や職工として産業社会で白人と友情の絆を深めながら一歩一歩努力していくことがなによりも大切だと考えていた。そこから、やがて徳性ある黒人の中間層が生まれでるであろう。そうすれば白人もおのずから黒人の立場を尊重しなければならなくなる。だから、かれは、こうした足もとの努力を怠って、やたらに黒人差別の廃止を要求するやり方には反対だった。ワシントンのこの考え方は、そのままかれの非政治主義となり、たとえばさきにのべた人民党運動にみられる黒人のたたかいも、かれの目には白人の反黒人感情をいたずらに刺戟するものとしか映らなかったのである。(p182)

当時、人民党運動に悩まされていた支配階級が、この講演のなかに大きな光明を見出したとしても不思議ではない。講演が終るとジョージア州のバロック知事が走るようにやってきて、ワシントンと固い握手を交した。数日後、クリーヴランド大統領も、この講演をたたえる親書を送り、一夕かれをホワイトハウスに招いて夕食をともにした。アンドルー・カーネギーがかれの教育事業に六十万ドルの寄付金をだしたのをはじめ、スタンダード石油のH・H・ロジャース、南部鉄道会社の副社長ボールドウィン二世などの財界の巨頭たちも物心両面からワシントンの事業に支援の手をさしのべた。(p183,184)

『アメリカ黒人の歴史』本田創造

トニーはカーネギー・ホールの上階に住んでいるというシャーリーのもとへ面接に行く。カーネギー・ホールは実業家、鉄鋼王で知られるアンドルー・カーネギーによって建てられたルネサンス調の建物である。トニーはシャーリーの事をドクターと聞いていて、近くに病院を探すがドクターは博士号のことだと知る。シャーリーは南部へコンサートツアーへ行くための運転手を探しているという。黒人が差別している時代にトニーは馬鹿なと思うものの、彼もお金に困っているので引き受けようという気になっている。しかし、身の回りの世話もしなければならないと聞いて、トニーは怒りだし「給料を百二十五ドルに上げろ、それと運転以外の靴磨きのようなことはしない。この条件でダメなら他の中国人でも雇ってろ」といって部屋を出て行く。彼は失敗してしまったと思いながら妻のもとへ帰るが、明くる日合格の電話が来て、シャーリーはトニーの妻のドロレスに夫が二ヶ月留守でもいいかと尋ねる。ドロレスはトニーに「OKしておいた」と少し寂しそうにいう。シャーリーはトニーがイタリア系で差別されていることを知っていて、同時にプライドがあることに感銘したのかもしれない。プライドがあるというのはつまり奴隷ではなく自己決定の願望があるということだ。ツアーに出る日、ドロレスはトニーに「電話だとお金がかかるから手紙を書いて」という。トニーは面倒そうな態度をとるが、ドロレスは「五分で書けるから」というと分かったという。

トニーの感受性と拾った翡翠


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トニーは帽子の件ででたらめなことをしていたが、最初はせこい人間としても描かれている。彼は面接のときに記入用に渡されたペンを返さずに内ポケットに入れてしまうし、初めてシャーリーのトリオのメンバーと会ったときも自分のタバコを背広から出して吸おうとしてやめてそのメンバーにタバコを一本もらい、相手より先に火をもらう。

これと似たようなシーンでトニーが店先で売られている翡翠が地面に落ちているのを見て、それをポケットに入れてしまう場面がある。ツアー先へ向かう途中、食料を求めて売店によったところだ。トリオのメンバーがそれを見ていて、シャーリーに告げ口をする。シャーリーはトニーにお金を支払ってくるようにいう。トニーは「それだと意味がないんだ」といってそれを拒む。シャーリーはツアーに悪影響があるようなことは避けたいと思い彼を諭す。トニーは仕方ないなという感じで、店に向かい、お金は払わずにカメラのピントがぼけている先で、石を売り場に返す。シャーリーはよくやったという感じだが、トニーは気分が悪そうにアクセルを踏み込む。

後で明らかになることだが、この翡翠をトニーは返していなかった。お守りとしてずっと持っていたのだ。これはペンをくすねたりタバコをもらうというのとはだいぶ違う意味を持っている。タバコなどはすぐに消費してしまうものだが、石はずっと持っていなければならないし役に立たないものだからだ。なぜそのようなものが必要なのか。彼は石を買わなかった。そしてそれが落ちていたから意味があるのだという。お守りにすがるのはトニーの不安を表しているのかもしれないが、彼がたまたま売り物の石が地面に落ちていたことに価値を見出していることに意味があると思われる。彼はそのような偶然に賭けようとしているのだ。そして偶然とはこれから起きる南部への壮大な遠回りの旅での出来事のことである。

世界の構造を強化する生産的な芸術作品とは異なり、活動はいかなる計画や手本ももたないのであり、世界を変えるのである。活動においては、意思の深淵の自由のうちにひそんでいる世界の脆さと柔順性があらわになるのであり、二〇世紀の経験はまさにこのことを証言している。それでもアレントによると、こうした「でたらめ」で「混沌とした」偶然性にもかかわらず、すべてが終ったあとでは活動の「意味を明らかにする」物語を語ることができるのである。(p525)

解説『責任と判断』ハンナ・アレント

彼はたまたま拾った石の意味を明らかにしたいと思っている。

手紙は届く


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トニーは粗野な人物の印象だったが、音楽を理解する才能はあるようだ。彼はシャーリーが最初の会場で演奏したのを聞いて、近くで聞いていたほかの運転手に「あいつは巨匠だ」といって誇っているし、ドロレスに「あいつは本物の天才だ。だが、いつも考え事をしていて寂しそうな顔をしている」といったような内容の手紙を書いている。シャーリーの演奏はトニーの心に響いたようだが、なぜそれを他の人に言いたくなるのだろうか。ハンナ・アレントはカントを援用しながらこう書いている。

表象の能力がなければ、わたしたちはいかなるものについても知識をもてなくなるのですが、この同じ表象の能力は他の人々も共有していて、知識のうちに現れる図式が、判断の際の実例となるのです。共通感覚は、その想像の能力によって、みずからのうちに、実際は不在であるすべてのものを存在させることができます。こうして誰もが、ほかのすべての人の立場になって考えることができるとカントは主張します。ですから、誰かが〈これは美しい〉と判断したときには、たんにこれが自分にとって快いという趣味の判断をしているのではありません。たとえばポトフはわたしにとってはおいしい料理ですが、ほかの人にはおいしくないかもしれません。しかしこれが美しいと判断した人は、ほかの人々を考慮にいれたうえで、他者の同意を求めているのであり、自分の判断がある程度一般的な(普遍的なものではないかもしれませんが)妥当性をえられると期待しているのです。(p227,228)

道徳哲学のいくつかの問題『責任と判断』ハンナ・アレント

ここでいわれていることは、美的な判断には自分だけの閉じた判断だけではダメで必然的に他者の同意が含まれている必要があるというものだ。つまり、何かが美しいとかすばらしいというときには、必然的に他の人のことも考慮していることになる。それゆえに自分ですごいと思っているだけではダメで(このこと事態にすでに他者の判断が含まれているが)、何か別の判断を求めて「あいつ天才だろ?」「あいつすごいんだよ」などと同意を求めたくなったり知らせたくなるのだ。ここでは芸術と食事が比較されていて、アレントは自分はポトフが好きだが別の人はポトフが好きではないかもしれないといっている。この映画でもおそらく芸術と食事は比較されている。トニーはシャーリーの音楽やラジオの音楽に対して少しも文句を言わずに良いというが、ピザ、ホットドッグ、フライドチキンなんでも大口を開けて食べるトニーも唯一南部で出てきたピメントチーズのサンドイッチを食べるなりすぐにぺっと吐き出していた。それは食べた瞬間に嫌悪感をもたらすので別の解釈のしようがないのだ。

こうした判断の妥当性は、客観的で普遍的なものではありませんが、主観的なものでもありません。これは個人的な癖には左右されますが、間主観的で代表的なものなのです。この種の代表的な思想は、構想力だけが作りだすことができるもので、そこではある種の〈自己犠牲〉が求められるのです。カントは「われわれはいわば他者のために自己を放棄する必要がある」と語ります。

この利己心の放棄が、カントの道徳哲学の文脈においてではなく、このたんなる美的な判断において明記されているのは、きわめて興味深いことです。その理由は共通感覚にあります。私たちが共同体の一員となる感覚である共通感覚が判断の〈母〉だとすると、道徳的な問題だけでなく、絵画や詩の作品すらも、他者の判断を考慮し、暗黙のうちに秤量しなければ判断できないということになります。わたしがさまざまな橋を認識するために橋の図式を参照するように、わたしはこうした作品を判断する際に、他者の判断を参照にするのです。(p230)

道徳哲学のいくつかの問題『責任と判断』ハンナ・アレント

トニーはシャーリーの才能を認めてから、真に彼に献身するようになる。二回目の演奏で会場にスタインウェイのピアノが用意されておらず、トニーがそれについて会場にいる作業員に尋ねると彼は「黒人ならどんなピアノでも良いだろ」という。トニーは怒って彼を殴り強引にピアノを換えさせる。彼の行動は自分のためではなくシャーリーのためで一種の自己放棄だが、それが手紙のシーンでより強調されて描かれている。トニーが手紙を書いていると、シャーリーがそれを見て脅迫文でも書いているのかと冗談を言う。シャーリーが手紙を読んでみるとスペルの間違いだらけで、朝食にポテトを食べただとかテレビに洗濯物を干しているなどとそっけなく面白みのないことを書いている。シャーリーは自分が代わりに書くことを考えると言いはじめる。「ドロレス、君と恋をするのは必然だった。云々」と自分の言ったことを書き写すようシャーリーはいう。トニーはロマンチックだな(Fucking Romantic!)といって言ったとおりに、特別反対もせず書き写してしまう。自分の手紙なのに他人の言葉で送っていて、自分のことは脇に置かれているのだが、最後に自分の署名がしてあればそれでいいとまで彼は思っている。

カントは「実例は判断力の導きの糸」であると語っています。また、特定の事例を何らかの一般的なもののもとに包摂できないときに、判断のうちに存在する「代表的な思想」を「手本となる思想」と呼んでいます。一般的なものには依拠できないとしても、手本となるような特定の個別の事例があるわけです。これは、人や事物を収容するものを建物として認識するときに、心の中で思い浮かべる図式に似ています。でも手本は図式とは違って、質における差異を示すものとされています。(p233)

道徳哲学のいくつかの問題『責任と判断』ハンナ・アレント

ドロレスのもとに手紙が届くと、内容が急にロマンチックになっているものの嬉しそうにしている。そして、イタリア系の友人たちにその手紙を見せると「私もこんな手紙が欲しい」「あいつに文章の才能あった?」「あいつの先祖はダヴィンチの手伝いをしてたんだ」「ミケランジェロじゃなかった?」「ミケランジェロと手紙に何の関係が?」「芸術一家だってことさ」などといって、ここでも手紙(芸術)の評価を他のものに求める流れが起こる。それはその手紙が他のもの・実例を参照せざるをえないようなものだということの証になっている。それが手紙が届いているということなのだ。

シンボルのシャーリー


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しかし、この映画では残念ながら南部の白人たちには美的判断が届かない。公民権運動の盛り上がりに対して、白人コミュニティがどういう扱いをしたかについてこんな記述がある。

教科書、テレビ、広告などで、黒人やマイノリティたちがどのように取り上げられているか、その扱われ方を検討し変更を迫るのは、公民権運動のテーマの一つに過ぎないが、最も成果を挙げやすい課題でもあった。雇用、住宅、教育に関して人種統合に抵抗し続ける白いアメリカ人たちも、アメリカ社会のイメージを保つためにマイノリティたちに「名目だけの場」を提供することには反対できなかったからだ。彼らの論理に反論できる原則もなく、さらに重要なのはそうする何の理由もないことだった。シンボルだけを変えることは、現実をそのままにしておいても可能なのだった。(p42)

『改訂版アメリカ 書きかえられた教科書の歴史』フランシス・フィッツジェラルド

ある雨の晩、トニーとシャーリーは運転をしていてパトカーに呼び止められる。この州では黒人は夜出歩いてはいけないから止めたといって警官は彼らに質問をし始める。二人の警官のうち一人は挑発的で、どしゃ降りの中トニーに外に出るようにいい、そのあとシャーリーにも外にでるようにいう。そして警官が差別的な言動をしたところで、シャーリーが警官を殴ってしまい何もしていないシャーリーも牢に入れられてしまう。シャーリーは牢で警官たちの教養のない会話を耳にしながら、「威厳を持たないとだめだ、相手がどんなに挑発的であっても暴力で対抗してはいけない」とトニーを諭す。これはこれで正しいのだが、同時にシャーリーが自分で自分の首を絞めることになっている面もある。彼はその言葉で自分が品位のあるシンボルになろうと努めているが、それは南部の演奏会場の白人たちがシャーリーに求めているものそのものだ。われわれは差別をしていないという「名目」で黒人を呼んだ演奏会を開いているが、実のところ誰もシャーリーに興味がないという形になっている。なぜなら彼は白人のコミュニティにとって現実と関係がないただのシンボルでしかないからだ。そしてその白人の望むシンボル性をシャーリーは内面化してしまっている(『ドリーム』(検算と正義 Hidden Figures(邦題:ドリーム) | kitlog)でもそうだった)。そしてそのシンボル性ゆえに彼は孤独なのだ。

釈放されたあとで、トニーはシャーリーに対して「自分のほうがお前より黒人だ。大きな城に一人でいる男みたいだ」みたいなことをいう。自分のほうが黒人文化について知っているし、貧困のレベルについても黒人のそれに近いという意味だろう。それにシャーリーは激昂して車を降り、「黒人でも白人でもないなら、私は何者なのだ」とトニーに問う。トニーが言っていることは当たっている。シャーリーは自他共に認めてシンボルなのだ。そして、このツアーの最後の会場でシャーリーはシンボルであることをやめる。それまでは、トイレを白人と別にされても我慢してきたが、最後の会場で「黒人はレストランで食事ができない」と会場の責任者に言われて、シャーリーはそれをしっかりと侮辱と受け取り「ここで食事ができないなら、演奏はしない」と言ってみせた。ここでシャーリーはシンボルから自由になったのだ。何も食べないで会場を後にしたシャーリーとトニーは黒人だらけのバーに立ち寄り、シャーリーはスタインウェイでもなんでもないピアノを全力で弾き、バーの中の皆が認めてジャズセッションが始まる。ここでシャーリーは映画一の笑顔を見せる。

手紙のリズム


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映画の序盤で翡翠を店に返したと見せかけられていたが、終盤になってその石がまだトニーの手元にあって、お守りとして大事に持っていたことが明らかになる。シャーリーが黒人お断りのバーで暴行されていたときに、トニーは助けようとして銃を腰に持っているふりをしたが、最後のほうで本当に銃を所持していて強盗を撃退するのに躊躇なく空に向かって発砲する。これはまるで、それまでなかったものが時間が経った後で届けられたかのようである。それは手紙に似ている。届くのに時間がかかるのだ。トリオのメンバーのオレグ(ディミテル・D・マリノフ)は「シャーリーならこの規模のツアーを南部以外のところでやれば三倍は稼げるのに、南部に来ることを選んだ。なぜだと思う?」とトニーに問いかける。問いかけるが、その答えはその場では言わない。そこはふさわしい場所ではないか、もう少し時間が必要だからだろう。オレグは最後の会場で「ここはナット・キング・コールが白人の音楽をやって白人に舞台から引きずりおろされた場所だ。」と語り始める。「シャーリーは天才であるだけではダメで、勇気が人の心を動かす」、だから南部に来たのだという。トニーは最も重要なシャーリーの決意の源泉を旅の最後に知ることになる。

さまざまなことに時間のずれがあるのには理由があると思われる。時間経過のあとでさまざまなことが遡及的に明らかになる。この旅の中でトニーの差別的な心情はシャーリーとの関係や差別の実態を知ることによってどんどん薄まっていくが、逆に旅を進めるに連れて南部の奥深くまで行くことになり、人々の差別は強烈になっていく。その差が、時間差で手紙のように届けられる。たとえば、トニーはケンタッキー州に着いて「ケンタッキーといえばフライドチキンだ」とそれを買いに走る。本場のチキンは違うななどと言いながら、何の気もなく「軍隊にいたとき、黒人のコックがいて、彼がフライドチキンが得意だった。あんたも黒人なら好きだろ。イタリア人はパスタやピザを好きだろと言われても平気だ」といって、シャーリーにチキンを薦める。シャーリーは手や毛布が汚れるといって最初は拒否するが、トニーはチキンを後部座席にやって「片手運転じゃ危ないだろ、早く取れ」と急かし、シャーリーは仕方なくそれを受け取る。シャーリーはそれをおいしそうに食べて、残った骨の扱いに困っていると、トニーは「こうするんだ」といって、それを窓の外へ投げ捨てる。リスが食べに来るから良いんだということで、シャーリーもまねをして窓の外に投げ捨てる。そのあとにトニーが調子に乗ってプラスチックの蓋付の紙コップも捨てたので、シャーリーは急に真顔になって「拾いに戻るんだ」と説教を始める。トニーは仕方なくバックして拾いに行く。ここは映画の中でももっとも陽気で楽しいシーンの一つだ。

しかし、南部の奥のほうに行ってみるとフライドチキンは差別的なアイテムとして登場する。シャーリーたちは豪華な宮殿のような場所で食事に招かれるのだが、その場に不釣合いなフライドチキンとコーンが皿にのったものが皆に提供される。南部のほうでは黒人が農場で奴隷的な扱いを受けていて、トニーとシャーリーは彼らの視線に遭遇するが、奴隷として仕方なくつくっているものとイタリアのパスタやピザのような特産品を生かしたものは比べることができないだろうことが明らかになる。

シャーリーが「レストランで食事ができないなら、演奏はしない」といった会場で、そこの責任者はトニーに話しかけてシャーリーを説得してくれと頼み込む。「NBAのセルティックスを知っているか。彼らが優勝したときでさえこの会場は使うことはできなかった。わたしは差別心で言っているのではない。しきたりなんだ。わかってくれ。金なら払うから彼を説得してくれ」トニーはその責任者につかみ掛かる。なぜなら、南部の一番深い場所で出会った男がまるで旅に出る前の自分のような男だったからだ。誰かがニューヨークからトニーの分身を届けたのだろうか。トニーもニューヨークにいたときは、イタリア系のコミュニティの影響をそのまま良しとしてしまっていた。それで差別を行っていたのだ。そして彼は金のために仕事をえるために差別心はないとシャーリーに言っていたのだ。トニーは旅を経てシャーリーのシンボル性を引き継いでいる。何かの模範になろうとしているし、シャーリーではなく彼自身の言葉で手紙を書き、もとのイタリア系のコミュニティでも率先して黒人差別はやめるよう呼びかけるようになる。トニーはシャーリーの勇気を知った後で昔の自分を乗り越えなければならなかった。トニーはシャーリーに「ここで演奏するかどうか、トニーが決めていい」といわれて、彼らはすぐに会場を出て行く。シャーリーはトニーが黒人差別をしないことの模範・実例として存在していることを確かめたのだ。彼が実例として美的な判断のように他の人物の「判断の導きの糸」になれることがここで示された。シャーリーは少しだけシンボルであることをやめて、トニーは少しだけシンボルであろうとするようになる。

すべてが終ったあとで、クリスマスの夜にシャーリーはトニーの家に訪ねてくる。玄関先でシャーリーとドロレスはハグをして「夫を貸してくれてありがとう」「手紙をありがとう」という会話がなされ、手紙が届いていたことがあとづけられる。南部の演奏では、黒人ならどのピアノで弾いても同じだろうと同レベルで、差別してないとの名目上、黒人なら誰が演奏していても一緒だった。シャーリー自身の芸術価値はそこには届いていなかったがドロレスには届いていたのだ。
9/10/2020
更新

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