悲劇の予想に対する裏切りのあとで ファースト・マン

1961年、幼い娘カレンを病気で亡くした空軍のテストパイロット、ニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、悲しみから逃げるように、NASAのジェミニ計画の宇宙飛行士に応募する。1962年、宇宙飛行士に選ばれたニールは、妻ジャネット(クレア・フォイ)と長男を伴ってヒューストンへ。有人宇宙センターでの訓練と講義を受けることに。指揮官のディーク・スレイトンは、世界の宇宙計画をリードするソ連すら到達していない“月”を目指すと宣言。月に到達する小型船と帰還のための母船のドッキングを実証するジェミニ計画が成功すれば、月面に着陸するアポロ計画へと移行することが決まる。やがて、ハードな訓練を乗り越え、絆を結ぶ飛行士たち。その中には、エリオット・シー(パトリック・フュジット)やエド・ホワイト(ジェイソン・クラーク)がいた。そんなある日、ソ連が人類初の船外活動に成功。またしても先を越されてしまう。1966年、ニールは、ジェミニ8号の船長として史上初のドッキングを命じられる。代わりにその任務から外されたエリオットが、訓練機の墜落事故で死亡。友の無念を胸に、デイヴ・スコット(クリストファー・アボット)と2人、ジェミニ8号で飛び立ったニールは、アジェナ目標機とのドッキングに成功。ジェミニの回転が止まらなくなる事故に遭遇しながらも、冷静な判断で危機を脱する。こうして、アポロ計画へと移行し、パイロットにはエドが選ばれる。だが1967年、アポロの内部電源テスト中に火災が発生。エドと2人の乗組員が死亡する事故に。アポロ計画が世間の非難を浴びていた1969年、月に着陸するアポロ11号の船長にニールが任命される。乗組員は、バズ・オルドリン(コリー・ストール)と、マイク・コリンズ(ルーカス・ハース)の2人。家族と別れたニールたち3人は、ついに未知の世界へと飛び立つ……。

ファースト・マン | 映画-Movie Walker

(映画『ファースト・マン』公式サイト

ファースト・マン
(『ファースト・マン』本予告映像 - YouTube

『アクアマン』(起源の反復の物語 アクアマン | kitlog)に「窓のある牢に繋いでおけ」というセリフがある(字幕)。アトランティスの現在の王であるオームが側近のバルコの裏切りに対して言った言葉だ。バルコは地上の征服を目論むオームとは別の王を立てようとしていた。映画の最後にはオームの野望はその別の王によって潰え、今度はオームに向かってバルコが「窓のある牢に繋いでおけ」というセリフを言い返す。バルコが幽閉されていた部屋は三方が壁でもう一方が巨大なガラスのような透明な壁面で構成されていた。”窓の”という言い方は、水の中で生活している者にとっては、広大で自由に動き回れる海に対して水族館のような閉じられた空間を意味しているのだろう。それは地上の人間にとっては何を意味しているのだろう。あるいは役者にとっては。それは映画館なのだろうか。

デイミアン「ライアンは実物大レプリカのカプセルに入ってもらって(※2)、窓の外側に巨大なLEDスクリーンを設置していました。つまり、窓から見えていた景色はLEDに投影されていたものなんですよ。(合成用の)グリーンスクリーンを使わなかったのは、ライアンがその目で見られるようにしたかったからです。機体が炎上するシーンでも、実際に外側で炎を上げているんです(笑)。出来る限り実物を使うよう努めました。ライアンが乗り込んだカプセルも実際に振動させているから、ライアンの演技にも偽りがない。」

【インタビュー】映画『ファースト・マン』ライアン・ゴズリングとデイミアン・チャゼル監督 ─ 『ラ・ラ・ランド』コンビが貫いたアナログ主義とは | THE RIVER

ファースト・マン VFX DNEG
(FIRST MAN | VFX Featurette | DNEG - YouTube

『ファースト・マン』において最後のシーン、ニールは月から帰還して防疫のため隔離されている。そこに彼の妻ジャネットがやってきて、二人が隔離施設の透明な壁を通して見つめあうところで映画は終わる。そこには、人類未踏の地に初めて降り立ったこと、ニールが自分で言った「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。」という言葉とはかけ離れたとても個人的な情景が映し出されている。月面着陸に対する人々の歓声も画面に出てくるが、それはメディアなどのフィルターを一つ介したものとなっていて間接的である。そこにはどこかとんでもない成功を収めながら、失敗の雰囲気が漂っている。これは何かに対する裏切りの結果なのだろうか。彼らのいる場所は、「窓のある牢」なのだろうか。E.H.カーは『歴史とは何か』で偉人は一つの個人であると同時に一つの社会現象なのだといっているが、この映画は社会現象の部分を描いているだろうか。ジョーゼフ・キャンベルが月面着陸について魔法のような時間だったと書いているが、そのような興奮はこの映画には見られない。

ウンガレッティの言ったとおり、まさしくその夜は「世界中のどの夜とも違って」いたのです!だれだって生きている限り、一九六九年七月二十日のあの信じ難い魔法の時間を忘れることなどとてもできないでしょう。あの日、茶の間のテレビでは、月面に着陸した奇妙な乗り物からニール・アームストロングが降りてきて、ブーツをはいた彼の足が注意深く様子を探りながら、地球のまわりを飛び続けるあの衛生の土の上に人類初の足跡を残す場面が生中継されていたのですから。そしてそのあと――視聴者にとっては、すぐ目の前の出来事のように感じられましたが――宇宙服に身を固めた二人の宇宙飛行士が、夢のような景色の中を動き回り、与えられた任務を遂行し、アメリカの国旗を立て、機材を組み立て、ややゆがんだ歩き方ではありますが軽やかにあちこち動き回っているさまが放映されました。ついでに申しますと、彼らの映像は、いまではみんなが当たり前のように感じている現代のもうひとつの軌跡の力によって、三十八万キロメートルの宇宙空間を越えて居間のテレビに運ばれてきたのです。(p377,378)

生きるよすがとしての神話』ジョーゼフ・キャンベル

ファースト・マン
(『ファースト・マン』本予告映像 - YouTube

ニールはジェミニ計画の宇宙飛行士採用の面接の中で、宇宙に行きたいと思う理由を聞かれて「探査のための探査はしたくない。X-15で大気圏の薄さを知り物の見方が変わった。今までは不可能だったが、本当は見て知っているはずのことをそれによって知ることができる」といっている。そして、面接官に娘の死はフライトに影響すると思うかと聞かれて、何の影響もないとは思わないといっている。これは、おそらくこの映画のコンセプトそのものだろう。この映画のニールは前人未到の偉業を成し遂げた男だが、常に娘の死の影が漂っている。映画の冒頭彼の娘が亡くなって、葬式が行われその悲劇的な雰囲気がずっと影を落としている。ニールは月面着陸の実験のために何人も同僚を亡くし、そのたびに葬式を行い、残された人たちの顔を見て、また自分の訓練に戻っていく。親しかった友人がどんどんいなくなり、最初に行われていたようなホームパーティーの雰囲気は後半には少しも顔を出さなくなる。マスコミは失敗を織り込んだ質問をしてニールを当惑させたり、ジェミニ計画のギリギリの生還を「スリル満点の宇宙」と揶揄したりと悲劇を望んでいるかのようである。NASAの上司はアポロ計画について、悲劇が起こった場合のスピーチについて入念に確認している。「彼はよくやったが……」といったような。もちろん実際の上司が悲劇のことだけを考えていたということではなくて、この映画のなかではという話だ。

観客は実際にニールが月に降り立ったことを知っている。彼は成功するのだ。しかし、この映画では宇宙船の中にハエが迷い込んでいたり、出発直前にベルトに変なものをが詰まっていてそれをスイスアーミーナイフで取り出す描写があったりと失敗や悲劇の予兆が数多く散りばめられている。だが、もう一度いうが彼は成功する。そして彼が月で何をしたかといえば、娘の形見のブレスレットをクレーターに投げ込んだことと、月でスキップをしたことである。それの何が重要かといえば、悲劇が予想されているアポロ計画では、その予想は月がニールの墓になることに向かっている。ニールが月面着陸に失敗して宇宙船が大破、死亡すれば、月が彼の墓である。そのことが映画の冒頭からずっと予期されている。しかし、そうはならずニールのためにあった墓はニールの娘の墓へと彼自身が変えてしまった。彼は娘の墓に形見をたむけるのだ。そして彼は月でスキップをする。

打ち上げ直前、父が自宅のダイニングルームで家族に「月に行く」と話すシーンは、初めて明かしたエピソードだ。私は6歳で兄は12歳。ダイニングは神聖でフォーマルな場所なので、何か悪さをして怒られるのかと心配だった。危険性や不安は全く感じなかった。両親が気を配ってくれたのだろう。ミッションの大変さを知ったのは、ずいぶん後だった。

「ヒーロー扱い、父は嫌った」 アポロ11号船長の次男:朝日新聞デジタル

ファースト・マン
(『ファースト・マン』本予告映像 - YouTube

この映画は子どもたちの存在感が大きい。子どもたちはこのテーブルのシーン以外では悲劇の予感とは無縁に存在している。ジャネットがジェミニ計画で宇宙にいるニールを心配しているときも、無線機を隠したりして無邪気な様子だ。ニールは自分の娘の葬式のときに、息子に「外で遊ぼう」と言われる。ニールは「ママを手伝わないといけないから」といって断る。葬式で遊ぶのはそもそも不謹慎だが、身内が亡くなった葬式ならなおさらだろう。そこは皆が悲しむ場所、少なくとも悲しみが中心にある場所である。そして月面上も最初の娘の葬式と似たような場所になるはずだった。そこは悲劇の場所になるだろうと予想されていた。しかし、彼はそこでスキップをするのだ。楽しそうに。墓で遊ぶとは何事だろう。彼には彼にしか見えないものが見えている。それが裏切りでないとしたら何だろうか、と言わせる雰囲気を悲劇の連続でこの映画は醸し出している。

彼は月で何を見たのか。それは地球の生まれ変わりである。

古代では、月は「父たちの館」、つまり、死者の魂が転生してこの世に帰ってくるまでの住まいと考えられていました。現在でもある地域ではまだそう信じられています。なぜなら、月自身が死んではまたよみがえるように見えるからです。月が影を脱ぎ捨てながら再生していくように、生命も古い世代を捨て去りながら、新しい世代として生まれ変わっていく。あらゆる時代の書物や詩、そして感情や幻想のなかで、こういう考えが幾度となく確かめられてきたにもかかわらず、それらすべてを否定したコペルニクスの宇宙像のほうが正しかった。それは目で見ることのできない、知性によってのみ想像できる宇宙像でした。目で確かめることのできない数学的構造でしたから、天文学者以外は誰も興味を示さず、視覚や感情ががっちりと地球に縛りつけられている人間たちには、見ることはおろか、感じることもできなかったのです。(p379)

生きるよすがとしての神話』ジョーゼフ・キャンベル

地上にいる人々にとっては月面着陸は科学の勝利だった。この映画では、宇宙船の映像はほとんど内部からのみで、宇宙飛行士に対するプレッシャーは船内の計器の振れによって表現されている。つまり、数字が重要なものと表現されている。それは人類はいかなる場所へも数学的な計算によって到達できるのだということを表している。宇宙には法則があって、それに従えば何十万キロも離れた目に見えない場所に到達することができてしまう。数学は宇宙の中の物と物との関係を先験的に判断することに役立つということが示されている。だから、われわれも計器が異常を示すと緊張してしまう。計算が狂ったのではないかと。しかし、これはあくまで月面着陸を外から見た場合の話である。ニールと同乗者のバズ以外は誰も月から見た光景を見ていない。彼が月面で見たのは欠けている地球だ。それはちょうど地球上で月を見るのとおなじことだ。結果として彼は月について古代の人々が有していた視覚や感情を地球に対して持ってしまった。ここではコペルニクス的転回がもう一度転回している。それがおそらく地上の人々への裏切りなのだろう。

世界の秩序は、私たちが心の内部に持っている法則によって保たれています。そして私たち自身が宇宙と同じくらい神秘的なのです。宇宙の驚異を探りに出かけるとき、私たちは同時に自分自身の心の驚異を学びます。月への旅は、私たちの心の内面への旅です。私はこれを詩的な意味ではなく、事実として、歴史的な意味において述べています。つまり、この旅を実現し、世界にその映像を送り出したという事実によって、人間の意識は変化し、深まり、広がり、そして新たな精神領域への突破口が開かれたのです。(p384)

生きるよすがとしての神話』ジョーゼフ・キャンベル


9/10/2020
更新

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