形式と内容をめぐって グレイテスト・ショーマン

19世紀半ばのアメリカ、P.T.バーナム(ヒュー・ジャックマン)は幼なじみの妻チャリティ(ミシェル・ウィリアムズ)を幸せにしようと挑戦と失敗を繰り返してきたが、オンリーワンの個性を持つ人々を集めたショーをヒットさせ、成功をつかむ。しかし、バーナムの型破りなショーには根強い反対派も多く、裕福になっても社会に認めてもらえない状況に頭を悩ませていた。そんななか、若き相棒フィリップ(ザック・エフロン)の協力により、イギリスのヴィクトリア女王に謁見するチャンスを得る。バーナムはレティ(キアラ・セトル)たちパフォーマーを連れて女王に謁見し、そこで美貌のオペラ歌手ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン)と出会う。彼女のアメリカ公演を成功させれば、一流のプロモーターとして世間から一目置かれる存在になると考えたバーナムは、ジェニーのアメリカ・ツアーに全精力を注ぎ込むため、団長の座をフィリップに譲る。フィリップは一座の花形アン(ゼンデイヤ)との障害の多い恋に悩みながらも、ショーを成功させようと奮闘する。しかし、彼らの行く手には、これまで築き上げてきたものをすべて失うかもしれない波乱が待ち受けていた……。

映画『グレイテスト・ショーマン』オフィシャルサイト

グレイテスト・ショーマン
(映画『グレイテスト・ショーマン』予告A - YouTube

豪華キャストと注目のスタッフによるコラボレーションにもかかわらず、本作は当初、批評家からの厳しい評価を受けた。辛口で知られるレビューサイト、米Rotten Tomatoesでは約半分の批評家が否定的な評価を示して「55%フレッシュ」を記録。現地メディアに掲載された批評も、決して前向きなものではなかったのである。

話題作がひしめくクリスマスの劇場公開、そして批評家からの厳しい声は、結果的に観客を『グレイテスト・ショーマン』のスクリーンから遠ざけることになってしまった。全米3,000館以上での封切りにもかかわらず、公開後3日間の興行収入は880万ドル。20世紀フォックス社の国内配給を担当するクリス・アロンソン氏は「はっきり言って、終わったと思いました。880万という数字は、どう考えても良い滑り出しではなかったんです」と振り返る。

ところがその後、観客の間で思わぬ動きが生じてきた。フォックスによる懸命なプロモーションからは独立する形で、ファンが『グレイテスト・ショーマン』の口コミをSNSで拡散しはじめたのである。しかもヒュー・ジャックマンをはじめとした豪華出演者の歌う楽曲が収録されたサウンドトラックは、ビルボードのアルバム・チャートを少しずつ上っていった。
これに付随するかのように、公開2週目の週末は1,550万ドル、3週目の週末は1,380万ドルと、本作の興行成績は思わぬ粘りを見せるようになる。サウンドトラックはアメリカ・イギリス・オーストラリアのポップチャートで第1位を、iTunesでも75ヶ国で第1位を獲得し、売上記録を評価されて「ゴールドディスク」にも選定された。
さらにキアラ・セトルによる劇中曲“This Is Me”は、第75回ゴールデングローブ賞の最優秀歌曲賞に選ばれたほか、第90回アカデミー賞の主題歌賞にもノミネートされている。

『グレイテスト・ショーマン』米国で異例の“じわじわ”大ヒット!その理由は観客の熱狂的支持 | THE RIVER

子供の頃のバーナムは仕立て屋の父の手伝いをしていた。服は汚れていて靴には穴があいており、とても貧しいことが伺える。バーナムは、あるお屋敷で手伝いをしている際に、紅茶の飲み方のレッスンを受けている少女と目が合う。彼女はバーナムと後に結婚することになるチャリティだ。そのマナーの家庭教師が「肘を横にして」とか「小指を立てて」とかいって彼女の紅茶の飲み方を注意しているのだが、バーナムは彼の仕立ての道具を組み合わせてカップのようなものをつくり、紅茶を飲むフリをする。チャリティは自分も紅茶を飲みながら彼の様子を見ていたのだが、彼が飲み終わるフリをすると紅茶のカップだけでなく布切れを口に加えて紅茶も再現していたこととその見た目が面白かったこともあって、紅茶を吹き出して笑ってしまう。バーナムの行為が、チャリティが家庭教師に言われたことを真似るという形式的な動作だけでなく、それが布切れを使うことで実際の紅茶を飲むことという内容が隠れていた、そしてその紅茶の代わりの布切れが同時に反抗の意味を込めた「舌を出す」という意味も同時に含んでいて彼女の気持ちと合致していたという点で、彼女の想像超えていたのだろう。それで彼女は吹き出してしまったのだ。この点が重要でバーナムは形式的に見えるものに内容を見出したり意味を込めたりすることができるのだ。チャリティの父はそんなことは認めず、ドレスを汚したチャリティをひどく叱る。

それから彼らは二人で会うようになり、二人は『A Million Dreams』 を歌いながら廃墟に出かける。廃墟は形式的には何もなく古びて死んでしまったような場所だ。あちこちがボロボロで傷んでおり、ホコリだらけで空気が淀んでいる。けれどバーナムは何にもないと思われているそんな場所にも光を当てて隠されたものを探すことができる。彼の持つ灯りが廃墟の中のガラクタを照らすと壁に動物の影ができあがる。それは彼の内側にある光のことだ。それは単に形式にすぎないと思われているもののなかに内容を見出すことができる。

『純粋理性批判(kritik der reinen Vernunft)』の重要な一章において、カントは学問的解釈の方法の根本的な対立について論じているが、彼によれば、学者や研究者には二つのグループがあって、一方は《同種性》の原理に従い、他方は《特殊化》の原理に従うのである。前者がもっとも異種的な減少をも一つの公分母に還元しようと努めるのに反して、後者はこの表見的な一致、あるいは類似性を承認しようとはしない。(略)人間理性が機能するには、両方の格率が等しく不可欠なのである。同一性を要請する類の論理的原理は、いま一つの原理、すなわち種の原理――事物の多様性と差異性を要求し、悟性に命令して同一性と同じく差異性にも注意せしめる原理――によってバランスを保たれる。(p18)

『国家と神話』カッシーラー

貧しいバーナムはチャリティの父に認められず、チャリティは花嫁学校へ行くことになり、二人は離れ離れになってしまう。バーナムは父が亡くなり、しばらく路上生活を続けたがアメリカの鉄道事業の発展でそこに仕事を見つけ成長し、チャリティを迎えに行き、二人は結婚することになる。バーナムは二人の娘を育てながら貿易会社で働いていたが、急に倒産してクビになってしまう。彼は途方に暮れるが、その仕事にはもともと不満を持っていた様子だった。彼の仕事の風景つまり心象風景は『モアナと伝説の海』の前に流れた短編『インナーワーキング』とほぼ同じである(心を捨てさせるもの、拾うもの モアナと伝説の海 | kitlog)。クビになったことをチャリティに告げると、そこに何も知らない娘たちが「誕生日プレゼントがほしい」とやってくる。バーナムは何も用意してなかったが、チャリティと初めて出会ったときのように、クビになった職場から持ち帰ったものの中から即席でプラネタリウムを作り出す。屋上に干された白いシーツに沢山の星が写し出されている。バーナムは娘たちに、「これはなんでも願いが叶う光だ。願い事を言ってごらん」という。その光は子供の頃、彼が廃墟を照らした光でもある。不意に娘たちが『A Million Dreams』を歌い始めバーナムは新しいことをやろうと決意する。彼の行動は当時のアメリカの鉄道のようだ。

イギリスの鉄道は、ロンドン、バーミンガム、ブリストル、というように、もともとすでに人口が多く集まっていたセンターとセンターの間をつなぐものとして展開しました。鉄道というのは、イギリス人にとっては、そもそもそうしたものだったのですね。これは日本の場合も同じでしょう。しかし、アメリカで十九世紀に鉄道を建設した時は、行く先に人はいなかったのです。鉄道は”何もないところ”に向かって走って行ったのです。(p196)

『過剰化社会』ブーアスティン

彼はすでに無効になった貿易船の許可証を担保に銀行から金を借り、博物館を買った。そこには蝋人形や動物の剥製が並んでとても不気味だ。子供の頃の廃墟そっくりだが、そこに光をあてて輝くようなものは存在していない。博物館のチケットを売るために街中を回るがほとんど売れない。疲れて家に帰ってくると、ベッドの中で眠そうな娘が「動かないものじゃなくて生きて動いているものが見たい」と呟き(『A Million Dreams』を敷衍している)バーナムは閃く。彼は街の中で事情があって隠されてしまっている人物に光を当てようとする。小人症の男や髭の生えた女、黒人の兄妹や巨漢の男、背が高い大男、そういったユニークな人材を集めてショーを企画する。彼らがコンプレックスだと思っているものを全面に出していくのだ。珍しいもの見たさに人が集まり、それはとても成功する。けれど、ヘラルド紙の批評家はそれを偽物だ低俗だといってはねつける。バーナムには最初それを受け止める余裕があったのだが、小人症の男が舞台に出て自身のコンプレックスを晒したようにバーナムのコンプレックスも前に出てきてしまう。その批評家の態度が彼を受け入れなかったチャリティの父親の態度と重なって見えるのだ。バーナムは高級な文化に手を出そうと考えるようになる。この時点で彼は画一的な批評家に影響され、自身から灯る光を失い始めている。形式がただ形式としてだけ消費される道に入り込もうとしている。

グレイテスト・ショーマン
(映画『グレイテスト・ショーマン』予告A - YouTube

大げさになるが敢えていえば、パッケージ技術がもたらした重要な影響は認識論的なものだ、ということができる。すなわち、パッケージの技術がもたらしたさまざまの結果は、知識の性質と関係があるのであり、特に、知識とはなにか、なにが本当の事実そのままなのか、なにが形態で、なにが本質なのか、こういった事柄をめぐって私たちを混乱させてしまったのである。あなたがウィンストンのタバコについて考える時に、あなたはタバコの中身について考えているのではない。パッケージを思っているのである。アメリカの生活の多くの領域で、形式と内容が混同されるようになり、形式の方が私たちの意識を支配するものとなってきている。(p170)

『過剰化社会』ブーアスティン

彼は高級な文化とコネがある劇作家のフィリップを説得し仲間に引き入れる。フィリップは高級な文化として認められるには偉い人に会うのが一番だといって、劇団員を連れてヴィクトリア女王に謁見する。彼らは女王には認められなかったのだが、バーナムはそこでアメリカでは知られていないヨーロッパ一のオペラ歌手ジェニー・リンドと出会う。彼は一緒に仕事がしたいと思い彼女に声をかける。彼女は「私の歌を聞いたことがあるの?」と尋ねる。もちろん彼は聞いたことがない。彼は皆が良いと言っているのだから良いという全く形式的な論理で彼女を誘う。彼は「自分のところでは偽物しかいないので本物が見たくなった」といって彼女を口説く。彼が偽物といっているのは彼が見出したものだったはずなのに。彼女はバーナムの申し出を受け、彼の企画でアメリカで歌うことにする。それもまた大成功する。オペラが悪いというわけではないが、そこにはバーナムがこれまで見せたような工夫やアイデアの要素は乏しい。よく整えられた舞台、よく整えられた観客席で彼女は歌う。それだけですごいことが起きてしまう。彼女には強烈な光が当たっている。それはバーナムからではなく外からのものである。その成功によって催し後のパーティーで彼のコンプレックスは最前面に出てくる。彼は会場に来てくれて褒めてくれた妻チャリティの父をまるで批評家と混同したかのように扱って追い出し、劇団の仲間もその場にふさわしくないと追い出してしまう。それから、彼は自分の劇場はフィリップに任せて自分はジェニーと一緒にアメリカ中を回ることに決める。彼は劇団も妻子もおいていってしまう(これはforgotten peopleの話でもある。「ゼロ成長のイデオロギー お笑いの神話的副作用 | kitlog」のオデッセイの話。)。

歌のツアーの最中、バーナムはジェニーから愛の告白をされて当惑する。彼は高級な文化の知り合いになって以来、あらゆることを形式的にしか見ていなかったので彼女のことも形式としてしか見ていなかったからだ。彼は彼女を拒否する。彼女は「私のことを売り物としか見ていなかったの?」と問うが、バーナムは彼女の歌を知らなかったように、彼女のこともほとんど知らなかった。彼が彼女を見ているとき、彼女に当たっている外側からの光からだけ彼女を見ていた。ジェニーは怒りと悲しみで打ちひしがれたようになり、これでツアーもおしまいにしようとした。彼女はオペラを歌ったあとカメラマンがいる前でバーナムにキスをしそれがスキャンダルになってしまった。当時はニュースが新聞に載って情報として伝わるのには時間がかかる。バーナムはツアー他の人に任せたつもりで、家族の元へ帰っていく。不幸にもまた事件が起こり、彼の劇場は火事で全焼してしまう(火事の原因は人種主義と多文化主義の戦いである「人種主義と多文化主義の共犯、ハン・ソロの不在 スター・ウォーズ/最後のジェダイ | kitlog」)。そして、遅れてやってくるスキャンダルが彼を襲いチャリティは家を出ていってしまう。バーナムは劇場の焼け跡で座っているとヘラルド紙の批評家がやってくる。そこで批評家はバーナムに対して「他の批評家が見ていたら君のショーは人類の祝祭と評しただろう」とバーナムの演出でパッケージされた博物館の建物がなくなったのと同様に批評家も形式的な高級文化へのこだわりを反省している。彼はまた劇団の皆を認め、形式主義に陥ったことを反省し、妻と誤解を解いてまた新しいことを始めようとする。それはまた彼の得意なアイデアによる即席のもので、安い土地を買って建物をテントにしてショーを行うというものだ。それが内側の光で外を優しく照らす様は、彼が失業したときに屋上で作った白いシーツのプラネタリウムとよく似ている。


9/10/2020
更新

コメント