ゼロ成長のイデオロギー お笑いの神話的副作用

バブル経済崩壊後の1990年代を、よく「失われた10年」と呼びますが、2000年代に入ってからも、日本の経済成長は1970年代、1980年代に比べて緩慢なものにとどまっていました。バブル崩壊で露呈した銀行の不良債権問題や企業のバランスシートの傷みといった問題は基本的に解決していたにもかかわらず、経済成長はバブル崩壊以前の水準に戻らなかったのです。そこには不良債権問題やバランスシートの毀損だけではない構造問題があると考えられます。
(略)
生産性の高い大企業がシェアを拡大することがなかったため、日本全体のTFP上昇は停滞したわけです。日本では雇用の保障が優先されるため、事業所を閉鎖したり、新規に開設するコストが高くなっています。ところがデータをみると大企業は実際には雇用を驚くほど減らしていて、その一方で子会社では雇用を増やしています。つまり、子会社は平均労働コストが親会社より安いため、人件費を抑制する目的で人員を子会社に移すことが盛んに行われたわけです。ただし一般に生産性は子会社のほうが親会社よりも低くなりますから、人員と仕事を子会社に移すことによって生産性は上がらなくなってしまいます。
(略)
米国では企業内部の仕事の一部を、より効率の良い外部の企業にアウトソーシングすることが盛んに行われています。これに対して、日本の場合は大企業が子会社にアウトソーシングして人員も子会社に移しています。仕事を効率的にできる企業に移すわけではないので、これでは生産性が上がりません。もちろん、職を保障したいという企業の動機も理解できるのですが、経済全体としては、このような方法をとっていると効率が良くなっていきません。
RIETI - 「失われた20年」の構造的原因

日本はバブル崩壊から失われた20年を経験してきた。それについて、バブルの崩壊を把握するのが遅れたからだとか、金融政策やマクロ政策の失敗があったから、円高によって人件費削減が不可避になったためなど様々な大局的な要因を考えることができる。しかし、私が問題だと思うのは、なぜ人々はそのことに我慢することができたのだろうかということだ。ゼロ成長であれば、貧しくなる人が増えることは必然だが、なぜ人々はそれに耐えることができた(ている)のだろうか。あるシステムが働いて全体を覆っているとしても、それに従うだけが人間の行うことのすべてではないはずだ。

上野氏はこう言う。「日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合うべきです」。

これは上野氏のみならず内田樹氏や小熊英二氏など、有力な左派論客に共有されている脱成長・成熟社会論である。脱成長とは言うけれど、要するに「清貧の思想」である。中野孝次『清貧の思想』が、清貧など想定もしていないバブル期に、貧しさなどと無縁な人びとに読まれたように、脱成長論もまた、豊かなインテリの玩具となっている。

脱成長派は優し気な仮面を被ったトランピアンである――上野千鶴子氏の「移民論」と日本特殊性論の左派的転用 / 北田暁大 / 社会学 | SYNODOS -シノドス-

脱成長論が人々が我慢をできる理由になると見えるかもしれない。人口も減っているし仕方がないのだと。しかし、成長に対してアンチ成長というのはあからさま過ぎるし、アンチ成長という論には成長か否かという選択に反論可能性があるために、人々は容易に反発が可能で必ずしも受動的にはならず成長を我慢する理由になるとは思えない。もしもゼロ成長のためのイデオロギーがあるとすれば、それはコミュニケーションが不可能にされているものの中にしかありえないと思う。

見せかけの妥協は複雑な社会では正当化の重要な一形態であるが、歴史的に見れば通例とはいえない。(略)

正当化はこの場合には、規範体系の妥当請求が正当であることを示すと同時に、討議による妥当請求が前面に出てきて吟味されうることを回避するという二重の機能を持つ解釈(物語的叙述、あるいは理性的自然法におけるような体系化された説明と一連の議論)から成り立っている。その種のイデオロギーのはたらきに特有なのは、コミュニケーションを体系的に制限していることを目立たせないようにする点である。それゆえイデオロギー批判的な社会理論は、普遍化可能な利益の抑圧というモデルから出発し、(略)社会の制度体系に埋め込まれた規範的権力を突きとめることができるのである。(p203)

『後期資本主義における正統化の問題』ハーバーマス

このことを考えるために迂回して一つの映画を紹介したい。

人類による有人火星探査ミッション<アレス3>が、荒れ狂う嵐によって中止に追い込まれた。ミッションに参加した6人のクルーは撤収を余儀なくされるが、そのひとりであるマーク・ワトニー(マット・デイモン)は暴風に吹き飛ばされ、死亡したと判断される。しかしワトニーは奇跡的に生きていた。独りぼっちで火星に取り残され、地球との交信手段もなく、次にNASAが有人機を送り込んでくるのは4年後。サバイバルに不可欠な食糧も酸素も水も絶対的に足りない。そのあまりにも過酷な現実を直視しながらも、ワトニーは決して生き延びることを諦めなかった。やがてワトニーの生存を知って衝撃を受けたNASAや同僚のクルーは、地球上のすべての人々が固唾をのんで見守るなか、わずかな可能性を信じて前代未聞の救出プランを実行するのだった……。
オデッセイ
(映画「オデッセイ」特別映像:Three Worlds(スリー・ワールド) - YouTube



RU f- kidding me? or RU f- kidding me? オデッセイ | kitlog

火星に一人取り残され、マーク・ワトニーは熾烈なサバイバルを余儀なくされる。水も酸素も食料も限られた中で彼は自らの科学の知識によって生き延びる方法を考える。それはポジティブに聞こえるが地球にいたときの快適さとは無縁の生活を強いられる不快なものである。肉体が延命するための物質はそこでなんとか作られるかもしれない。しかし、精神の方はどうか。誰もいない星で一人、毎日同じ作業をして、発信したメッセージを誰かが受信するのを待つということに耐えられるだろうか。そこで彼は同僚が残していった音楽ファイルなどを使ってユーモアを作り上げそれによって周りの状況と苦しい現状をなんとか読み替えていく。しかしそのような気休めはケチャップが有限なように長くは続かない。彼は芋を栽培し、おそらく毎日それをケチャップをつけて食べていたが、ある日そのケチャップが象徴的にきれてしまう。ジャガイモだけの味気ない食事には耐えられないだろう。彼はどうしたかというと、鎮痛剤を調味料にしてそれを食べた。彼は日々の過酷さをユーモアだけでは耐えきれず、鎮痛剤に頼ることになってしまった。これはアメリカで実際に起こっていることである。われわれが火星だと思っていたのは、アメリカの田舎だったのではないか。ワトニーはトランプが大統領選で語った"forgotten people"である。

CEAは、2015年にオピオイド関連で3万3000人が死亡し、これによって失われた経済生産は2210億─4310億ドルに上ると指摘した。

また死に至らないオピオイド使用による2015年の経済コストは720億ドルと推計。これには医療費、刑事司法関連の費用、中毒患者による経済生産低下が含まれる。

米疾病予防管理センター(CDC)によると、米国ではオピオイド関連の過剰摂取で1日当たり100人以上が死亡している。

オピオイド危機による米経済コスト、2015年は5040億ドル=CEA

「絶望死」。ノーベル賞経済学者アンガス・ディートン氏は米国で広がる薬物死を自殺などとともに、こう呼ぶ。低学歴の白人男性で目立つ。ペンシルベニア州立大学のシャノン・モナ氏は、昨秋の米大統領選でトランプ氏が前回の共和党候補より多く票を得た地区ほど、絶望死が多いという相関を明らかにした。オハイオなどラストベルト(さびた地帯)と呼ぶかつての製造業の集積地帯が典型だ。

米労働市場に異変 働き盛り男性の参加率、主要国最低 薬物まん延、政権の課題に :日本経済新聞

米国の国民、特に白人で低学歴層の平均寿命が以前よりも短くなっているのだ。主な原因はドラッグ、アルコール、そして自殺だ。

プリンストン大学のアン・ケース教授とアンガス・ディートン教授は、これら「絶望による死」の背景にある統計を紹介している。ブルッキングス研究所のためにまとめられた両教授による最新の研究からは、25─29歳の白人米国民の死亡率は、2000年以降、年間約2%のペースで上昇していることが分かる。

他の先進国では、この年代の死亡率は、ほぼ同じペースで、逆に低下している。50─54歳のグループではこの傾向がさらに顕著で、米国における「絶望による死」が年間5%のペースで増加しているのに対して、ドイツとフランスではいずれも減少している。

コラム:「絶望死」が増加する米国社会の暗い闇

1人当たりGDPのゼロ成長はそれ自体、十分にひどい響きだが、これは平均値であることを忘れてはならない。実際には数百万人に上る人々の暮らしが一段と厳しくなることを意味する。すでに、所得分布で10パーセンタイル(下から10番目)に位置する人々の実質個人所得は、30年前と比べて、なんと22%も落ちている。要するに、日本には、生産性上昇率の改善と、より多くの外国人労働者という組み合わせが必要なのだ。

視点:「失われた20年」より過酷な未来へ、高齢化日本の難題=カッツ氏

日本では薬物中毒が集団で大規模に起こっているというようなことは今のところ報告されていない。けれど、ゼロ成長の間、人々は何かによってじっと耐えなければいけなかったはずだ。そして、人々はそれについて考えることができなかったために正当に抗議することができなかった。そのために用いられているものが鎮痛剤でないのだとしたら、それはユーモアではないだろうか。

フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己を――時には(三島由紀夫のように)死を賭しても――蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーが他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。

ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)』柄谷行人 p140,141

ユーモアの機能は「それは大したことはない」と告げることだ。ワトニーは自分の精神的な苦痛を抑えるためにユーモアに頼り、特殊な環境下に置かれた自分の受けている苦痛が「大したものではない」と気を休めるが、それも長くは続かず後にその機能を鎮痛剤から借りることになる。カントにならって笑いは緊張の緩和だといわれるが、鎮痛剤はその物的な表現である。

大阪国際がんセンター 宮代勲医師
「お笑いに日常的に触れている、関西の人は。
お笑いが(がん治療に)寄与するなら、簡単なことでいいことができる。
そこを科学的にも評価したい。」

「お笑い」 がん治療に役立つ? - 特集ダイジェスト - ニュースウオッチ9 - NHK

笑うことがなければ人はストレスでダメになってしまうだろう。それは癌患者も例外ではないから、日常的に笑うことは必要であると思う。けれど私がここで考察している「ゼロ成長をじっと耐える」ということは、癌を医学的に治療せずに笑うことでなんとかしようということと同じなのではないかと思われる。鎮痛剤を飲んだとしても、痛みは緩和されるかもしれないが、痛みの原因はそのまま残っている。笑いも同じことだろう。それは根本的なものではなく補助的なものである。そこでは癌さえもが「大したことのない」ものとして過小評価されてしまう。癌そのものは笑いではどうすることもできない。それはあくまで補助的なものであり根本的なものにはなりえない。けれど、イデオロギーの作用によって補助的なものが根本的なものであると思わされていないだろうか。そうすると癌について深く考えることは除外される。同じようにゼロ成長を生きた人は、そこに問題があるにも関わらずそれが「大したことのない」ことだと思わされてきたのではないか。正当に抗議する理由があるにも関わらず、権利を主張することを封じられてきたのではないだろうか。もしもそれを主張すれば、笑えなくなるからという理由で。あるいは、ノリ(笑いのための)が悪いとか意識が高いとか。アメリカでは鎮痛剤の過剰摂取が問題になっているが、日本では笑いの過剰摂取が問題になってはいないだろうか。「それは大したことのない」と告げるユーモアがあらゆるものを過小評価していないだろうか。



これを考えるきっかけになったのは年末の上の番組である。この番組では主に二つのことが問題になった。一つは、芸人がエディー・マーフィーの真似をしようとして顔を黒く塗ったことである。これが差別にあたるかどうかが問題となったが、そのような微妙な表現で差別問題に挑戦したいのであれば、自分の名前だけでやったほうがいいだろうと思う。問題はそのような表現をすることをスポンサーが事前に承知していたかどうかだろう。私の意見としては黒塗りはやらない方がいいと思う。日本テレビはそれについてまともにコメントをしていないが、それはつまり外国人差別に関する無知からくるもので、黒人だけでなく他の外国人差別の端緒ではないかとみなされる可能性がある。差別は(検算と正義 Hidden Figures(邦題:ドリーム) | kitlog)で検討したとおり過小評価と関連がある。

フィリピン人技能実習生(25)が職場の暴力に耐えかねて労働組合に加入したところ、実習生の受け入れ窓口となった監理団体「AHM協同組合」(群馬県高崎市)が労組にファクスを送り、実習生を脱退させるよう求めたことが21日分かった。実習生にも労組加入の権利があるが、実習生を保護する監理団体などが役割を果たしていない形。

「AHM協同組合」が外国人実習生の労組脱退求める - 社会 : 日刊スポーツ

もう一つは、不倫をして世間から非難された女性タレントが「禊ぎ」だという理由で蹴られるのが人権侵害だというものだ。「禊ぎ」というのは穢れを祓うことだが、それはつまりマイナス(けがれ)をゼロ(けがれなし)にすることだろう。それは世間から非難されていることついては「大したことはない」と告げることだ。それはそれでいいのかもしれない(ベッキー ガキ使“タイキック”は「タレントとしてありがたい」 | ORICON NEWS)。が、一方、方法的なところでマイナスの部分(実際にはマイナスだというレッテルが貼られているだけなのだが)を何としても取り立てようという金融業者に遭遇したような恐怖も感じる。マイナスは必ずゼロにしなければならないといったような。笑いは緊張の緩和である。笑いの世界観ではマイナスのものもプラスのものも緊張している。それをゼロに戻さないと戻さないとというのが笑いの心理的作用ではないか。その世界観が日常を覆った場合、あらゆるものが無価値あるいは考えるに値しないものとみなされないだろうか。それをとても窮屈に思う。
10/31/2019
更新

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