なぜ富者が貧者を叩くことが繰り返されるのか クリード 炎の宿敵

ロッキー(シルヴェスター・スタローン)最大のライバルにして親友だったアポロ・クリードは、ロシアの王者イワン・ドラゴ(ドルフ・ラングレン)と壮絶な戦いを繰り広げた末、帰らぬ人となった。歳月は流れ、ロッキー指導の下、一人前のプロボクサーに成長したアポロの息子アドニス(マイケル・B・ジョーダン)は、ついに父の仇・ドラゴの息子ヴィクター(フローリアン・ムンテアヌ)との対戦を迎える……。

クリード 炎の宿敵 | 映画-Movie Walker

『ロッキー4/炎の友情』で最大のライバルにして親友のアポロは、ロシアの王者イワン・ドラゴと対戦。壮絶なファイトを繰り広げた末に倒され、そのまま帰らぬ人となった。あれから歳月が流れ、ついにその息子同士がリングに上がる。シリーズに新風を吹き込んだ傑作と全世界から大絶賛を受けた『クリード チャンプを継ぐ男』でロッキーのサポートを受け、一人前のボクサーへと成長した亡きアポロの息子、アドニス・クリード(マイケル・B・ジョーダン)。対する相手はドラゴの息子、ヴィクター。ウクライナの過酷な環境から勝ち上がってきた最強の挑戦者だ。アドニスにとっては、父を殺した男の血を引く宿敵となる。アポロVS.ドラゴから、アドニスVS.ヴィクターへ。時代を超えて魂のバトンが手渡される因縁の対決。絶対に見逃すわけにはいかない。世紀のタイトルマッチのゴングが、いま鳴り響く!

映画『クリード 炎の宿敵』公式サイト 2019.1.11(Fri.)

前作『クリード チャンプを継ぐ男』の監督は『ブラックパンサー』と同じライアン・クーグラーだ。今作は別の若い監督に交代しているが、彼は製作総指揮という形で映画に参加している。なぜこんなことを書くかというと、今作の物語のプロットが、『ブラックパンサー』(暴力への信頼と英雄殺し ブラックパンサー | kitlog)とほとんど同じだからだ。(ワカンダ王,ヘビー級王者)の主人公が貧しいところから勝ち上がってきた挑戦者(キルモンガー,ヴィクター・ドラゴ)と親世代の因縁で戦うことになり、一度は敗北するが、その後奇跡の復活を遂げリベンジを果たす。両方とも黒人が主役ということもあって、映画自体が多文化主義、多様性の文脈で捉えられている。その両方で富者が貧者を叩いて勝利することになっているのはなぜなのだろう。加えて両方のドラマには、富者と貧者の和解の表現もない。『ブラックパンサー』では貧しい者は戦いに敗れ死に、今作では富者と貧者の間のコミュニケーションは最後までなされない。代わりに回復されるのはそれぞれの父と子の間のコミュニケーションである。そして彼らはそのことに満足して最後にそれぞれの場所に散っていく。感動的に。

ブラックパンサー(つまりワカンダの国王ティチャラ)は「現状維持」を重視する点において、スーパーヒーローの中では例外的なキャラクターである。このジャンルでは通常、目標に向けてのミッションの遂行が物語の基本要素なので、本作はある意味“異常”とも言える。

ブラックパンサー - 映画レビュー - Marvel's Black Panther Review

『ブラックパンサー』では現状維持型の主人公が、目的を持った挑戦者(キルモンガー)に出会うことで彼自身もある目的意識を持ち、自分の思想や行動原理を変化させていく。キルモンガーは一種の過激派で現状の変更に暴力を使用することを厭わないキャラクターだったが、ブラックパンサーは彼の思想の暴力の部分をマイルドにして実行可能なものとして現状維持の方向から脱却していく。『ブラックパンサー』では最初は主人公に何かと戦う理由はなかった。彼は外のことを知らず現状の王国に満足しているからだ。それは『クリード 炎の宿敵』でも同じである。主人公のアドニス・クリードはいまや、金も名声も家族も全てを持っている。それなのになぜ戦うのか、とアドニスはロッキーに問い詰められる。挑戦者のヴィクターは失うものが何もない、そんなやつと戦うのは危険だとロッキーはいう。アドニスは全てを持っているが戦う理由がない。ヴィクターは全てを持っていないが、戦う理由がある。ヴィクターの父イワンは約三十年前に国の威信をかけてロッキーと戦い敗北し、富も尊敬も妻も失った。イワンはその時の復讐を息子のヴィクターに託している風なのだ。アドニスはその復讐心に感染して、おそらく今まで考えたことがなかったであろう、ドラゴ親子への復讐心を突然燃やす。それは明らかに急造品で、アドニスはヴィクターに内容で負けてしまう。

アドニスは『ブラックパンサー』の主人公のように敵から目的を与えられるのだが、『ブラックパンサー』では敵キルモンガーの考えはワカンダ王国の超技術をなぜ世界のために使わないのかということだった。結果的にその考えに暴力が加わったので、キルモンガーは物語のなかで排除されてしまったが、持っている力をなぜ使わないのかという疑問は公共性の高いものだった。それゆえ、ブラックパンサーはその公共性の部分を受け取って、自分たちの知見を世界に広めたり、キルモンガーの育った貧困の地域に対する援助を申し出る。

『クリード 炎の宿敵』では敵にあるのは復讐心だけのように見えるし、ボクシングの舞台で主張できることも限られているため、『ブラックパンサー』のように敵から何かを受け取ろうとするのだが、それはほとんど確認できない。なんのために戦うのか。彼は一戦目でヴィクターの復讐心にとらわれるが、二戦目でそれをゼロにしたつまり最初に戻ったということなのだろうか。ヴィクターとの再戦でアドニスの妻のビアンカがお金のためじゃないというのだが、実家が金持ちでニューヨークでも豪華なマンションに住みながら、そういうのはどこか白々しい。アドニスは満たされすぎているがゆえに、戦う理由をイメージで示すことしかできない。第一戦のための練習は大きなプールの中で、つまり豊富な満たされた水の中で行われるのだが、第二戦は水のない乾いた荒野で練習が行われる。それはイメージとしてのつまり他人にどう見られたいのかについてのハングリーさだが、実際は彼は本当に満たされているのだ。そしてもっと満たされたいという感じでもない。タイトルを失って貧しくなるかもといったような不安も見えない。

映画『クリード 炎の宿敵』本予告
映画『クリード 炎の宿敵』本予告【HD】2019年1月11日(金)公開 - YouTube


彼には子供ができるが、妻のビアンカの難聴が遺伝して耳が聞こえない。彼はそのことに不安や悲しみを覚えるが、それは物語に通底する親の期待や歴史は繰り返すのか、先天的なものと後天的なものとの違いというようなものを示すための小道具にしかなっていないのではないか。難聴の子供に不安を覚えるのなら、そういう人々がより良く暮らせるようなところに投資をすればいいのではないか。そうすればそれが映画的に正しいかはともかく世界は少し広がる。しかし、お金のために戦うことを言うことが否定されているので、お金は何かの解決の道具としても登場することはないのだ。実際のボクシングでは大金が移動するのに、彼は外に出ることができず内にいる。ロッキーは難聴で生まれた子供は自分のことを憐れんではいないという。それは父親と子供は同じではない、つまり「お前はお前だ」とのメッセージだが、そうやって彼の内側に入っていっても、彼には戦う理由がやはりないのではないか。その何もなさのために『ブラックパンサー』以上に強調されて単に現状維持のために富者が貧者を叩いているようにしか見えないのだ。もちろん、多くのプロボクシングのタイトル戦はそのような構図なのかもしれない。チャンピオンと挑戦者がいたらチャンピオンのほうが裕福だろう。それと同じだとしたらその現状維持の戦いは記憶に残るものになるだろうか。

不平等を生まれつきの人種の劣等性によって説明しようとする、かつての図々しくも傲慢な習慣は、まったく不平等な人々の状態をさして、いかなるコミュニティも自らが選んだ生活様式について不可譲の権利をもつ、と表現する一見慈悲深い立場に取って代わられる。この新しい文化主義は、かつての人種主義と同じく、道徳的な良心のとがめを和らげ、不平等の現実との調和を生み出すことを目論んでいる。その不平等を、人間の介在する余地のない状態とするか(人種主義の場合)、それとも、苦境ではあるが神聖な文化的価値が毀損されるといけないから人間が干渉すべきではない状態とするか(新しい文化主義の場合)の違いはあるにしても。

「文化主義的」な世界観が語らずにすませているのは何か。それは、不平等が、この世界観自体の大きな根拠であるということ、そしてまた、不平等が生み出す分裂を、選択の自由の――最大の障害としてではなく――不可分の一部として表現することは、その自作自演の犯行における主要な要素の一つであるということである。(p163)

コミュニティ』ジグムント・バウマン

11/23/2020
更新

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