見えなかった娘の歌いたくなかった歌 新感染 ファイナル・エクスプレス
『新感染半島 ファイナル・ステージ』の批評はこちら(自助の行き先のその先 新感染半島 ファイナル・ステージ AKIRA - kitlog - 映画の批評)
ソウルとプサンを結ぶ高速鉄道の中で突如として発生した、謎のウィルスの感染拡大によって引き起こされる恐怖と混沌を描いた韓国製サバイバルパニックアクション。ソウルでファンドマネージャーとして働くソグ(コン・ユ)は妻と別居中で、まだ幼いひとり娘のスアン(キム・スアン)と暮らしている。スアンは誕生日にプサンにいる母親にひとりで会いにいくと言い出し、ソグは仕方なく娘をプサンまで送り届けることに。ソウルを出発してプサンに向かう高速鉄道KTXに乗車したソグとスアンだったが、直前にソウル駅周辺で不審な騒ぎが起こっていた。そして2人の乗ったKTX101号にも、謎のウィルスに感染したひとりの女が転がり込んでいた。主人公のソグ親子のほか、妊婦と夫、野球部の高校生たち、身勝手な中年サラリーマンなど、さまざまな乗客たちが、感染者に捕らわれれば死が待ち受けるという極限状態の中で、生き残りをかけて決死の戦いに挑み、それぞれの人間ドラマが描かれる。
新感染 ファイナル・エクスプレス : 作品情報 - 映画.com
(「新感染 ファイナル・エクスプレス」予告編 - YouTube) |
韓国は、労働運動が厳しく規制されていたが、1980年代後半から民主化を実現し、労働運動が活力を増した。現在の民主労働運動は、その当時から非合法運動を闘い抜いてきた人たちを幹部として出来上がったものだ。まさに労働闘士だ。製造業の正規労働者を中心にして成長を遂げた。90年代以降は韓国は民主化とともに、経済発展を続ける。労働組合がストライキをすれば、賃金が上がるという構図ができ、それが一般化されてきた。時代に適応しにくい硬化体質があることは否めない。日本ではストライキは非常に少なくなっているが、韓国では今でも「戦う労組文化」が健在だ。そうは言っても、労働組合の組織率は落ちており、以前ほどの影響力は消えつつある。労組としては、ここで妥協的態度を取ると労組の生き残りができないという危機感もあるのではないか。経済が低迷する今も、強きの戦略を打ち出している。
韓国経済が急発展しているときはこの強気の戦略はプラスの部分も大きかったが、現在の景気低迷期においては、負のスパイラルの要素になってしまった。正規社員の権利を守る戦略で、若年層は正規社員になかなかなれない。若年層の失業率や非正規社員率が高くなっている。また企業は韓国の労使関係文化を嫌って、海外に工場移転などを行いつつある。
韓国でストライキの波~労働争議の負のスパイラルに入り込んだ韓国の苦悩(児玉克哉) - 個人 - Yahoo!ニュース
「デモが続くと、結局は一番声が大きい勢力、一番よく組織化された勢力が注目されることになる。そのせいで民意がねじ曲げられ、政策にきちんと反映されないということも起こり得る」とダイアモンド教授は診断した。また、理想的な価値にこだわって間違いを犯す左派政権の限界も指摘した。「社会的不平等を解決しなければならないという焦燥感のせいで、(過激な政策を急進的に推し進め)しばしばやり過ぎるケースがある」という。
米識者が忠告「デモと街頭政治、韓国の民主主義には毒」 - 朝鮮日報
映画内のニュース映像では、市街地で起こっている事態は過激なデモであると報道される。その映像が新幹線の車内テレビに映されると「また、デモか」みたいな空気が車内に流れる。デモの力は人々が街頭に姿を表すことによって示される。家の中や会社の中にいて見えなかった人たちが一斉に外に出て集まってくるのだ。それが過激化すれば人のいるはずのないところ、例えば線路の上に人々が集まってきて、鉄道会社に物申すために列車を止めるということもあるかもしれない。この映画では実際にはそれはデモではなくゾンビたちの集まりで、全く理性的でない集団である。彼らは何かを求めているかもしれない。ゾンビが人間を噛むとその人間はゾンビになる、そのことがなんの防御もなく繰り返されるなら、全ての人間はゾンビになってしまう。つまりゾンビの目標はそれが意図されたものでないにしても、絶対的な平等、ゾンビとしての平等なのだ。これはなんとなく(脱『共産党宣言』 ここ半年ほどのメディアについて|kitlog)この事態に似ている。ゾンビたちは彼らの感染力と動員力によって最も効率よく組織され、国家に対して暴動を起こし、革命を行うかもしれない。けれど、ゾンビたちに革命後のヴィジョンがあるわけではないのだ。ゾンビは自滅のために戦っている。けれど、ゾンビにはそれが分からない。それは単なる無政府状態だろう。ゾンビと人間の戦いは、最後の機関車上のソグとゾンビの戦いに集約されるが、両者がまともに本気で後先考えずに戦えばどちらもただではすまないのだ。最後にソグが飛び降りる様子は、大恐慌時に高層ビルから飛び降りた投資家のようにもみえた。
「企業を発展させる」という大前提が崩れた労使の対立は、企業の体力を疲弊させるだけだ。
現代自の全面ストが韓国経済を打撃 「自分さえ良ければ」と馬耳東風の労働貴族たち (3/3ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)
国民と主権者とのあいだに実際に結ばれている契約が侵害されたとする、そうすると国民はまず公共体としてでなく、すぐさま暴動によって主権者に反抗してよい、というのである。これまで存続した組織は、国民によって寸断されてしまった、しかし新しい公共体を組織する仕事には、まだこれから着手されねばならない。するとここに無政府状態があらゆる残虐行為を伴って出現する、かかるむごたらしい行為は、少なくとも無政府状態のために起きるのである。そうなるとこの場合に生じる不法は、およそ国民のなかのどの党派でも他の党派に加えるところのものである。上に引用した実例からも明らかなように、暴動を起こした国民は、さきに彼等が見捨てた組織よりも遥かに圧政的になった組織を、暴力をもって互に相手に押しつけようとするのである。こうして国民は、すべての従属者を支配する一人の主権者のもとでは、国家の負担の平等な配分を期待できたのに、こんどは聖職者や貴族階級によって食い荒らされることになるのである。(p163,164)
『啓蒙とは何か』カント
ソウル駅という空間は、韓国では経済発展の象徴で、その発展からはみ出してしまった人々がホームレスなんです。つまり、経済発展の象徴とホームレスが表裏一体であるという二重の意味があるんです。ソウル駅に行くとホームレスの人々がたくさんいますが、一般の人々は、見えているのに、見えないふりをします。明らかに近くに存在しているのに、存在しないものとして通り過ぎていく。
(略)
――『新感染』に登場するホームレスには、どんな役割があるのでしょう?
『新感染』では、ホームレス以外の登場人物は、みなさん普通の人々ですよね。でも、その普通の人々も、政府のような公権力には関心を持たれていない。この映画には、公権力から無関心に扱われる一般の人々がいて、そこにも含まれないホームレスがいるわけです。
『新感染 ファイナル・エクスプレス』ヨン・サンホ監督インタビュー 『哭声』から『アイアムアヒーロー』までゾンビ映画の源泉を明かす | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス
(「新感染 ファイナル・エクスプレス」予告編 - YouTube) |
この映画でゾンビの比喩で示されているデモは、それまで家の中や会社の中にいて見えなかった人々が街頭に出て見えるようになるというものだった。この映画ではもう一つ、最初は見えなかったものが見えるようになった。それはソグの娘のスアンのことだ。彼がゾンビになる間際に思い出した光景がそのことを物語っている。
話さないということは言うべきことがないことを意味しない。言葉に出して喋らない人は、形態や映像においてのみ、また顔つきや身振りを通してのみ表現できるもので一杯かもしれないのだ。なぜなら視覚的文化に養われた人間は、口のきけない人が手話法を使ってするように身振りで言葉を代用させるのではないからである。彼はモールス符号で空にシラブルを書くようなものとしての言葉を考えはしない。彼の身振りはもともと概念を意味しないで直接彼の非合理的自我を意味する。彼の顔の上や動きの中に表現されるものは、言葉がけっして明らかにしえないような魂の層から出てくるのだ。ここでは精神は直接肉体となり、言葉を発しなくなり、可視的になる。(p28)
『視覚的人間』ベラ・バラージュ
ソグはファンドマネージャーで損得にしか興味がなく自分のことしか考えない利己主義の人間だと描写されるが、一番問題なのは彼が娘のことを見ていないことである。彼が娘の誕生日プレゼントを選ぶのに、自分の会社の部下に「今、子供に何が流行ってるんだ」と聞いて、Wiiを買っていくのだが、それは自分がプレゼントしていたのか誰かが以前にプレゼントしたのか、娘がすでに持っているものだった。彼は娘の学芸会にも出席せず、それを撮影されたビデオで娘がどうしていたのか確認していた。彼はビデオカメラの小さい画面で見ており、スアンの様子や表情はとてもわかりづらい。スアンは「アロハ・オエ」歌っているが、途中で歌えなくなってしまう。それから先生や周りの児童が彼女を励ますところでビデオは終わる。彼はビデオで学芸会の様子を見ただけなのだが、駅へ向かう車中運転をしながら、娘に「学芸会で歌を歌ったんだって?」と話し始める。娘は「どうして知ってるの?」というと、彼は「お前のことは見てないようでずっと見てるんだよ」という。そして、スアンが途中で歌えなかったことも知っているというふうに「途中でやめてしまって、バカだな」と叱る。直後に、消防車が交差点を信号を無視して突っ切ってくるのに気づき慌てて彼はブレーキをかける。彼は前を見ていなかったのだ。同じように彼は娘のことも見ていなかった。
(「新感染 ファイナル・エクスプレス」予告編 - YouTube) |
ゾンビから逃れて生存し、機関車に乗って釜山まで来たのは妊婦のソンギョン(チョン・ユミ)とスアンだけだった。釜山の手前で、線路が瓦礫とゾンビで封鎖されているため、彼女たちは機関車を降りトンネルの中に入っていく。トンネルの向こう側には、韓国軍がゾンビの侵入を防ごうと銃を構えたスナイパーが見張っている。軍の見張り役が彼女たちを見つけるが、トンネルは暗く、彼女たちが人間かゾンビか判別できない。見張りは上層部に判断を仰ぎ、上層部は彼女たちの射殺を決定する。スナイパーが構え直し、引鉄をひこうとしたところでトンネル内に歌が響き渡る。それは、スアンが学芸会で歌っていた「アロハ・オエ」だった。スアンは泣いているが、学芸会のように歌を途中でやめたりはしない。それは彼女が「アロハ・オエ」がラブソングであると同時に別れの歌であることを知っているからだ。学芸会で彼女はその歌を覚えていなくて歌えなかったのではない、何らかの彼女の過失で歌えなかったのではない、彼女は自分の意志で歌わなかったのだ。スアンの両親は離婚調停中だったが、彼女は本当は父親のソグと離れたくはなかった。だから別れの歌を歌う気にはなれなかったのだ。けれど、それとは別の仕方で父との別れが来てしまった。
ビデオカメラの小さい画面で、学芸会の様子をあとから見たソグにはそのことは分からなかったのだろう。小さな画面には娘の表情は点のようにしか映らないし、彼女が彼に目を合わせることもない。彼は娘に歌えなくてバカだ、中途半端なことはするななどと言ってしまった。彼は本当に娘のことを見ていなかったのだ。そのことに彼は娘をゾンビから守って、最後にもう少しで釜山だというときにゾンビに噛まれ、自分がゾンビになる間際に気づく。その間際に彼はスアンが産まれたときのことを思い出す。真っ白い部屋の中で彼は産まれたばかりの娘のことを見ている。それはおそらく彼が人生の中で娘のスアンを最もよく見ていた、見えていた時間だったのではないだろうか。
3/25/2021
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