僕の言葉は誰かの言葉、君のとき以外は ベイビー・ドライバー

ベイビー(アンセル・エルゴート)。その天才的なドライビング・センスが買われ、組織の運転手として彼に課せられた仕事―それは、銀行、現金輸送車を襲ったメンバーを確実に「逃がす」こと。子供の頃の交通事故が原因で耳鳴りに悩まされ続けているベイビー。しかし、音楽を聴くことで、耳鳴りがかき消され、そのドライビング・テクニックがさらに覚醒する。そして誰も止めることができない、追いつくことすらできない、イカれたドライバーへと変貌する―。
組織のボスで作戦担当のドク(ケヴィン・スペイシー)、すぐにブチ切れ銃をブッ放すバッツ(ジェイミー・フォックス)、凶暴すぎる夫婦、バディ(ジョン・ハム)とダーリン(エイザ・ゴンザレス)。彼らとの仕事にスリルを覚え、才能を活かしてきたベイビー。しかし、このクレイジーな環境から抜け出す決意をする―それは、恋人デボラ(リリー・ジェームズ)の存在を組織に嗅ぎつけられたからだ。自ら決めた“最後の仕事”=“合衆国郵便局の襲撃”がベイビーと恋人と組織を道連れに暴走を始める―。
映画『ベイビー・ドライバー』オフィシャルサイト|ソニー・ピクチャーズ

ベイビー・ドライバー
(映画『ベイビー・ドライバー』予告編 - YouTube

リハーサルの段階から、音楽が流れるところは全部、必ず音楽をかけながら撮影していました。セリフがないシーンでは大音量で楽曲をかけたり、アンセル(エルゴート)が演じる主人公、ベイビーだけが音楽を聴いている場合はアンセル自身がヘッドホンで楽曲を聴いて撮影しています。全ての登場人物が楽曲に反応しているというシーンであれば、みんなイヤーウィックという、耳に入れてその音が聞こえるけれどカメラには写らないデバイスを使って、音楽を聴きながら演技をしていました。それぞれメソッドが違うのですが、全編音楽をかけながらの撮影でしたし、ここで大きな鍵となったのは、出来上がった作品で流れる音楽を役者たちも実際に撮影中に聴いているということです。現場でかけていた楽曲は全て、最終的に作品の中で使っている楽曲なのです。
「ベイビー・ドライバー」エドガー・ライト監督、来日記者会見の一問一答

多くの監督が、サウンドトラックを念頭に置いて映画をつくる。そしてしばしば、曲のことを考えて作品を展開させる。クエンティン・タランティーノとキャメロン・クロウはそうした手法を行うことで有名だが、ライトはそれをさらに一歩押し進め、使うことがわかっている曲に、シーンのタイミングを合わせた。編集時にアクションをトラックに同期させるのではなく、ビートに合うように撮影が行われたのだ。ちょうどビヨンセの「リング・ジ・アラーム」にタイミングを合わせて、朝のランニングを行うように。

「人生が自分のサウンドトラックとシンクロし始める瞬間は、まるで魔法です」とライトは語る。「曇り空の下を歩いているときに、太陽が曲に合わせて顔を出すと、自分が全知全能になったような気分になりますよね。『ベイビー・ドライバー』は、全編を通してそんな瞬間からつくられているのです」
映画『ベイビー・ドライバー』が生み出す、音と映像の「魔法のシンクロ」|WIRED.jp

ベイビー・ドライバー
(BABY DRIVER - 6-Minute Opening Clip - YouTube

上は映画の冒頭6分の映像だ(映画を見ていない人はなるべく見ないで映画館で見たほうがいいと思う、私はこのシーンでニヤニヤしてしまった)。ベイビーは強盗の逃がし屋で、強盗班が金を盗んだあとでパトカーから逃れるのが仕事だ。彼は車の盗難を繰り返していたのだが、ある日今のボスであるドク(ケビン・スペイシー)の麻薬を運ぶための車を盗んでしまい、その時の損を弁償するためにドクのもとで逃がし屋をやっている。ベイビーは車を盗難し始める以前に交通事故にあっており、その時の後遺症で耳鳴りがおさまらず、それを癒やすためにずっとイヤホンで音楽を聞いている。彼がずっとイヤホンで音楽を聞いている理由は映画内で説明される。問題はサングラスの方だ。彼はなぜずっとサングラスをしているのだろうか。それについて説明はなかった。強盗のチームのバッツ(ジェイミー・フォックス)はベイビーが強盗の作戦会議中(反省会?)にサングラスを外さないのが生意気だというふうに、彼からサングラスをとって捨てる。ベイビーはジャケットのポケットから新しいサングラスを出して、かけ直す。すると、バッツがまた捨ててベイビーはもう一度新しいサングラスを取り出してそれをかける。それはただのギャグシーンともとれるが、サングラスに対する執着が異常ともとれる。

上の6分の映像でも彼は警官とものすごいカーチェイスを繰り広げているにも関わらず、彼はサングラスを外さない。周りの強盗たちは、彼が大胆なドリフトでパトカーを出し抜くたびに、「大丈夫なのか」という感じで周囲を見回して様子を確認するためにサングラスを外す。けれど、ベイビーだけは何があっても外さない。彼がそれを外すのは、里親のいる自分の家にいる時と恋人のデボラといる時だけだ、これは何なのだろう。もちろん、それは彼のパーソナルなスペースを保持したい、外に壁を作りたいという単なる願望かもしれない。イヤホンをしている人は、自分が外の音が聞こえておらず、自分だけの音を聞いているというポーズをとっている。それにサングラスが付け加わっただけとも言えるが、それだけだろうか。

この映画の中での音楽は彼の聞いている音楽である。その証拠に、彼がイヤホンを他人に共有しようとして片方のそれを外すと映画館の中でも片方からしか音楽が聞こえなくなる。観客は彼がイヤホンで聞いているのと同じように音楽を聞いて映画を楽しむ。「ベイビーはこんな音楽を聞きながらパトカーから逃げているのか」観客とベイビーは同一化しようとする。そうすると映画館内にいる観客とベイビーの類似に気づく。サングラスは暗い映画館内の比喩ではないだろうかと。ここで、映画における観客の位置づけ、他の芸術との違いについて確認しておこう。

映画の製作には途方もなくお金がかかるので企業家は興行的失敗という危険を冒すことはできないから、是が非でもすでに目の前に存在する欲求を斟酌しなければならないということは認めるとしよう。するとどういうことになるか、あなた方にどのような映画を与えられるかは、あなた方とあなた方の欲求および鑑賞能力によって定まるということになるだけだ。映画は他のすべての芸術以上に社会的芸術であって、或る程度観客によって作られるのである。他のすべての芸術は本質的に芸術家の好みとその才能に左右される。映画の場合は観客の好みと才能が決定的である。このような共同作業の中に、あなた方の大きな使命が横たわっている。(p23)

『視覚的人間』ベラ・バラージュ

ベイビーが観客であるとしたら、彼の行為、運転をするという行為は何を意味するのだろうか。彼は車に乗っているが、カーレーサーではなく逃がし屋である。決まったコースを走るのではなく、そこから外に出ていく。道を急に曲がって、迂回して、逸れて、逆走して、複数化して都市をすり抜け、パトカーから逃げ切るための出口を探す。そして車の模型が置かれた作戦会議室に戻るのだ。これは、ベイビーが観客だとしたら、批評行為そのものではないだろうか。彼はサングラスとイヤホンをしている間は映画を観ている。そして映画を観ながらその映画の出口を探している。彼が出口を探すのに成功したとき、彼はその映画全体を見る場所(アジトの作戦会議室)にいる。この批評では『ベイビー・ドライバー』の出口はサングラスである。それが彼が観客であり、批評家であることを示してくれた。彼が身近にいる人間の声を録音して音楽を作るのは、彼の批評の比喩か、彼の批評に対する批評(Was he slow?)に対する批評だろう。それは映画内のセリフを引用して批評を書くようなものだ。彼はそうやって作った音楽をタイトルをつけてカセットテープに保存しているが、二つのそれだけは録音したものに手を加えずにオリジナルのまま保存していた。それは彼の母が歌った歌の音源とレストランで出会ったデボラの声である。彼にとってそれが現実で映画ではないからだ。それは批評の対象になりえない。その他のものは映画である。

映画が彼に侵食してくるようになる。強盗仲間のバッツは向こう見ずな性格でガソリンスタンドでガムを買うためだけに店員を傷つけるようなやつだ。そのバッツが自分の現実のほうに近づいてきてしまった。ベイビーは自分のプライベートなことを隠していたが、バッツがたまたまあの店に行こうといった店がデボラが働いている店で、彼女の存在が強盗仲間にバレてしまった。バッツは「強盗は逃避じゃないのか」といっている。「映画は逃避ではないのか」ということだ。バッツはガムを買う時のように、店員につまりデボラに銃を突きつけようとする。ベイビーが慌ててかつデボラに何事もないように見せるようにそれを止める。「自分がここの代金を払う」と。ここではまだバッツたちには、ベイビーとデボラは特別な関係だとはバレてはいない。

ベイビーは映画か現実かどちらかを選ばなくてはならない。その選択の間で責任と犠牲の問題が生じてくる。彼は他人が強盗をしているのを見ているだけだった。彼は手を汚していない。が、今度はそうはいかない。なぜなら今度は彼が選ばなくてはならないからだ。

他者との関係、他者の視線や要求や愛や命令や求めとの関係に入ってしまうと、私は次のことを知る。倫理を犠牲にすることなく、すなわちすべての他者たちに対しても同じやり方で、同じ瞬間に応えるという責務を与えるものを犠牲にすることなく、それらに応えることができないことを。〔その時〕私は死を与え、誓いに背く。(p142,143)

『死を与える』デリダ

ベイビーはもちろんデボラを選ぶ。彼は最後の強盗の計画の手前でそこから逃げ出して、デボラと遠くへ行くつもりだったが、バッツらに見つかってしまう。彼は裏切り者扱いをされ、家をあらされ大量の録音テープが見つかってしまう。スパイじゃないのかと疑われ、デボラのテープも見つかり、彼女との関係もバレてしまう。彼は殺されるか、運転するかの選択で運転をとる。最後の計画の場所は郵便局で彼がそこに下見に行ったのだが、そのときに彼はそこの局員の女性と親しく話をしてしまっていた。そして彼女と計画の最中に鉢合わせしてしまう。ベイビーはバッツたちを待つ車内で彼女に見つかり、彼は彼女にここを離れるよう首を振って合図を送る。そこに警備員がやってきて彼女と何かを話しをしている。警備員が近づいてくる。すると、バッツらが戻ってきて、警備員を撃ち殺してしまう。郵便局員の女性は絶叫している。バッツたちは車に乗り込んで、ベイビーに「車を出せ」と命令する。ベイビーは絶叫する彼女を見ている。「車を出せ」ベイビーは動かない。「出せ」ベイビーは急に発進をし、目の前の工事資材を積んだトラックに突っ込む。助手席にいたバッツは資材で串刺しになり死んでしまった。それはほとんど彼が子供の頃にあった交通事故の再現だった。

パトカーがやってくる。ベイビーと後部座席にいた強盗二人は車内を抜け出してそこから走って逃げる。ベイビーのサングラスの片方がなくなっている。彼は強制的に映画から現実に向かっている。彼はデボラを守りながら、生き残った強盗との「内戦」を生き延びる。その戦いで耳を負傷し、彼は気を失ってしまった。目が覚めると彼は助手席に座っていて、デボラが運転している。車のスピーカーからは彼の母親の歌が聞こえている。その助手席はまるで赤ん坊のゆりかごのようだ。ベイビーはそこで生まれ直す。デボラの運転する車がとある橋の上を過ぎようとすると向こう側に警官たちが待機している。デボラは慌ててアクセルを踏もうとするがベイビーはすかさずブレーキを踏む。ここに出口はない。ここからは批評ではないのだ。彼は鍵を抜き取り川に投げ、両手を高く上げて警官におとなしく捕まり刑に服する。彼は懲役二十五年だったが、彼が出会った様々な人物の証言(「彼は命令に従わざるをえない状況にあっただけだ」「彼は私を助けようとした」)で五年で仮釈放することができた。デボラは彼を待っていた。
9/10/2020
更新

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