本のない世界で ダンケルク

第二次世界大戦が本格化する1940年、フランス北端の海の町ダンケルク。フランス軍はイギリス軍とともにドイツ軍に圧倒され、英仏連合軍40万の兵士は、ドーバー海峡を望むこの地に追い詰められる。背後は海。陸海空からの敵襲。そんな逃げ場のない状況下でも、トミー(フィオン・ホワイトヘッド)やアレックス(ハリー・スタイルズ)ら若き兵士たちは生き抜くことを諦めなかった。一方、母国イギリスでは、海を隔てた対岸の仲間たちを助けようと軍艦だけでなく民間船までもが動員され“史上最大の救出作戦”が動き出そうとしていた。ドーバー海峡にいる全船舶が一斉にダンケルクへと向かう。民間船の船長ミスター・ドーソン(マーク・ライランス)も、息子らとともに危険を顧みずダンケルクを目指していた。英空軍パイロット・ファリア(トム・ハーディ)も、数において形勢不利ながらも出撃。タイムリミットが迫るなか、若者たちは生きて帰ることができるのか……。
ダンケルク | 映画-Movie Walker

ダンケルク
(映画『ダンケルク』本予告【HD】2017年9月9日(土)公開 - YouTube

第一次世界大戦の場として、前線がこのポレモス(戦争)の歴史的形象を与えている。これは対面状況という究極の近さにおいて、敵同士を夫婦のように近づけるからだ。このように前線は奇妙で、困惑させえさえするような高揚を与え、おそらくもうひとつ別の喪を予感させるだろう。すなわち、第二次世界大戦中および以後の前線の消滅、敵をそれと認め、さらにはとりわけ敵と自分とを同一視することを可能にしていた前線での向き合いの消失である。第二次世界大戦後には、敵という形象が失われ、戦争が失われ、そしておそらく政治的なものの可能性そのものが失われる、とパトチュカが〔カール・〕シュミットを真似て言ったとしてもおかしくはない。(p41)

『死を与える』ジャック・デリダ ()内筆者

全く前線というものがなくなったとは思わないが、例えば現在北朝鮮がミサイルを発射しそれが日本の上空を通り越して太平洋に落下するという事態が起こっている。このことは現実なのだがどこか現実感がない。北朝鮮がミサイルを発射して、それが大気圏を越え再突入し太平洋に落下するという過程をほとんどの人は見ることができない。ただ、ミサイルの落下のおそれがある地域に地震のときのようにスマホのアラームが鳴って知らせたり、テレビ画面の上方に字幕が出るだけである。「北朝鮮がミサイルを発射」「北朝鮮のミサイルが太平洋に落下」われわれはそれを文字で知るだけでそれ自体を見ることはできない。地震の際には、テレビではどこかの定点カメラがすぐに表示されたり、SNSでそのことを誰かがつぶやいたりして揺れているんだなということをある程度実感はできる。ミサイルに関してはそういうのがほとんどない(北海道沖に落ちたときにミサイルをカメラが捉えたのが唯一?)ので、ミサイルに関する報道やそれが長距離飛行し見えないことなどを含めて幽霊みたいだと思った。この映画で敵が顔を見せないということもそれと似たようなところがある。


ヴァレリーが本の中で興味深い思考実験を披露している。

紙は周知のごとく、情報の蓄積と伝播の役割を担っている。その真正さあるいは信憑性についてはまちまちだが、情報を人から人へ、さらに時代から時代へ伝えるのが紙の役割である。

そういう紙が消えてしまったと想定したらどうなるか。銀行紙幣も、株券も、条約文書も証書も、法典も、詩も、新聞等々もなくなるのだ。たちまち社会生活全体が麻痺してしまうだろう。そしてこの過去の廃墟の中から、未来が、潜在的で可能的なもの、純粋に現実的なものが出現してくるのを人は見るだろう。

たちまちみんなは自分が直接的な知覚と行動の領域に閉じ込められてしまうのを感じるだろう。各人の未来と過去は恐ろしく接近し、我々の存在は自分の感覚や行動が直接及ぶ範囲に縮小されてしまうだろう。(p148)

『精神の危機』ポール・ヴァレリー

この映画は紙が落ちてくるところから始まって、ある紙を手にするところで終わる。その間には紙は少しも出てこない。『ハクソー・リッジ(目をつむる、開く ハクソー・リッジ|kitlog)』の主人公デズモンドが戦場でも常に聖書を持ち歩き、暇さえあればそれを読んでいたのとは大違いである。彼は終盤に負傷しその時に聖書を落としてしまうが、それを彼は再び手にする。

新聞には、実に色々な、支離滅裂かつ強烈なニュースが溢れていて(日にもよるが)、二十四時間のうち読書にあてる時間はそうしたものを読むだけですべて取られてしまい、精神は混乱し、動揺し、異常に興奮する。

(略)

現代人は本を読む時間がない……これは致命的だが、我々にはどうすることもできない。

こうしたことが、すべて、結果として、文化の実質的な衰退を招くのだ。そして、副次的に、真の精神の自由の実質的な衰退を招くのだ。なぜなら、精神の自由は、我々が刻々近代生活から受け取る混乱した、強烈な感覚の一切に対して、超然として、拒絶する態度を取ることを要求するからである。(p245,246)

『精神の危機』ポール・ヴァレリー

デズモンドはまさに戦場で超然としていた。軍の指令を拒絶し、戦場で一人でも多く負傷兵を助けることを信念として行動した。彼が戦場で聖書を持っているということは彼の信念の証である。紙の中の情報というのは、時代や場所を超えて届くものである。紙じゃなくても書かれたものであればいいのかもしれないが、おそらくそれは最も軽くて頑丈で安い。書きこまれた紙は保存され、輸送され、翻訳され、我々の時代のものとは違うメッセージが現実に入り込む。彼は苦しい戦場の中で、時間や場所を超えたところにいつも立ち戻っていた。

それと比べると、『ダンケルク』の兵士の大半は状況に流されるだけで、ヴァレリーが書くところの「たちまちみんなは自分が直接的な知覚と行動の領域に閉じ込められてしまうのを感じるだろう。各人の未来と過去は恐ろしく接近し、我々の存在は自分の感覚や行動が直接及ぶ範囲に縮小されてしまうだろう。」という状態に陥っている。この映画は、陸、海、空の場所にそれぞれ一週間、一日、一時間の経過が描かれ、それらが奇妙なバランスで配合され交錯するという構成になっている。特に陸ではダンケルクの海岸に迎えの船を待つ兵士が何人(何千人なのか何万人なのか画面からはわからない)もいるが、誰も何もわかっていない様子で、ただ最初に落ちてきたビラだけが情報で、彼らはドイツ軍に包囲されている以外のことは知らないようだ。その恐怖からか、陸の主人公トミーはここを誰よりも脱出することしか考えておらず、救護班のふりをして乗れないはずの船に乗り込もうとする。桟橋には他に多くの並んでいる兵士たちがいるが、彼らを気遣う様子もない。ただ、助かりたいがために近くの直接的に目に入ったもの耳に入ったものだけを頼りになんとかしがみつこうとする。トミーたちはその環境に適合しすぎている。

そんな彼らに、空と海からサポートがやってくる。海からはミスター・ドーソン(マーク・ライランス)、彼は民間人で第一次世界大戦を経験し、若者を戦争に巻き込んだことに責任を感じている。彼はおそらくボルトン海軍中佐(ケネス・ブラナー)と並ぶほど海のことを知っている。空からはファリア(トム・ハーディ)とコリンズ(ジャック・ロウデン)、彼らはイギリス空軍でイギリスの船をドイツの戦闘機から護衛するのが役割だ。彼らはダンケルクの外側からやってくる。本のないダンケルクののろまな世界に、時間と場所を超えたものを提供する。彼らの一週間に彼らの一日や一時間を加えるだけで多くの人が助かるのだ。ダンケルクの状況を一番理解できたのは空から様子を眺めることができたファリアたち空軍だろう。彼らの状況判断でドイツの戦闘機や爆撃機を撃退し、多くの船が沈没せずにすんだ。けれど、おそらくこれがこの映画の最も印象的なセリフだが、皆が助かってイギリスに戻ったあと陸軍の一人が空軍のジャケットを着ているコリンズを見て「空軍は何やってたんだ」と非難するような捨て台詞を吐く。それは陸の一週間を経た彼らの近視眼を表している(観客の我々もそのような状況に置かれるが、海、空の状況が一種の清涼剤のような役割を果たす)。コリンズの肩に手をおいてドーソンは「われわれは見ていた」と優しく声をかける。この映画で不条理を感じるところは、目の前のことしか見てない人が多いために、誰かが誰かを助けてもそれが誰にも見られていないということがあることだ。駆逐艦が沈没仕掛けたときに、船室のドアを開け皆を助けたフランス人の兵士ギブソン(アナイリン・バーナード)は、その後全然しゃべらないことからドイツのスパイだと疑われ銃を突きつけられる。この映画は敵が見えない映画だが、同時に味方も味方のことが見えていないのだ。ドイツの爆撃機から皆を救ったファリアの顔は一度も味方の誰にも見られることがない。

最初に映画に登場したのはドイツのプロパガンダのビラだが、最後に登場する紙はイギリスの新聞である。アレックスは自分が何もしてないこと、ただ逃げてきただけであること、仲間を蹴落としてここまできたことを思いながら、自分はイギリスから非難されるに決まっていると思っていた。ここで彼らが非難されていたら、彼らは虚無に落ち込んでいただろう。新聞にはチャーチルの言葉が載っていた。イギリスに着くと街は彼らを歓迎していた。チャーチルは、兵士たちは奇跡の生還を果たした、この撤退は次の戦いのための布石なのだ、イギリスは絶対に諦めないと綴っていた。チャーチルもまた戦場を見ていないかもしれないが、ドイツの最初のビラの効果を打ち消すには必要だっただろうと思われる。それはイギリス兵を意気消沈させまいと、ジョージ(バリー・コーガン)の死を隠したピーター(トム・グリン=カーニー)とドーソンの態度と似通っていた。

ミスター・ドーソンがどんな人で、どこからきたのかということについて、映画では説明されません。あなたの中では彼の人物像を、どう作り上げたのでしょうか?

この映画は、観客をそのどまんなかにぶちこみ、 体験してもらうことを狙っている。それはすばらしいと僕は思った。今作で、ミスター・ドーソンの背景については、誰も知らない。観客は、それぞれに、いろいろな想像をするだろう。そのどれもが、意味をなすはずだ。

僕自身は、彼を農家の人だと考えた。普段、土を相手にしている人が、そこからとても遠い海という空間にいるのは、おもしろいと思ったからさ。彼の家は農業で成功してきて、それで船を相続したのではと僕は考えたんだ。

だけど、後ろのポケットから人参がぶらさがっているようなあからさまなことはしないよ(笑)。シェイクスピア劇でも、演じる側はどこまで知っているべきで、逆に観客にはどこまで知らせるのかの違いがある。映画においても、僕は毎回、観客に想像してもらう余地を残す。そのためにはどこまで隠すのかを考えなければならない。
「ダンケルク」のマーク・ライランス:あの人物の気持ちは、日本人にはわかるかも(猿渡由紀) - 個人 - Yahoo!ニュース
9/10/2020
更新

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