多数者の殺人 三度目の殺人

それは、ありふれた裁判のはずだった。殺人の前科がある三隅(役所広司)が、解雇された工場の社長を殺し、火をつけた容疑で起訴された。犯行も自供し死刑はほぼ確実。しかし、弁護を担当することになった重盛(福山雅治)は、なんとか無期懲役に持ちこむため調査を始める。
何かが、おかしい。調査を進めるにつれ、重盛の中で違和感が生まれていく。三隅の供述が、会うたびに変わるのだ。金目当ての私欲な殺人のはずが、週刊誌の取材では被害者の妻・美津江(斉藤由貴)に頼まれたと答え、動機さえも二転三転していく。さらには、被害者の娘・咲江(広瀬すず)と三隅の接点が浮かび上がる。重盛がふたりの関係を探っていくうちに、ある秘密に辿り着く。
なぜ殺したのか?本当に彼が殺したのか?得体の知れない三隅の闇に呑みこまれていく重盛。弁護に必ずしも真実は必要ない。そう信じていた弁護士が、初めて心の底から知りたいと願う。その先に待ち受ける慟哭の真実とは?
三度目の殺人 - 映画・映像|東宝WEB SITE



最近観た映画と比較すると、この映画は『ダンケルク』の陸軍パートだけ『君の膵臓をたべたい』の真逆という印象だ。前者については(本のない世界で ダンケルク|kitlog)で書いたが、登場人物が”直接的な知覚と行動の領域に閉じ込められてしま”っていて、それについて誰も外側から指摘することができない。そのような外側から現れる、空軍や民間人が存在しない。そのことは映画内でも重盛が自分たちは象を触る盲目の人間のようだという比喩で表されている。鼻を触っている人と耳を触っている人は象に対する印象(この映画は印象が中心の裁判が行われる)はそれぞれ違うが、そもそも自分が何を触っているのかはわからない。本当なら象から離れて(近すぎるとものは見えない)象を見なければいけないはずなのだ。空軍が空からダンケルクの様子を観察したように。しかし、この映画にはそのような外側に対する信頼が一切ない。ここではジャーナリストは適当なストーリー(これは保険金殺人だったなど)をつくる人としか描かれない。真実が努力目標にさえなっていない。それは(脱『共産党宣言』 ここ半年ほどのメディアについて|kitlog)で書いた状況と驚くほど似ている。人間や人間が作ったものはこの程度なんですよということが描きたいのだろうか。

法または世論によって強制されて来た行動および忍耐の行為の規則を、決定するいま一つの大原理は、俗世界の君主たちや彼らの神々の好むところ、または厭うところと想像されるものに迎合しようとする、人類の奴隷根性であった。この奴隷根性は、本質的には利己的なものであるが、偽善ではなくて、完全にまことの嫌悪の感情を発生させ、人々を駆って魔術者と異端者とを焚殺させた。(p19)

『自由論』ミル

2015年の夏ごろですね。弁護士さんと食事に行く機会があって。

よくテレビのニュースで、ある裁判の判決が出て控訴が決まり、「真実を究明する場所が地裁から高裁に場所を移します」といったレポートを耳にするじゃないですか。弁護士の方が、「あれには違和感がある」と話していて。なぜかと聞くと、「弁護士からすると、法廷は真実が究明される場所ではないんです」と言うんです。じゃあ何をする場所なのかと聞くと、「利害調整ですよね」と答えた。
「自分が生きている社会が、怖くなるかも」 是枝裕和監督が『三度目の殺人』に込めた思い

彼らはノルマの奴隷であるので、その労働の過程で人が死んでも仕方がないという。それが経済的に正しいと映画の中でいう。電通の社員が長時間労働などが原因で自殺した問題で鬼十則に「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……」というのがあったが、この場合は「取り組んだら放すな、殺しても放すな、目的完遂までは……」となるだろうか。「真実がわからない」ということと「誰が殺したのかわからない」ということは等価ではない。前者がわからないことはありうる、なにしろ真実という言葉自体が曖昧だから。しかし「誰が殺したのかわからない」というのは単なる怠慢ではないだろうか。ノルマをこなすために「誰が殺したのかもわからない」ということが黙認されてもいいというのは、結論が宙吊りですよというよりはコミュニケーションの拒否のあらわれではないか。「真実がないのが真実」はありえても「誰が殺したのかわからないのが真実」とはなりえないのではないか。「誰が殺したか」は真実に比べてとても具体的だ。過労やいじめを苦に自殺をした人物の遺書が見つかっても、誰もそれの真実性を認めないふりをすればそれがなかったことになるのだろうか。彼らは「真実はわからないものだ」という標語を自分の保身や怠慢の代わりとして掲げるのだろうか。

元来、どんなコミュニケイションも完結しえないというのが、彼らの持論なのであるから、彼らはそうした他者との関係においても、コミュニケイションの成立は最初から期待していないのである。(p18)

『ポストモダニズムの幻想』イーグルトン

コミュニケーションが期待されていないというのが『君の膵臓をたべたい』と真逆なところだ。この映画で宝探し(迷子の宝探し 君の膵臓をたべたい|kitlog)は行われない。レッテルを貼られたらレッテルを貼られたままの状態におかれる。三隅は自分が犯したとされる殺人に対して前から恨んでいたといったかと思うと次のときには突発的に殺したといったり、最後には自白を覆して自分は殺していないという。彼はそうやって自分の証言を他人に合わせて別の場所へずらしていく。そうするとコミュニケーションは完結しえない。喋った相手の数だけ、いつまでも喋り続けることができる。相手が「こうなんじゃないんですか」といえば「そうなんです」とこたえ、他の人が「こうじゃなくてああなんじゃないですか」といえば「実はそうなんです」と答える。彼は黙秘をすることによってではなく語り続けることによって、秘密を作り上げる。

たしかにある意味ではアブラハムは語る。たしかに語るのだ。だがすべてを語ることができたとしても、彼がたった一つのことについて沈黙を守りさえすれば、ひとは彼が語らないと結論することができる。このような沈黙がアブラハムの言説全体に広がっている。だから彼は語り、また語らない。答えることなく答える。答え、また答えない。的を外した答えをする。秘密にしておくべき本質的なことについては何も言わないために語る。何も言わないために語ること、これは秘密を守るためのつねに最良のテクニックである。(p125)

『死を与える』デリダ

問題は三隅の抱えている秘密が何なのだろうかということだろう。それはこの映画では描かれない。映画のいいところは見えないはずのものが見えることであると思う。たとえば(白い布で覆われた遺体 パトリオット・デイ|kitlog)など実話の映画では、ニュースでは文字だけあるいは監視カメラの断片だけでしか見ることのできない事件の様子が、加害者・被害者の事件前の様子やその他の事件の背景なども全て見えるようにして描かれる。この映画ではあらゆることが心象や印象に終始していて、映画を見ているというよりはニュースの断片を見ているという感じでなんとなくワイドショーのようなのだ。だからなのか、重盛という弁護士もあまり優秀には見えない。彼は(彼らは)三隅の証言がコロコロ変わると知っていたなら、なぜもっと具体的なものを見つけようとしなかったのだろうか。重盛は最後に三隅に真実について尋ねるが、三隅は「本当のこと?だめだよ、人殺しにそんなこと期待しちゃあ」と返す。三隅は人殺しは真実を話さないと言っている。最初に、弁護士の仕事において「勝てれば真実はどうでもいい」と言っていた重盛にその言葉は帰ってくる。「本当のこと?だめだよ、弁護士にそんなこと期待しちゃあ」。重盛は、自分は自分の仕事のために人殺しを行っているのだろうかと自問せざるを得ない。彼は真実に背を向けて十字架を背負うことになる。相対的に彼が最も真実に迫ろうとしていたのだが。

もしも正義の問題がただの利害調整の問題だとすれば、少数者や弱者は常に虐げられる存在であり続けるだろう。結局「真実がわからない」のだから殺してもいいという風に論理がすり替えられないことを望む。

国連人権高等弁務官事務所は、ロヒンギャの住民に対して「組織的かつ広範囲に攻撃が行われ、人道に対する罪の可能性が高い」とする報告書を今年2月に提出しました。これを受けて国連人権理事会は、調査団の設置に関する決議を採択し、国際的な調査団が今月にも現地入りする計画でした。

しかし、ミャンマーの実質的指導者のアウン・サン・スー・チー国家顧問は、ロヒンギャ住民の証言は捏造であり、虐殺や民族浄化の事実はなかったと反論し、ミャンマーが独自に調査を行うことを理由に、国連の調査団の受入れを拒み、入国ビザを発給しない方針を示しました。
「ロヒンギャ問題 ミャンマーの民主化と人権侵害」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス

そしてマバタの世界観において、真実はただ一つ。仏教徒は、暴れるイスラム教の被害者なのだ。

アウンサンスーチー政権から活動を禁止されて半年、マバタの僧侶たちは今でも自分たちの排外的な主義主張を積極的に推し進めている。私はマンダレーにあるキム・ウィン・ミン・ジー僧院で、8人の高僧に話を聞く機会を与えられた。

法律を守るムスリム(イスラム教徒)については何の問題もない――。エインダル・サッカ・ビウィンタ師はこう話した。しかし、イスラム教徒がインドに侵入した時はどうか。住民を無理やりイスラム教に改宗させたではないかと。

この世界観では、37万人以上のロヒンギャがバングラデシュへ逃れるに至った苛烈な弾圧も、イスラム教徒に侵略される仏教徒の長い闘いという文脈の一部になる。
【ロヒンギャ危機】 ミャンマーの強硬派仏教僧に話を聞く - BBCニュース
9/10/2020
更新

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