生産と再生産の間で ロケットマン

グラミー賞を5度受賞したイギリス出身の世界的ミュージシャン、エルトン・ジョンの自伝的映画。並外れた音楽の才能でまたたく間にスターへの階段を駆け上がっていった一方で、様々な困難や苦悩にも満ちたエルトン・ジョンの知られざる半生を、「ユア・ソング(僕の歌は君の歌)」や「ロケット・マン」など数々のヒット曲にのせたミュージカルシーンを交えて描いていく。イギリス郊外の町で両親の愛を得られずに育った少年レジナルド(レジー)・ドワイトは、唯一、音楽の才能には恵まれていた。やがてロックに傾倒し、ミュージシャンを目指すことを決意したレジーは、「エルトン・ジョン」という新たな名前で音楽活動を始める。そして、後に生涯の友となる作詞家バーニー・トーピンとの運命的な出会いをきっかけに、成功への道をひた走っていくが……。

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(映画『ロケットマン』公式サイト

ロケットマン
(『ロケットマン』本予告 - YouTube

『ボヘミアン・ラプソディ』における反復、歌うことと何度も歌うこと

ミュージシャンに焦点を当てた映画ではごく最近の『ボヘミアン・ラプソディ(映画が観客を見なくなるまで ボヘミアン・ラプソディ - kitlog - 映画の批評)』が思い出される。『ロケットマン』も『ボヘミアン・ラプソディ』もそれぞれ成功者ゆえ、セクシャル・マイノリティであることゆえの苦悩や葛藤が描かれていて、それらはとてもよく似ているように見える。ゴシップで苦しんだり、家族から理解されなかったり、名前を変えなければいけなかったり。けれど、決定的な点において、両者は差異を明らかにしている。それは音楽映画の本質であり中心である歌うことについてである。

『ロケットマン』ではタロン・エジャトンは実際にエルトン・ジョンの歌を歌っているが、『ボヘミアン・ラプソディ』ではフレディー・マーキュリー役のラミ・マレックは口パクである。後者は実際のフレディの声の録音の音声、コピーなのだ。この違いが主人公の悩みを別なものにしている。『ボヘミアン・ラプソディ』のフレディはおそらく歌うこと自体に悩んではいない。それはあるブレークスルーがあるからだと思われる。そのことがラストのライブ・エイドの爆発につながっている。一方、『ロケットマン』は歌うこと自体に悩んでいるように思われる。そのために彼は登場した直後にセラピーを受けなければならない。

ボヘミアン・ラプソディ
(映画『ボヘミアン・ラプソディ』最新予告編が世界同時解禁! - YouTube

『ボヘミアン・ラプソディ』でBBCのテレビ番組に出演したとき、フレディに口パクでやってくれと頼まれる。BBCではよくあることだからというのだ。彼らは演奏をして歌っているふりをしているが、実際に流れているのは録音の音声である。これはこの映画の音もコピーであるためある種メタ的な言明であるが、どちらにしろ音楽として流れてくるのはコピーされた録音の音声で、そうでなければならなかった。彼らは録音にこだわりがあったからだ。

クイーンのプロデューサーのロイ・トーマス・ベイカーは、当時について次のように述べている。「フレディがロンドンの自宅で、“Bohemian Rhapsody”をピアノで初披露してくれた時のことを覚えている。その後、基本的な要素が出来上がった頃に、ロックフィールドで納得のいくものを突き詰めようとしていたんだ。そうして最初の部分を僕に聴かせながら、“それで、ここにオペラのセクションが入ってくるんだ”と言ったんだ。僕は、そこに何かドラマティックなオペラ・スタイルの文節を想像しなければならなくて、それはロックフィールド滞在期間中にも目まぐるしく変わり続けた。16トラック・テープマシーンを使ったレコーディングには3週間を費やし、180のオーバーダブが使われた。これは当時としては物凄く珍しいことだったんだ」。

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ボヘミアン・ラプソディ
(映画『ボヘミアン・ラプソディ』最新予告編が世界同時解禁! - YouTube

彼らはオーバーダブつまり多重録音で同じテープに音を何度も重ねていた。劇中でロジャー・テイラーが「ガリレオー」と高音で歌うたびにフレディがテープを巻き戻して「もう一回」といい録音を重ねる。ロジャー「ガリレオー」フレディ「もう一回」ロジャー「ガリレオー」フレディ「もう一回」ロジャー「何回ガリレオやんのよ」。これが『ボヘミアン・ラプソディ』における反復である。音楽はその性質上、何度も演奏され歌われる必要がある。彫刻のように一回完成してしまえばそれで終わり、次は別の作品というわけにはいかない。レコードを作るために何度も歌い、歌が出来上がればライブで何度も同じ曲を歌わねばならない。このような反復を『ボヘミアン・ラプソディ』は多重録音という方法で回避している。同じようなものが反復されたとしても、それはひとつの作品を作るためのプロセスなのだ。だとすれば、その一度一度は単なる繰り返しという意味を超えたものになる。その繰り返しはレコードがリピートするのとは別の意味を持っていることになる。そして最後のライブ・エイドでの演奏はそのような音の重ねあわせを観客を巻き込むことで行っている。

『ロケットマン』ではこの問題が回避できなかったようにみえる。この映画でも録音のシーンは出てくるがマネージャーとの性行為によって中断されてしまう。

生産と再生産

ロケットマン
(『ロケットマン』本予告 - YouTube

『ロケットマン』はある時点でグループ・セラピーを受けているエルトン(タロン・エジャトン)が子供時代から徐々に今の自分までを振り返るという回想形式をとっている。彼の音楽との出会いや流れてくる音楽を即座にコピーしてしまう才能、音楽に豊かな想像力を膨らませる子供時代が描かれ、その後は音楽学校へ通い、バンドを結成し、バックバンドで下積みをするといったようなことが流れるように描かれる。そして作詞をしているバーニー(ジェイミー・ベル)と運命的な出会いをし、エルトンは彼の詩に曲をつけることになる。この作詞と作曲の完全な分離がこの映画を特異なものにしている。バーニーは詩を書くとそれを封筒に入れてエルトンの住所へ送る。詩や曲に宛先があるのだ。バーニーは詩を送るときに宛先を描かなければならない。それがこの映画で唯一描かれる愛の表現である。彼らは宛先を交換して詩と曲を贈りあう。エルトンが子供時代に『I want love』で求めていたものは『Your Song』の完成で頂点を迎える。

『Your Song』は「僕は彫刻家とかじゃなくて、できることはこれが精一杯だから君に僕の作った歌を送るよ。これは君の歌だといっていいよ。君といる世界はとてもすばらしいって歌にしてしまったけど、どうか気にしないで」という歌だ。エルトンはレコード会社からビートルズのようにバーニーと二人で一緒に住んで曲を作れといわれるが、最初に住んだところでゲイであることがばれて、つきあっていた大家にアパートを追い出されてしまう。『Your Song』は、エルトンが実家に家賃を払ってバーニーと住んで、そこでできた曲だ。朝食が終わったところでバーニーが詩を書いた紙をエルトンに渡すと彼は「ズボンをはきなさい」と親がいうのも聞かず、すぐさまピアノに向かい『Your Song』の作曲を始める。バーニーは紙を渡した後、洗面所にいってその間に徐々に曲の輪郭ができてくる。彼はピアノのあるリビングに戻り曲の完成を迎えて、エルトンに向かって笑いかけている。このときは、エルトンの音楽活動をよく思っていない母親のシーラ(ブライス・ダラス・ハワード)もエルトンのピアノの方に振り向かざるを得ない。

これがおそらくエルトンの理想的な音楽の生産が行われた時期である。そこにはバーニーと家族しか観客がいないとはいえ、自分の作った曲の宛先が存在していた。そのような宛先は彼がハリウッドに行き数多くの有名バンドがライブを行うトルバドールという会場でも存在していた。彼の曲で観客も自分自身も浮き上がり、全てはスローモーションになって観客の顔をすべて見ることができた。しかし、彼が経済的に成功するに連れて、自分の曲の宛先がなくなっていく。映画の序盤はバーニーとの作詞作曲がメインだったが、後半は大勢の観客の前でのパフォーマンスがメインとなる。彼は「オファーがたくさん来てるぞ」と公演回数を増やされ、自分がどこの会場にいるのかも分からなくなる。彼はステージに上がるや否や「オーストラリアのみんな!ん、ここオーストラリアだっけ。どうでもいいや」とつぶやいて、観客からブーイングを受ける。彼は自分の曲の宛先を失っているのだ。映画の演出で彼の立っている舞台は同じところを回る続けるレコード盤のように回転し、観客はその回転のスピードの中で見えなくなってしまう。反復が観客、宛先を見えなくしている。再生産の始まり、レコード盤は回り続けている。その中でどんどん派手で奇抜になっていく彼の衣装だけが、そのライブの一回性、唯一性といったようなものを定めようとしているが、変わらず心配してきてくれているバーニーとの溝を広げる結果になるばかりである。

ロケットマン
(『ロケットマン』本予告 - YouTube

仕事を産みだすために仕事をしなくてはならないという、システムのこのばかげた円環性に照応するのが、ストのためのストへの要求である。(そのうえ、「要求」ストの大部分も、今日ではストのためのストにさえなっている)。「ストの期間中の賃金を払え」というのは、つまるところこうなる――ストのためのストを再生産できるように支払いをせよ、と。全般的システムのばかばかしさへの急変である。(p70)

生産から純粋で単純な再生産への移行の最初の衝撃波は、六八年の五月であった。それは、まずは大学を、しかも最初に人間科学の学部をおそった。なぜならそこではもはや何も生産されてはおらず、ただもう再生産するしか残されていなかったことが(はっきりした「政治的」意識をもたなくとも)、いよいよ明白になったからである(知識と教養をもった教師たち自身が一般システムの再生産要因であった)。六八年の学生運動を挑発したのはまさにこの状況であるが、それもまったくの無用さ、責任のなさ(「何のための社会学者か?」)、追放として感じられたからである(就職口がないからというのではない。就職口なら、再生産のなかではいつでもかなりある。何ごとかが本当に生産される場所や空間、これがもう存在しないからである)。(p73)

象徴交換と死』ボードリヤール

宛先がなくなった世界(父親も母親も恋人も宛先の対象外として描かれる)で、エルトンは酒と薬を大量に飲み自殺未遂をしてしまう。真似をしないほうがいいが、それ以降の予定に穴を開けようというある種の全面的なストライキである。彼はそのままプールに飛び込み、プールの底で宇宙飛行士の格好をしてピアノを弾いている子供の頃の自分に遭遇する。彼がエルトン・ジョンとして改名する前のレジナルド・ドワイト(Matthew Illesley)がそこにいる。エルトンは宛先が無くなったあとで、水の底に過去の自分という宛先を見つけたのだ。しかし、それは中断されてしまう。目の前で死にそうな人を助けるのは当然なのだが、ここでは少し意味が違っている。エルトンが子供の時代の自分と心を通わせる前に、アメーバのように身体を歪ませたパーティの参加者たちが彼を助けに来る。それはトルバドールの観客の浮遊と対応しているがこちらは一貫して不気味である。彼は助けられ救急車に乗るが、歌おうとしている。この映画はミュージカル映画だ。誰でも歌う権利がある。彼の母親も父親もバーニーもマネージャーのジョン・リード(リチャード・マッデン)も歌っていた。エルトンは自殺未遂をして、子供時代の自分を発見し自分のために歌おうとしている。けれど、それは救急隊員の酸素マスクで妨害されてしまう。病院にいくと何事もなかったかのように、医者や看護師は彼の身体を持ち上げ彼の自由を優雅に奪いながら、彼をコンサート会場まで運ぶ。彼はいつの間にかステージ衣装に着替えさせられている。彼はステージで『ロケットマン』を歌ったところでその会場をロケットで脱出する。観客は熱狂的な反応(Yes or No)を示してくれるが、彼にはそれだけでは物足りない。

すでに見たように、複雑で幻想に満ちた第一の領域の記号は、機械の出現とともに輝きも響きも失って、工業化され、反復される用具としての記号(操作のための有効な記号)に変質したのだった。(略)劇場の時代、記号とその葛藤、記号の沈黙の空間は終わり、コードのブラック・ボックスがあるばかりだ。問い/答えのシステムによってわれわれを照射し、細胞に書きこまれたわれわれ自身のプログラムによってわれわえをたえずテストする信号を発する分子だけが残ったのである。(略)しかし、コード自体もやはり発生と遺伝のひとつ細胞にすぎず、そこでは無数のコードの交叉が、問いと答えのあらゆる可能な組み合わせをつくりだす。あとは選びさえすればよいのだ(だが、いったい誰が選ぶのか?)(略)遺伝情報コードとはこのようなものなのだ。それは一定不変の溝が刻まれたレコード盤であって、われわれはその溝を解読するための細胞にすぎない。記号のうちに潜んでいたあらゆるアウラ、記号の意味作用そのものが、コードへの書きこみとコード解読の作業のなかにすっかり吸収されてしまったのである。(p138)

象徴交換と死』ボードリヤール

宛先をなくしたエルトンはプールの底で見つけた子供の自分を探しにグループ・セラピーの施設へ行き、物語の冒頭へ戻ってくる。彼は自分に何かを届けたいと思っている。彼は子供の頃に愛してくれなかった父親に代わって、子供時代の自分にハグをする。彼は宛先を見つけたように見えるが、実際は関係が自分の中で閉じてしまっただけで、これだけでは十分ではない。ただの自己愛では彼には足りない。彼は実質的に宛先を探すことを諦めて、中毒患者の更生施設で掃除夫をしている。

参考:(全ては太陽を隠すために 天気の子 - kitlog - 映画の批評

宛先を探して『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』

ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝
(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』予告 - YouTube
……大切なものを守るのと引き換えに僕は、僕の未来を売り払ったんだ。

良家の子女のみが通うことを許される女学校。
父親と「契約」を交わしたイザベラ・ヨークにとって、
白椿が咲き誇る美しいこの場所は牢獄そのもので……。

未来への希望や期待を失っていたイザベラの前に現れたのは、
教育係として雇われたヴァイオレット・エヴァーガーデンだった。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』公式サイト

ベネディクト・ブルーは郵便配達員をしている。彼は街の構造や住所の位置もほとんど覚えてしまっていて、郵便を届けることに少し飽きている。毎日が同じことの繰り返しで特別なことは何もない。彼にあるのはコードの読み取り(宛先を見る)とそれに対する反応(配る)だけである。そんな彼のもとにテイラー・バートレットという孤児院を抜け出してきた少女がやってくる。彼女はここの郵便社で働きたいのだという。昔、ベネディクトがテイラーに届けた手紙が、生き別れになったエイミーからのもので、それを届けてくれたベネディクトに感動し、テイラーは彼を師匠と呼んでいる。その手紙にヴァイオレットの手紙もついていて、彼女を頼ってテイラーはここへ来た。

「これは、あなたを守る魔法の言葉です。エイミー、ただそう唱えて。」エイミーからテイラーへの手紙にはただそう書かれていた。ベネディクトが字を読めないテイラーの代わりにそれを読んだとき、彼は不思議そうな顔をしていた。それは手紙の文章というより、単に宛名に対する差出人が書かれているにすぎないようなものだからだ。それは手紙を開ける前ならそうかもしれない。しかし、手紙が宛先に届いてそれが開けられたあとには言葉は意味が違ってしまう。テイラーはそれを「郵便配達人が運ぶのは幸せだから。」と表現する。

施設にいるエルトンのもとにも垢抜けない格好をした郵便配達人がやってくる。バーニーは彼を訪れて、昔のように詩の書かれた手紙を渡す。封筒の中の記号は宛先に書かれた人物に自分が届くことを、エルトンの曲によって特別なものになることを待っている。彼はそれに答えるように、施設の使われていないピアノに向かい始める。

参考:(僕の言葉は誰かの言葉、君のとき以外は ベイビー・ドライバー - kitlog - 映画の批評
9/10/2020
更新

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