暗黙のリスク管理 バズ・ライトイヤー
有能なスペース・レンジャーのバズは、自分の力を過信したために、 1200人もの乗組員と共に危険な惑星に不時着してしまう。
彼に残された唯一の道は、全員を地球に帰還させること。
猫型の友だちロボットのソックスと共に、不可能なミッションに挑むバズ。
その行く手には、孤独だった彼の人生を変える“かけがえのない絆”と、 思いもよらぬ“敵”が待ち受けていた…
From Disney and Pixar comes an animated sci-fi action-adventure — the definitive origin story of Buzz Lightyear (voice of Chris Evans), the hero who inspired the toy. “Lightyear” follows the legendary space ranger on an intergalactic adventure alongside ambitious recruits, Izzy, Mo and Darby, and his robot companion Sox. As this motley crew embark on their toughest mission yet, they must learn to work as a team to escape the evil Zurg and his dutiful robot army who are never far behind.
Lightyear | Disney Movies
(「バズ・ライトイヤー」日本版本予告 7月1日(金)公開! - YouTube) |
その船一つでどこへ行く
Turnip
The S.C.0.1 spaceship, lovingly referred to as the “Turnip” thanks to its root vegetable-like look, is among the most important sets in the film. Not only does it transport the massive crew and supplies to T’Kani Prime, it serves as a backdrop for much of the film. Says sets supervisor Nathan Fariss, “It was all about scale. We had to make it feel huge as though it could contain 1,200 people. There was a lot of exploratory artwork placing the Turnip next to Pixar or the Space Shuttle to give it a sense of scale. We had to find the right balance of very large shapes and those small enough to show that a human had a hand in it.”
Pixar Animation Studios
(「バズ・ライトイヤー」日本版本予告 7月1日(金)公開! - YouTube) |
一九九五年の国民に対するラジオ演説で、ビル・クリントン大統領はつぎのように述べている。「先週、わたしはあなた方に、わたしの信念を述べました。わたしはつぎのように述べたのです。真の福祉改革は、わたしたちすべてのアメリカ人が共有している価値を反映させるべきだ、と。つまり、勤労、自己責任、そして家族です」。(p12)
福祉政策をめぐる言説において動員されてきた自己責任という考えは、のちほどわたしが論じるように、責任に関する「非難blame」あるいは「過失fault」モデルをとっている。それは、法言説にもっとも典型的で、多くの道徳言説に見られる責任モデルである。責任をこのように捉えるさいのひとつの特徴は、他の人びとの責任を免除するために、特定の行為者に責任を負わせるのを目的としていることである。(p13)
『正義への責任』アイリス・マリオン・ヤング
ストーリーの冒頭からよく理解できないことが起きている。未知の惑星を調査するのに宇宙船が母船ごと着陸したのだ。バズがカプセルから目覚めて宇宙船を着陸させる。調査には上司のアリーシャと新人がついてきている。二人は宇宙船が着陸したことを咎める様子がないので、このプロセスは通常通りの進行なのだろう。上のピクサーの資料によれば宇宙船ターニップは1200人ほどの乗員が収容可能であることから、かなり大きな船である。そして後の展開で明らかになるように燃料の予備がない。かなりの小型の燃料であるにもかかわらず。なぜスペースレンジャーたちはこのことを考慮しないのだろうか。彼らはリスクを勘案せず行き当たりばったりで星間飛行をしているのだろうか。重力のある星に母船が降りるのは着陸や離陸にかなりの危険が伴う。そもそもそこは未知の星である。着陸してからこの星は地盤がゆるいといっていたら手遅れの場合もあるだろう。今回のように、着陸後いきなり未知の生物に襲われることもある。であるならば、まずは母船は宇宙に残して小型の探査船と数名の乗員を派遣して星を調査するのが筋ではないだろうか。搭乗員全員の生命を危険にさらして、未知の星に母船自体が降りる必要があったのだろうか。
バズたち三人の調査隊は調査の途中で、未知の星の大型の虫と植物に襲われ撤退を余儀なくされる。植物が宇宙船に絡まりついて地下に引きづり下ろそうとしている。三人はギリギリのところで植物や虫から逃れて宇宙船に乗り込み、この星から脱出するため離陸する。バズが宇宙船を操縦し、植物や虫を避けながら宇宙に出ようとするが、途中で無理をして崖に衝突し墜落してしまう。宇宙船のエネルギー源のクリスタルが壊れてしまい地球に戻ることができなくなる。
バズはこのことに責任を感じている。未知の星で生き残った隊員たちは、この星からの脱出を考える一方でこの星で生活できるようにインフラの建設に注力した。バズは隊員たちを自分たちの星に返すのだといって、一人で宇宙船のクリスタルの製造実験に参加する。クリスタルはいくつかの物質の配合の割合が適切でないと完全にならないらしく、クリスタルが完璧にできているかは飛行機にクリスタルを搭載して光速に近づくかどうかを実験しないとわからないのだという。内容が危険すぎて、もとのクリスタルもこんな風に作られていたのだろうかと疑問に思う。いきなり母船が未知の星に到着したのと同じで、それ以前の試行錯誤や過去が存在していないかのようだ。上司で友人のアリーシャはクリスタルの製造は危険な任務だが、できるのはバズしかいないといい、バズもそれに同意して実験を開始する。彼は一人で飛行機に乗り、クリスタルの実験を行うことにする。なぜなら、その実験は危険だからだ。まさにこの関係、危険なことと少数で行うこと、リスクを分散することが本来、未知の星に降りる前に常識的に考慮されなければならなかったはずなのだ。しかし、そうはならなかった。その上、そのことが省みられず、ほとんど隠されているかのようになっているがために、バズはリスク回避をしているにもかかわらず、罪責感から何か罪を償うかのように一人で飛行機に乗り込むといった構図になってしまっている。スペースレンジャー全員で実験を行なえば全滅するリスクがあるのでバズが一人で実験をしている。リスク回避という側面が顕在化していれば、頭のいいAIが存在しているにもかかわらず、そもそも有人で実験する必要があるのだろうかといった疑問も湧いてくるだろう。それは、半ば作られた罪責感によってかき消されている。
この失敗のための失敗のような出来事は全く省みられることがない。ストーリーラインがそのことを強制している。バズが自分の責任に憑りつかれているように見えるのもこのためだ。
(その船一つでどこへ行く サッカー日本代表応援CM(キリン) - kitlog - 映画の批評)
(「バズ・ライトイヤー」日本版本予告 7月1日(金)公開! - YouTube) |
強引な過去化
非難に目を向けることが、未来のわたしたちの課題から目を逸らすことになるのだろうか。(……)過去を批判することなく、わたしたちはいったい、いかにして未来へと向かえばいいというのだろうか。すでに起こってしまった善い行いや悪い行いを褒めたり非難したりすることは、子どもに、未来における新しい状況をいかに把握したらよいかを学ばせ、未来において善い行為を求め、悪い行為を避けるための強力な動機を与える。つぎの場面を想像してみよう。子どもが自己中心的なことをするたびに、その親はただつぎのように言うのだ。「これからは、他のひとも公平に扱うんだよ」と。「これからは、違うように振る舞いなさい」と言うのであれば、その子どもは、たったいま、なにか善くないことをしたのだという含みをもっている。あるいは、「あなたはいま、ジョニーをとても不公平に扱ったから、次回はきっと、がんばってかれを公平に扱えるよね」と言うのであれば、責任と罪を結びつけている。しかしそうでなく、この親は、単純に、「これからは、他のひとも公平に扱うんだよ」と言うのだ。この言葉は、子どもに混乱だけを引き起こすメッセージを送っている。その子どもは、本当の意味で、公平さとはなにかを学んでいない。なぜなら、その子は、たったいまどんな不公平なことをしたのか学んでいないからだ。それだけでなくその子は、たったいま、なにか不公平なことをした、ということすら学んでいない。そのために、未来の公平な行為を特定するその子の能力は高められないし、そうした行為をなそうとする動機も強まることがない。(p xxxiii-xxxiv)
マーサ・C・ヌスバウムによる序文『正義への責任』アイリス・マリオン・ヤング
バズが未知の星に降り立ったとき、彼は『トイ・ストーリー』でお馴染みの航星日誌をつけていた。レコーダーに向かってその内容を独りで喋っている時に、アリーシャは「そんなの後で誰も聞かないのに」といってバズが何か無駄なことをしているように言う。この言葉が示すように、この映画はとても過去が薄っぺらい。現在を記録した日誌をつけていれば、将来、過去について振り返ることができるだろう。しかし、この映画は日誌をつけようというキャラクターがいるにも関わらずそれを全くしようとしない。バズの日誌は、この映画で少しも意味をなさない。バズは宇宙船から未知の星に降りた時のことを振り返ることができたはずだが、それもしない。過去を振り返らず、前だけ見て進めとでも言わんばかりに、問題点を見ようとしない。結果バズがひとりで囚人のようにリスクを背負いこむことになる。
(「バズ・ライトイヤー」日本版本予告 7月1日(金)公開! - YouTube) |
そこに、ウラシマ効果が加わる。バズが一回目のクリスタルの出力実験を終えて宇宙から帰ってくると、バズ以外の星の中の時間が四年経過していた。バズが宇宙空間で光速に近いスピードで飛んでいたために時間が遅く進み、その四分間の飛行の間に地上では四年間が経過していた。あまりに非人道的なので他の方法でクリスタルの効果を確認できないのかと思ってしまうが、バズは自分の罪と責任を抱えているためクリスタルが完成するまで延々と実験を繰り返しそのたびに仲間と4年ずつ年の差が生じてしまう。地上の時間が経過する中で、バズは年をとらないままアリーシャは年をとっていき結婚出産子育て等を経て白髪も増え始めついにバズが飛行している間に亡くなってしまう。その間に、この星から脱出を考える人も少なくなり、虫を入れないようにするバリアさえあれば快適だと考える人が増えてくる。こうして、バズが最初にこの星に来て事故を起こしたことは急速に過去に追いやられ、ほとんどどうでもいいものみたいな扱いになってしまう。そのことについて覚えている人がいるかどうかも定かではない。アリーシャと同じように、初期のスペースレンジャーはほとんど亡くなっているだろう。彼の過去は急速な時間経過のために個人的な過去になってしまっている。彼をクリスタルの実験に突き動かしていたものは急速にしぼんで薄っぺらくさせられてしまう。
責任と歴史的不正義についての近年の多くの道徳論や政治理論は、事例中のふたつのカテゴリーを混同する傾向がある。そのふたつとは、不正義の被害者と加害者のうち少なくとも幾人かの人びとがまだ存命中である事例と、被害者と加害者本人たちがみな、何年も前に死んでしまっている事例である。(……)表面上は、個々の被害者や加害者がまだ存命中である場合、責任の帰責モデルを適用することは妥当だ。少なくとも原則として、加害者は選定され、非難され、つまり罪を帰され、また、自分たちのなした不正について被害者そして/あるいは社会に対し、何らかの形で補償させられる。(p315)
『正義への責任』アイリス・マリオン・ヤング
自己責任のマルチバース
チャールズ・メイヤーは言う。「わたしたちは修繕し、思い出す。なぜならわたしたちは戻ることができないからだ」。奴隷制やインディアンの殺戮と強制移住といった不正義に対して、責任の帰責モデルが要請する形での修復的正義は、実現され得ないだろう。それは、遅すぎるのだ。修繕されない過去は取り返しがつかないということは、その過去の事実性に直面する責任を現在のわたしたちに負わせる。国民であれ政治的共同体であれ社会であれ、それが集団的過去――すでに死んだ者たちの歴史ではあるが、自分たちの世代と連続している歴史――をもっている限り、わたしたちには、そうした過去を所与のものとして受けとめる以外の選択肢はない。ある意味では、わたしたちには、その過去に責任はない。わたしたち自身がその不快な行為をなしたのではなく、そうした行為について責められるはずはないとわたしたちが言うのは正当である。またわたしたちの誰も、つとに絶えた過去の不正の直接的な被害者だと主張できない。
しかしながら、歴史的不正義の不変性は、過去の不正義を記憶として扱う現在の責任を生む。わたしたちは現在において、どのように過去を語るかということに責任がある。(p328-329)
『正義への責任』アイリス・マリオン・ヤング
(「バズ・ライトイヤー」日本版本予告 7月1日(金)公開! - YouTube) |
バズはアリーシャが死んで、この星から脱出を目指す人がほとんどいなくなり、新しく統治を始めた次の世代の人々が脱出を望まず妨害をするようになっても実験をつづけた。もはやそれを誰のためにやっているのかよく分からないほどに最初の事故から時間が経過させられている。次の世代の人々はリスク管理に目を瞑る代償として、街にバリアを張って閉じこもっている。それでもアリーシャが残した猫型ロボットのソックスと共に実験を続け、クリスタルの実験に成功する。ここまでで地上の時間で約六十年が経過している。これで不時着した星から脱出するための物質的条件が何とか揃ったのだが、またしてもそれをどうでもいいことであると無視するかのような事件が起きる。バズが最後の実験から帰ってくると、地上は未知のロボットに侵攻されていて、上空にはそれらロボットをコントロールする巨大な戦艦が浮かんでいた。それは『トイストーリー』でバズの敵とされていたザーグの宇宙船なのだが、母艦は宇宙に残りロボットに目的のものの調査、実行をさせているのはリスク管理ができている。それは本来はスペースレンジャーがそうすべきだった方法だ。同時に事故後のバズが自然にそうしていることでもある。バズとザーグだけがリスク管理ができていて似たもののように見えるが、実際ザーグの正体はバズ、未来の年老いたバズである。
マルチバースの作品がマーベルを中心に増えているが、この映画もその一つだろう。マルチバースでは自分たちとほとんど同じだがほんの少し違う世界がいくつもあることが提示される。しかし、結局のところマルチバースで「私」が出会うのは「私」のみである。そこでは自分の中に何かを探すことが求められる。マルチバースで「私」と別の「私」が協力的ならば、別の私は何か運命的なものを指し示すことになる(『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』)。「私」と別の「私」が対立的ならば、それはあり得たかもしれない可能性を示し、その内容によって教育的な対立となったり、敵対的な対立となったりする(『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』)。この映画もマルチバースっぽいが、ザーグの方のバズは年老いているので少し性質が異なる。ただ、ザーグのバズは単純に未来から来たというわけでもなく、時間軸が分岐しているのかもしれないが、そうするとザーグのやっていることはあまり意味がなくなってしまう。いずれにせよ、ここで問題になっているのは、これまでずっとなおざりにされてきたバズが起こした事故についてのことである。
バズが事故についてずっと思い悩んでいたことを分かってくれるのはバズしかいなかった。何が問題か、特にリスク管理の問題を理解しているのは、この映画の中でバズしかいないからだ。しかし、バズはそれを言語化することをストーリー上封じられており、行動で示すことができるだけである。危険なことを全員でやるわけにはいかない。そのために外形的に孤立せざるを得ない。年老いたバズ、ザーグはおそらく事故のことをずっとひとりで後悔している。何が彼をそこまで追い詰めたのだろう。なぜ彼だけがこんなにも責任を感じているのだろうか。宇宙船運用のリスクについてなぜ誰も話そうとしないのだろう。ザーグはクリスタルの力を使って過去に戻り、事故を回避しようとする。バズはそんなことをするとアリーシャの孫であるイジーやここに来るまでに出会った仲間のモーやダービーがいなくなってしまうからと、過去のことは考えずザーグと対立する。ザーグがリスク管理をやめて、自己から六十年が経過した世界全体を危険にさらそうとするのをバズは止めたい。その時、過去のことはバズの頭に無いだろう。相手が極端に振れることで、自分ももう片方の極端に進み、過去についてはまたしても語られなくなってしまう。ただ、ザーグが過去に戻っても過去が分岐するだけな気がするので、対立になっているのかはよく分からない。この不明瞭さも時間や過去に関する薄っぺらさの原因や結果かもしれない。この映画は過去について物語ることを拒否している。
非難を受けるすべてのひとが、必ずしも自己防衛的に反応したり、他人に非難を押し付けようとしたりするわけではない。時に人びとは、自分たちが非難に値し、有罪であり、あるいは過失を犯したということを認めることがある。しかしながら、そういうときですら人びとを集めて、問題についてなにかをさせるという企ては非生産的になり得る。なぜなら、人びとは変化を必要とする諸構造についてよりも、むしろ自分たち自身、自分たちの過去の行為、自分たちの心や性格のあり方に、関心を集中してしまうからである。不正義を生みだし、またはそれを防止しきれなかった責任があると認めるとき、わたしたちは、自白をし、そして自分たちの冷淡さや悪意の兆候について見つめ直すだろう。こうした自己への耽溺からは、社会構造がどのように働き、わたしたちの行為がどうのようにそれに関与し、それを変革するためになにができるのかについて、客観的な議論は生まれないだろう。(p209)
『正義への責任』アイリス・マリオン・ヤング
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