その船一つでどこへ行く サッカー日本代表応援CM(キリン)

CMの舞台は大海原。代表選手やファン・サポーターは勿論、ジャーナリストやカメラマンなど、これまで日本のサッカーを支えてきた全ての人が、巨大な船の船員となり、立ちはだかる大きな荒波を力を合わせて乗り越えていく様子を表現。この演出には「今年サッカー日本代表が直面するであろう苦難を、応援する全員で力を合わせて乗り越えていきたい」というオフィシャルパートナーであるキリンの想いが込められています。

サッカー日本代表の「船出」を壮大に描いたキリンの新CMが公開:時事ドットコム

キリン サッカー CM
(満を持してキャプテン長谷部誠選手登場!!/キリンチャレンジカップ2018 CM - YouTube

サッカーの日本代表戦をテレビで見ていて、ハーフタイムにこのコマーシャルが流れてきた。私は違和感を持った。なぜ選手が全然映らないのだろうと。動画は大きな一つの船に日本代表のサポーター、ファンなどの人々が乗り込み、荒波にもまれて苦労しながらもどこか一つの場所へ目指すというものになっている。選手として出てくるのは長谷部だけだが、それはほとんどユニフォームの背番号が一瞬映るだけというもの。これでは彼らサポーターやファンは何を応援しているのだろうかという疑問がわかないだろうか。応援のために応援していないだろうかと。

サッカー キリン CM
(サッカー日本代表 KIRIN CM - YouTube

キリンの日本代表CMといえば、上の動画が音楽とともにとても印象に残っている。ここでは選手とそのプレーがきちんと映り込みそれに対してファンやサポーターが応援するというバランスが取れているように思う。彼らが何を応援しているのかが見ればわかる。ワールドカップは各国の選手どうしがたたかう大会だ。第一義的には大会で選手たちがアクションを起こし、ファンやサポーターはその選手たちにリアクションを送る。選手が失敗すれば励ましたり文句を言ったりし、成功すれば拍手や歓声で応える。選ばれた23人の中の11人の選手たちがプレーをし、ファンやサポーターが現地の会場やテレビの前でそれを目で追いかけるのだ。それは決してその逆ではない。また、ワールドカップは国別のたたかいとはいえサポーターどうしがたたかうわけではない。それなのにサポーターやファンが全面に出てくるのはどういうわけなのだろう。

新CMのテーマは「サッカーは総力戦だ」。予断を許さない状況でアジア最終予選 – ROAD TO RUSSIAを突破するために、代表選手だけでなく、ファンとサポーターを含めた日本全体で戦っていこうというメッセージを発信しています。

主役はアジア最終予選 – ROAD TO RUSSIAで救世主のように活躍している、日本代表FW原口元気選手。荒野で異形の軍団と戦う原口選手が、ファンの声援で目を覚まし、幻想を振り払って大歓声が沸き起こるグラウンドの中心に立つ、というストーリーを壮大なスケールで描いています。

日本代表の予選突破を信じているから、つくりました!アジア最終予選 – ROAD TO RUSSIA 突破記念ビール『勝利の祝杯』1万名様に当たる!3月23日(木)より始まる新CMには原口元気が登場|キリン株式会社のプレスリリース

キリン サッカー CM
(【CM】キリンサッカーCM 「サッカーは総力戦だ。」私たちの代表篇 (60秒) - YouTube

一つ前のキリンのCMも選手よりもサポーターにスポットがあたっているという印象だった。CMの主役として原口元気選手が出演しているが、彼は何かを迷っている、何かの幻想にとらわれているという設定で、その迷いや幻想をファンが晴らすというつくりになっている。原口選手がプレーしているのは彼の幻想の中だけで、彼はそこで救世主もいないし魔物も女神もいない、代わりにいるのはサポーターだとピッチの上で気づく。ここではファンやサポーターが選手の目を覚ます者として、また救世主や魔物、女神といったプレーに左右するような超越的な力の代わりとして過度に神格化されていないだろうか。そして神格化されれているがゆえに、このCMの続きとしてほとんどサポーターやファンしかいない船のCMが出来上がったのではないか。ここに何か決定的に不可解な謎が含まれてはいないだろうか。

そして先月ハリルホジッチが解任されてしまった。サポーターやファンの神格化は、その頂点にいるJFAに不必要な力を与えてしまったのではないだろうか。彼らはニヒリズムに陥っている。

至るところ諸価値の、価値評価の逆立ちばかりであり、ちょうど小円窓(牛の眼)を通して見る場合のように、狭隘な側面から眺められた物事とか、逆立ちしたイメージばかりなのである。ニーチェの発した雄渾な言葉のうちの一つは、だからこう告げている。「ひとはつねに強い者を、弱い者たちの攻撃から守らなければならない」。(p49)

ニーチェ』ドゥルーズ

試合の勝った負けただけで監督を更迭すると決めているわけではありません。みなさんのご意見があったから、それで決めているだけでもありません。選手や様々な方に意見はもちろん聞きましたが、それで決めるわけではありません。

ただ、マリ戦、そしてウクライナ戦、この試合の期間、後において選手とのコミュニケーションや信頼関係が、多少薄れてきたこと、そして、今までの様々なことを総合的に生かして、この結論に達しました。

【会見詳報】田嶋会長、ハリル氏解任の理由「選手とのコミュニケーションや信頼関係が薄れてきた」 (1/2ページ) - サッカー - SANSPO.COM(サンスポ)

JFAの田嶋会長の曖昧な解任会見のあとで、ハリルホジッチも「真実を日本に探しに来た」と会見を行ったが、((中西哲生コラム)ハリル氏と矛盾、協会に説明義務あり:朝日新聞デジタル)ここにもあるように納得できる説明はいまだになされていない。それどころか、JFAの関係者がハリルホジッチやそのスタッフを嘲笑したり侮蔑するような異常な事態が続いている。彼らは他人を悪魔化しようとしたときに自分が悪魔に見えるということを知らないかのようだ。

ハリルホジッチ氏が再来日した21日。羽田空港での取材で、3年間通訳を務めた樋渡氏が涙を流しながら通訳する姿が、ワイドショーなどでも注目を集めていたが、会見で通訳を務めたのは別の人物だった。これに、司会を務めるタレント、中山秀征(50)が「通訳の人が違うとあんまり感情的な言葉が出てこない」とコメント。北沢氏は「通訳の人もね、仕事がなくなってしまったから大変な思いはあったのかなと」と、ハリルホジッチ氏再来日時に樋渡氏が涙を流した理由を推測した。

北沢豪氏、ハリル氏通訳が号泣したのは「仕事がなくなってしまったから」 - サッカー - SANSPO.COM(サンスポ)

1993年10月28日、後半アディショナルタイムに喫した失点でワールドカップ初出場が幻と化した残酷な瞬間。日本サッカー界の大きなターニングポイントとなった“ドーハの悲劇”から、28日でちょうど24年を迎える。

中東の小国カタールに6カ国が集い、2週間で5試合を戦う過密日程で集中開催されたアメリカW杯アジア最終予選。悲願のW杯初出場に王手を掛けていた日本は、勝てばアメリカ行きが決まるイラクとの最終戦で2-2の引き分けに終わり、天国から地獄へと突き落とされた。6時間の時差があった日本だが、深夜にもかかわらずテレビ中継は高視聴率を叩き出していた。まさに列島全体がショックで声を失い、悔し涙を流し、サッカーの怖さを初めて思い知らされた形となった。

【特別寄稿】“ドーハの悲劇”から丸24年…知られざるカズの涙 | Goal.com

日本サッカーの歴史には、あと一歩のところでワールドカップを逃して悔しい思いをした「ドーハの悲劇」があるが、通訳の方の心情もそれに近いものだったのではないか。彼らはともになぜだかよくわからない理不尽さによって、力を発揮する機会を奪われたのだ。しかし、今回はボールがたまたまゴールに吸い込まれたとかいう偶然のためではなく、JFAが人為的に起こした結果である。それについてなぜ説明をしないのだろうか。なぜ理不尽さを理不尽さのままとっておくのだろうか。もし今回の決定が「ドーハの悲劇」と類似したものであるということがわからないとすれば、その悲劇というワールドカップ予選につけられた装飾も嘘ということにならないだろうか。党派的な意見のために、サッカーの歴史全体を違った目で見ることを要求することにならないだろうか。

日本サッカー協会の田嶋会長がハリルホジッチ氏の会見について言及した。内容は協会スタッフから伝え聞いたという。「彼の気が晴れるならそれでいい。私たちは前に進んでいる」と解決済みを強調。技術委員会が機能していないという指摘には「水掛け論になる。西野さんも頑張っていた」と話すにとどめた。

田嶋会長 ハリル氏会見映像見ず「気が晴れるならそれでいい」― スポニチ Sponichi Annex サッカー

なぜ会長から出てくる発言が気分の問題なのだろうか。なぜハリルホジッチが気分や機嫌によって行動や発言していると思うのだろうか。これは邪推かもしれないが、今回の解任が誰かの気分や機嫌によるものだからではないだろうか。その気分や機嫌が一つの船となって「オールジャパン」と名付けられ、日本サッカーの多くのファンやサポーターを一つの船に載せようとしている。気分や機嫌といったものは今回の不明瞭な解任理由や突然の解任にもあるように変わりやすく理不尽なものだ。それは船をたびたびおそう嵐のようなものだ。なぜそのような説明のできないものに、日本全体を巻き込むのだろうか。JFAは日本サッカーの歴史や感動を毀損し、海外から来たスタッフの信用を損ない次世代の選手の育成にも大きな障害となりうるような決定を何の権利があって、なぜ行うのだろうか。

ダンケルク
(Dunkirk. Home scene - YouTube

船といえば、去年上映された『ダンケルク』(本のない世界で ダンケルク | kitlog)のシーンを思い出す。

第二次世界大戦が本格化する1940年、フランス北端の海の町ダンケルク。フランス軍はイギリス軍とともにドイツ軍に圧倒され、英仏連合軍40万の兵士は、ドーバー海峡を望むこの地に追い詰められる。背後は海。陸海空からの敵襲。そんな逃げ場のない状況下でも、トミー(フィオン・ホワイトヘッド)やアレックス(ハリー・スタイルズ)ら若き兵士たちは生き抜くことを諦めなかった。一方、母国イギリスでは、海を隔てた対岸の仲間たちを助けようと軍艦だけでなく民間船までもが動員され“史上最大の救出作戦”が動き出そうとしていた。ドーバー海峡にいる全船舶が一斉にダンケルクへと向かう。民間船の船長ミスター・ドーソン(マーク・ライランス)も、息子らとともに危険を顧みずダンケルクを目指していた。英空軍パイロット・ファリア(トム・ハーディ)も、数において形勢不利ながらも出撃。タイムリミットが迫るなか、若者たちは生きて帰ることができるのか……。

ダンケルク | 映画-Movie Walker

あらすじにもあるように、『ダンケルク』ではドイツ軍によって包囲されたイギリス・フランス軍の兵士をイギリスの民間人が独自の判断でそれぞれの船を使って助けに行くという様が描かれる。彼らは一つの船に乗って兵士を救いに行くのではない。途中でいくつかの船は転覆してしまったかもしれないが、すべての船ではなく、その結果多くの兵士が助けられた。彼らは一つの船で、一つの船が沈んだら終わりという状況でサポートをしにいったのではないのだ。一つの船が沈んだら他の船がその船の乗組員を助けただろう。彼らは誰かに船に乗せられて助けに行ったのではなく、それぞれの意志でそうしたのだ。サッカーのファンやサポーターもそれぞれの舟に乗るべきだろう。現地で応援したい人、テレビで応援したい人、スポーツバーのようなところで盛り上がりたい人、特定の選手のファン、ビッグプレーやゴラッソが見たい人、元サッカー経験者、漫画からサッカーに興味を持った人、などなどいろいろな人がいるが、それらの人々が、一つの船に乗る必要なはない。それぞれの船でワールドカップに向き合い、応援すればいいのだ。ましてや、誰かの気分や機嫌が反映されているような転覆の危険が迫っている船一つに押し込められるべきではない。もしも気分や機嫌の問題でないのなら、不可解な決断について説明がなされるべきであろう。そうでないなら、船は転覆するしかない。海上で転覆した船の船員はほとんどは戻ってこれないだろう。象徴においても人々の意志を消し去ってはならない。

重要なことは、無意識のうちでドラマが追求される様態である。反動的な諸力が「意志」なしですますことができると主張するようになると、それらの諸力は虚無の深淵のなかへますます深く転がっていく。つまりそれが神聖なものであれ、あるいは人間的ものであれ、とにかく価値というものをますます失った世界のなかへと転がり落ちていくのである。そうして<高位の人間たち>の後には、最後の人間=終末の人間が出現する。「一切は空しい、むしろ受動的に消え去ることだ!虚無への意志よりも意志の虚無だ!」と呟く最後の人間が現れるのである。しかしながら、こういう決裂を発条として、こんどは虚無への意志が反動的な諸力に反逆するようになり、反動的な生それ自身を否定しようとする意志になる。そして人間に、自分自身を能動的に破壊したいという欲望を抱かせるのである。最後の人間を超えた彼方には、だからさらにまだ滅びようと望む人間がいる。そしてニヒリズムが成就するこの地点において(すなわち<真夜中>において)、すべてが準備されている――つまり価値転換への準備がととのうのである。(p55,56)

ニーチェ』ドゥルーズ
10/31/2019
更新

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