ゲームと現実を行き来するパントマイム レディ・プレイヤー1
西暦2045年。貧富の差が激しくなった世界では、人類の歴史を変えたバーチャルネットワークシステム“オアシス”の中に存在する理想郷だけが若者たちの希望となっていた。そこでは、想像したことすべてが現実になり、誰でも何にでもなれたのだ。そんなある日、突如、オアシスに世界へ向けてメッセージが発信される。それは、この仮想世界を開発し、巨万の富を築いたジェームズ・ハリデーの死を伝え、オアシスに隠された謎を解き明かした者にすべての遺産を譲り渡すというものだった。その秘密を巡って幕を開ける激しい争奪戦。荒廃した街で暮らし、オアシスを唯一の居場所としてきた17歳の少年ウェイド(タイ・シェリダン)もその争奪戦に加わる。だが、その過酷なレースを支配しようと、巨大な組織が姿を現す。謎の美女アルテミスや仲間たちとの出会いを経験したウェイドは、果たしてその陰謀を阻止し、仲間と共に世界を守ることはできるのか……。
レディ・プレイヤー1 | 映画-Movie Walker
映画『レディ・プレイヤー1』オフィシャルサイト
(映画『レディ・プレイヤー1』日本版予告【HD】2018年4月20日(金)公開 - YouTube) |
Parzival: Some people can read War and Peace and come away thinking it's a simple adventure story...
Art3mis: Others can read the ingredients on a chewing gum wrapper and unlock the secrets of the universe.
現代における無世界性(worldlessness)の拡大、人間と人間の間にある、ありとあらゆる事柄の衰退は、砂漠の拡がりと言うこともできる。(略)現代心理学は砂漠の心理学である。私たちから判断能力――受苦と断罪の能力――が失われたとき、私たちは、もし砂漠の生活という情況下で生きて行けないとしたら、それは私たち自身に何か問題があるからなのではないかと考え始める。心理学は私たちを「救済」しようとするのだろうが、その意味は、私たちがそうした情況に「順応」するのを心理学が手助けをして、私たちの唯一の希望を、つまり砂漠に生きてはいるが砂漠の民ではない私たちが砂漠を人間的な世界に変えることができるという希望を、奪い去ってしまうということである。心理学はすべてをあべこべにしてしまう。しかしまさに砂漠的情況下で苦しんで生きているからこそ、私たちはいまだに人間であり、いまだに損なわれていないのである。危険なのは、砂漠のほんとうの住人になることであり、その中で居心地良く感じることなのである。(p341,342)
心理学は人間の生活を砂漠に順応させる学問であり、全体主義運動は偽りの、または擬似的な活動が死のような静けさから突然現れる砂嵐であるが、その両者が相俟って、自分自身ではなく砂漠を変容させる力を私たちに授けてくれる二つの人間的能力――情熱と活動が統合された能力――に差し迫った危険をもたらすのだ。(p342)
砂嵐は、それなくしては誰も忍耐=持続することが不可能になる砂漠のオアシスさえも脅かし、他方では心理学が、もはやオアシスの必要性など感じられなくなるほど、私たちを砂漠の生活に順応させようとひたすら努めている。オアシスは、政治的情況とは無関係に――または大凡において無関係に――存在する生命=生活の領域である。うまくゆかなくなったのは政治と私たちの複数的な実存であり、私たちが単独で居る限りにおいて行ったり創ったりできる事柄はそうではない。単独で居るとは、たとえば芸術家の孤立や哲学者の孤独のことであり、恋愛や時として友情の中に存在する本質的に無世界的な人間関係のことである――友情の場合は一方の気持ちが相手の気持ちに世界を飛び越えてダイレクトに届き、恋愛の場合は中間にある空間、つまり世界が燃えて無くなっている。こうしたオアシスが無傷なままに保たれていなければ、私たちは息継ぎのすべもわからなくなるだろうし、政治学者たちはそのことを認識すべきだろう。もし砂漠で生涯を送らざるをえない人が、いつも砂漠の情況を気に掛けながら、あれこれ様々なことをやろうとしているのに、オアシスの使い方も知らないとすれば、彼らは、心理学による救済すらも得られない砂漠の住人になるだろう。言い換えるなら、オアシス――「息抜き」の場所ではなく、私たちが砂漠に甘んじるようにならずに砂漠の中で生きるための活力を与えてくれる源――は干上がってしまうだろう。(p343,344)
『政治の約束』ハンナ・アレント
主人公のウェイドは孤児で「スタック」と呼ばれるトレーラーハウスを縦に積んだ集合住宅が建ち並ぶ町に住んでいる。そこはゴミ溜めのような雰囲気で廃車があちこちで無造作に積まれており、彼はそこを問題解決を諦めた街であると評している。古いものはただ積まれているだけだ。スタックからそう遠くない場所に普通の町もあるのだが、彼らはゲームをやっていてそこから出ないのだろう。ウェイドはアクシデントがあってそこから出たとき「こんなに近くにこんな町があるとは知らなかった」といった。スタックは鉄骨の骨組みの間にトレーラーハウスをどんどん入れていったような形態で、60~70年代の日本のメタボリズムの建築を思わせる。メタボリズムは新陳代謝という意味で、有機体が細胞レベルでつねに生まれ変わり再生していくように都市もその構成要素の更新によって可変性を備えるべきであるという建築の思想や運動のことだ。それが最もわかりやすいのは、銀座の「中銀カプセルタワービル」だ。それは一つ一つの部屋をカプセル=細胞ととらえ、それらを更新、新陳代謝していくことで都市のダイナミズムに適応する、あるいは都市にダイナミズムを与えることを目的としていた。しかし、それを現実に行うのは簡単ではなかった。
東京・銀座のはずれに、風変わりな建造物がある。かつて日本の未来のビジョンを体現していた「中銀カプセルタワービル」だ。
設計者は「メタボリズム」のパイオニア、黒川紀章氏。メタボリズムは1960年代の建築運動で、急速かつ継続的に発展する都市景観の変化に適応し得るようなダイナミックな建物という概念を提示した。
タワービルは洗濯機を積み重ねたような外観だ。鉄筋コンクリート造の2つのタワーと、「取り外し可能」な直方体の部屋から成る。各部屋の床面積は約10平方メートル。工場で製造したものを4つのボルトでタワーに固定している。タワーはそれぞれ11階建てと13階建てになる。カプセルと呼ばれる部屋には、つくり付けの家具や電化製品が完備されており、航空機のトイレと同じ大きさのバスルームもある。
中銀カプセルタワービルは1972年に建設された。黒川氏はこれを新時代の幕開けと位置づけていた。
ところが、中銀カプセルタワービルは決して実現しない理想郷と化した。カプセルは25年ごとに交換される予定だったが、コストが高過ぎると判明。周りには実用的なビルが次々と建てられ、タワービルは今、過去の遺物として存在感を放っている。
保存か? 解体か? 名建築「中銀カプセルタワー」の内部写真21点 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
住宅のユニットを細胞に例えるのは無理があった。住宅設備は細胞のように勝手に剥がれて、勝手に再生してはくれない。それは人為的に入れ替えなければならないが、高所にあるユニットの取り外し、設置、古いユニットの処理などコストがかかり面倒なことだらけである。ウェイドの町はそのようなメタボリズムの理想の失敗の具現化ではないだろうか。そこでは都市の新陳代謝は理想通りに行かず、廃車が積まれたままになっている。アメリカではオイルショックを境に、トレーラーハウスの出荷数が五十万戸から二十万戸まで落ち込んでいる(『「住宅」という考え方』p47)。70年代はローマクラブによって成長の限界が主張されるが、スタックの人々はその限界を文字通り受け止めて順応したような生き方をしているようにみえる。なにしろ問題解決を諦めたのだから。スタックの人々は現実から逃れて「オアシス」と呼ばれるVR型の仮想空間でゲームを楽しんでいる。新陳代謝する有機体としての都市の理想も仮想空間の中に移行する。
そのゲームの開発者ハリデー(マーク・ライランス)が死んで、彼は遺言を残した。ゲームの中に隠れている三つの謎を解けば、オアシスの所有権と遺産を譲るというのだ。ゲームの隠し要素はイースターエッグといわれ、それを探すものはエッグハンター略してガンターと呼ばれている。ウェイドはガンターとしてパーシヴァルという名でゲームプレイをしている。最初の関門はカーレースだ。彼はデロリアンに乗ってクリアを目指すも最後のキングコングのトラップがどうしてもクリアできない。彼はハリデーの記録や思い出のアーカイブからヒントを見つけてそのレースを逆走する。もちろんデロリアンに乗っているのだから、未来に向かって(バック・トゥ・ザ・フューチャー)だ。ウェイドは2045年に成長の限界の70年代に反抗し80年代のポップカルチャーの世界へと突き進む。
「どうして時間を遡ることができないんだろう?」『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンをフルスロットルで逆走させる間際、『レディ・プレイヤー1』の主人公はふと疑問に思う。「本気でアクセルを踏み込んでやる」
映画『レディ・プレイヤー1』レビュー 溢れる80年代ポップカルチャーへの愛 | NewSphere
私は脳はパントマイムの器官であり、しかもパントマイムしかできない器官だと言うでしょう。脳の役割は精神の生を模倣することであり、また、精神が適合しなければならない外的な状況をも模倣することです。精神の活動にとっての脳の活動の関係は、交響曲にとってのオーケストラの指揮者のタクトの運動の関係です。それと同じように、精神の生は脳の生を超えます。しかし脳は、精神の生から、運動のかたちにして演じうるもの、物質化できるものをすべて取り出し、そしてそれによって物質のなかに精神が入り込む点を構成しますから、まさにそのことによって脳は精神が状況に適応することをつねに保証し、精神をたえず現実と接触させておくのです。したがって、正確に言うと脳は思考・感情・意識の器官ではありません。そうではなくて、脳は意識・感情・思考が現実の生活にむけられているようにし、その結果として、効果的な行動ができるようにしているのです。お望みならば、脳は生への注意の器官であると言っておきましょう。(p61)
『精神のエネルギー』ベルクソン
(存在しないものへの感情移入 ジュラシックワールド | kitlog)や(二つの木馬、映画の世界 ブレードランナー 2049 | kitlog)で見えないものや存在しないものについて検討した。それらを存在しているように見せかけるのは、人間や物のパントマイムによってである。『レディ・プレイヤー1』では現実の世界とゲームの世界が分かれている。「本を掴む」という行為をする場合、現実の世界では本が対象としてありそれを見て手を伸ばし掴む。ゲームの世界でも本があり、それを見て手を伸ばし掴む。しかしこの場合、ゲームの世界と現実の世界は二重化されており、それぞれ存在していて現実の世界はゲームの世界に従ってパントマイムを行っている状態になる。現実の世界では本がないがそれを見るフリをして本を掴むフリをしているように見えるだけだ。ゲームの世界を基準にした場合、現実にいる人間は上のベルクソンの引用に照らせば脳だけの存在だ。そしてハリデーは絶えず「君は脳だけの存在でいいのか」と自分の人生と照らしてプレイヤーに問いかけてくる。
ハリデーはオアシスの記者向けの発表会でそのコンセプトを述べたあとで「実際に皆でやってみよう」といい、VRのゴーグルを手にして「皆さんの椅子の下に同じものが…」というと記者たちは一斉に椅子の下に顔を向け手探りを始める。ハリデーはそれを見て、軽く笑みを浮かべながら「冗談だ、これから配るんだ、ゴーグルはここにあるんだ」といって得意気になっている。ここでは、ハリデーの命令に従って記者がパントマイムをさせられている。椅子の下にないゴーグルに手を伸ばすのはパントマイムではなくて何だろうか。そして、それこそがハリデーの作ったVRゲームなのだ。彼は仮想空間を使って命令を下し、人々にパントマイムをさせているのだ。この人々が一斉に腰をかがめて下を向くパントマイムと同じことが、ゲーム内で人が一斉に死んだときに現実の世界で皆が一斉に倒れるというパントマイムで反復されている。オアシスの経営権を得るために人海戦術で軍隊のようにプレイヤーをオアシスに送り込んでいるIOIという企業がある。そこではゲームの攻略を考える頭脳班と何千、何万という頭脳班に従って攻略を実際に行うプレイヤー群が分かれている。体育館ほどの広さの空間にプレイヤー用のポッド(ゴーグルと触覚スーツのセット)が整然と並べられ、ポッドはプレイヤーが生きていれば白く光り、ゲーム内で死ねば赤く光る。赤く光ったポッドからはプレイヤーがどかされ、別のプレイヤーが補充される。オアシスの中ではプレイヤーが死ぬとそのアカウントのアイテムや経験値がゼロになってしまうため、おそらく他の人に変わっている間にレベル上げなどをやり直すことになるのだろう。このポッドが白くなったり赤くなったりということが、ゲームに現実性を与えている。
もし思想または理念の実在性が本当に本物であるならば、思想自身とは別の或るものがそれに加わらなければならない。あるいは、実現された思想としての思想は、実現されない思想、単なる思想としての思想とは別のものでなければならない。すなわち、たんに思考の対象であるだけでなく、また思考でないものの対象でもなければならない。思想が自分を実現するとは、まさにそれが自分を否定すること、すなわち単なる思想であることをやめることである。では、この思考でないもの、思考から区別されたものはいったい何であろうか。感性的なものである。したがって、思想が自分を実現するとは、それが感覚諸器官の対象になるということである。だから、理念の実在性は感性である。(p67)
『将来の哲学の根本命題』フォイエルバッハ
同じようにゲームもそれが実在性を持つためには、現実を引用してこなくてはならない(これはこのブログで映画について書く理由でもある)。この映画において、ゲームは現実の否定であるし、現実はゲームの否定であることは冒頭において説明された。スタックの住人は現実を諦めてゲームをしているのだと。しかし、だからこそゲームがゲーム内で現実性を持つには反ゲームとしての現実を引用してこなくてはならない。IOIのポッドの表現はそのためにある。ゲーム内でアルテミスがレールガンを撃ち、直線上の敵をすべて全滅させると、現実の方でもきれいに並べられた多くのポッドが一列直線上に赤く染まる。チャッキーがランダムに兵士を襲えば、ポッドの光はランダムに赤く染まる。この表現自体も現実に起こっていることだが実際に人が死んでいるわけではなく、図式的でリアリティに欠けるもののように見える。しかし、以前のシーンでウェイドが手に入れたVRスーツがゲーム内で触れられたところに触覚と変色(優しければ白、痛くなるほど赤)するという触覚と結びついた表現が、ポッドの図式的表現の前座のようなものとなっており、リアリティを強化している。皮膚感覚とVRスーツの変色、ゲーム内の死とポッドの変色が相似形になって、ゲーム内の死が皮膚感覚のように伝達される。
現実の方もゲームによって規定される。オアシスには視覚、聴覚と触覚は感じるが、嗅覚、味覚は感じることはできない。キャラクターのメインのビジュアルを見ても口や鼻には機械がついていない。おそらくそのために、ハリデーは現実では美味しいものが食べられることを尊く思い、また映画内においてキスが重要視されている。開発の初期段階、VRが視聴覚しか持たなかったときには、ハリデーがデートにダンスをしに行く代わりに映画(視聴覚メディア)を見に行ったことが非難されている。
感覚においてのみ、愛においてのみ、「このもの」――この人、この事物――すなわち個別的なものは、絶対的価値をもち、有限なものは無限なものである。ここに、そしてここにのみ、愛の無限の深さと神性と真理があるのである。愛においてのみ、髪の毛を数える神は真理であり実在である。キリスト教の神は、それ自身、たんに人間的な愛からの一つの抽象にすぎず、たんにその似姿にすぎない。しかし、まさに「このもの」は愛のうちでのみ絶対的価値があるのだから、存在の秘密はまた、抽象的思考のうちでではなく、ただ愛のうちでのみ開かれる。愛は情熱であり、しかも情熱だけが生存のしるしである。現実のものであろうと、可能なものであろうと、情熱の対象であるものだけが存在する。感覚も情熱もない抽象的思考は、存在と非存在の区別を廃棄するが、しかし、思想にとってはないに等しいこの区別は、愛にとっては一つの実在である。愛するとは、この区別に気づくことにほかならない。その対象が何であろうと、何も愛さない人にとっては、或るものが存在するかしないかは全くどうでもいいことである。しかし、存在は愛によってのみ、感覚一般によってのみ、非存在と区別されて私に与えられるように、或る対象もまた愛によってのみ、私と区別されて私に与えられるのである。(p70,71)
『将来の哲学の根本命題』フォイエルバッハ
第二の関門で主人公たちはハリデーがデートで見た映画『シャイニング』の中に閉じ込められる。『シャイニング』の双子に声をかけられて、ウェイドの仲間のエイチは赤い液体にさらわれてしまう。逃れた237号室で裸の女性が彼(リアルでは女性だが)を誘惑し取り込もうとする。エイチが誘惑に屈しそうになると、その裸の女性はみるみる老けていきゾンビになると襲いかかってくる。ここではプレイヤーをフィクションに閉じ込めようとするトリガーは対称性を持った双子だった。物語の最後、ゲームがクリアされたあとでその対称性は破れる。ウェイドはゲームにおいても現実においてもクリアを妨害してくるIOIに対抗するために、ゲームの中でも現実においても団結を呼びかけた。そこはもう問題解決を諦めたスタックではない。そこではゲームにおいて強制(それがそう意識されないものであれ)するパントマイムとは、全く違うかたちで人々が動いている。そこでは現実と虚構が結び合わされている。ハリデーはそれを見届けてウェイドに感謝を述べる。そしてオアシスの核となっている原体験の場、彼の子供の頃の遊び場の屋根裏部屋から、老人となったハリデーと子供のままのハリデーは並んで立ち去っていく。それは人々をフィクションに閉じ込める『シャイニング』の対称性を破っている。
9/10/2020
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