そしてヴィランは不可視になった インクレディブル・ファミリー

悪と戦い、人々を守ってきたヒーローたち。だが、その驚異的なパワーに非難の声が高まり、彼らはその活動を禁じられていた------。

そんなある日、かつてヒーロー界のスターだったボブとその家族のもとに、復活をかけたミッションが舞い込む。だがミッションを任されたのは――なんと妻のヘレンだった!留守を預かることになった伝説の元ヒーロー、ボブは、慣れない家事・育児に悪戦苦闘。しかも、赤ちゃんジャック・ジャックの驚きのスーパーパワーが覚醒し・・・。

一方、ミッション遂行中のヘレンは“ある事件”と遭遇する。そこには、全世界を恐怖に陥れる陰謀が!ヘレンの身にも危険が迫る!果たして、ボブたちヒーロー家族と世界の運命は!?

作品情報|インクレディブル・ファミリー|ディズニー公式

インクレディブル・ファミリー
(Incredibles 2 Official Trailer - YouTube

前作『ミスター・インクレディブル』(以下『ミスター』)のエンディングの直後から『インクレディブル・ファミリー』(以下『ファミリー』)は始まる。ビルのように巨大なドリルとともにアンダーマイナーが出現し、都市を破壊しながら銀行強盗を企む。偶然その場に居合わせた、ボブたち家族はその企みを防ごうと仮面をかぶってドリルに立ち向かうのだが、結局アンダーマイナーは強盗に成功しまんまと逃げてしまう。それでも彼らは暴走したドリルによる被害を最小限に食い止めようとし、なんとか市役所の一歩手前でそれを停止させることに成功する。成功したように見えたのだが、市民や警察はボブたちの行為を認めず、「何もしなければもっと被害は小さかった」「彼らは都市を破壊しただけだ」「銀行は保険に入っていたのだから金だけ盗ませればよかった」などといった理由で糾弾する。まるで、ヴィラン(敵)がやりたい放題でも構わないといったような言い草だが、この映画では責められるのはヒーローばかりであり、ヴィランは責められないということが通底している。逃げていったアンダーマイナーは、地下の最も深く誰もそれを見ることのできないところで何のお咎めも受けることがない。

誰よりも深い地底に棲む。超巨大掘削ドリルに乗って地中から出現し、道路を破壊したり街の人々を危険な目にあわせたりとやりたい放題。

アンダーマイナー|インクレディブル・ファミリー|ディズニー公式

今回の件で非公式のヒーロー活動を許す保護プログラム(ヒーロー活動での損害や人々の記憶を秘密裏に処理する)にも予算が下りなくなり、ボブたちは完全にヒーロー活動ができなくなってしまった。ボブとヘレンはまた昔のように普通の仕事をしなければならないと相談しあっていたが、そこにデブテックというIT会社から声がかかる。社長のウィンストン・デヴァーと妹でエンジニアのエヴリン・デヴァーは「市民がちゃんとヒーロー活動を見ていないから、被害の結果だけを見てヒーローを責める」のだといって、ヒーロースーツにボディカメラをつけてヒーローが街を危機から救う過程をすべて見てもらい、市民を説得しようという。そうすれば、15年前に制定された「ヒーロー禁止法」も見直しの動きが出てくるだろうと。兄のウィンストンの方は純粋に世界にはヒーローが必要で、現在のヒーローを責める風潮をどうにかしたいと思っている。しかし、妹のエヴリンの方は表向きは「ヒーロー禁止法」見直しに賛成していたが、ヒーローに不信を抱いていた。その彼女が今回のヴィランである。彼女は「ヒーロー禁止法」の見直しの流れを作ったあとで、それに賛同する世界中のヒーローや政治家をパーティーに招き一箇所に集めて皆殺しにするつもりだった。同時に、その皆殺しの方法には「ヒーロー禁止法」撤廃で自由になったヒーローが暴走したためという演出が彼女によって加えられ、ヒーロー不信を世界中にばらまこうとしている。彼女が兄に協力するのはあくまでヒーローたちを集めるためである。

彼ら兄妹の考え方の違いは過去に対する捉え方の違いから来ている。彼らの父もヒーローに出資していたのだが、ある日ヴィランに襲われ殺されてしまう。彼は誰かが家に侵入してきたことを察知したところで、ヒーローに助けを求めて電話をかけたのだが、助けが来る前に受話器を持ったまま銃で撃たれてしまった。その事件を経て、妹の方は「ヒーローなんかに頼るべきではなかった。自分でできることがあったはずだ。ヒーローに頼るから人は弱くなってしまう。」とヒーローを信じられなくなった。兄の方はそれでもヒーローは世界に必要だと思っていた。それは最後に父が頼った(もしかしたら祈った)のがヒーローだったからかもしれないし、何よりヒーローは何人もの人をヴィランから助けた実績がある。この父が死んだ彼らの思い出のシーンでは銃を撃ったヴィランの顔が伏せられている。ヴィランが見えないようにされているが、この件で確実に悪いのは助けに間に合わなかったヒーローではなく、襲ってきたヴィランなのだ。殺したほうが悪い。兄は悪いやつがいるからヒーローが必要だとシンプルに考えている。しかし、妹の方はヴィランが見えていないのではないだろうか。なぜヴィランをどうにかする前に、世界中のヒーローを全滅させなければならないのだろうか。ヒーローがいなくなった世界でオープニングに出てきたようなドリルは誰が止めるのだろう。



ヒーローが責められるというのは『ミスター』でも同じだった。しかし、『ミスター』の方のヴィラン、シンドロームはヒーローをまだ信じていた。『ミスター』と『ファミリー』の敵はともにエンジニアだ。彼はインクレディブルの熱狂的なファンで自作の装備でインクレディブルになりきりヒーローになろうとしたが、インクレディブルは彼を認めなかった。そのことでシンドロームはインクレディブルたちヒーローに不信を抱き、恨み、15年をかけて天才科学者に成長し、自分が彼らに代わって真のヒーローになろうとした。彼は誰も倒せない人工知能兵器を作ることで、危機を演出し、皆が見ている前でその兵器を楽に解体し認められようとした。本気かどうかわからないが、そのあとで自分の装備を売り、それを買うだけで皆がヒーローになれるようにしたいとも語っていた。皆がヒーローになれば、誰もヒーローではなくなるからだという。彼は最終的にヒーローの価値を下げようとはしたものの、自分がヒーローになろうとしたことから、ここではまだ目標としてヒーローが信じられていた。フロゾンがハニーに「ヒーロー活動と私とのディナー、どっちが大事なの?」と尋ねられたとしても、ボブが保険屋時代、困っている客に手続きの裏技を教えて上司に疎まれ、客を助けないよう説教されたとしても、ヒーローは信じられていた。何を言われても何をされても、彼らには何をすべきかがわかっていたからである。

しかし、『ファミリー』の方はそうはいかない。なぜなら、最大の「敵」はボブが経験することになる子育てだからだ。インクレディブルの力を使って楽に子育てをできるということはありえない。子育てはパンチをして何かを破壊したり、強大な力で何かを持ち上げたりすることではないからだ。だからボブが自分で「どうしたらいいかわからない」といってしまう。彼は、三人の子供を家で見守りながら一睡もできずに打ちのめされてしまう。ダッシュは数学を教えてというのだが、自分が習った頃と解き方がずいぶん変わってしまっていて、自分のやり方が通用しない。ヴァイオレットは思春期で恋愛の悩みを抱えており、しかも保護プログラムの適用で彼女の好きなトニーの記憶が消えてしまっていることもあって、それを何とかしようと思うのだが、空回りをして逆に娘から嫌われてしまう。ジャックジャックはヒーローの能力に目覚めてしまい、分裂したり炎になったり目からレーザーを放ったり異次元にワープしたりと予測が不可能で休ませてくれない。ボブはそんな三人を前にして途方に暮れる。『ミスター』の時も自分の無力さを告白することはあったが、それはどうすればいいかわかっており、家族で協力すれば対処できるものだった。その時にボブに求められているのはヒーローとしての自分の力だったから分かりやすかった。けれど、子育てでボブに求められているのはインクレディブルとしての能力ではまったくない。それはコミュニケーション(言語活動)を必要とする。彼は初心者同然になってしまった。

それはエヴリンに対しても同じだった。彼女が抱いているヒーロー不信はインクレディブルの力によって対処できるような対象ではない。彼が力を見せつけただけではどうにもならない。それは他のヒーローの能力を持ってしても同じだろう。体が伸びたら、足が速かったらエヴリンを救えるのだろうか。結局彼らは彼女を救う方法が分からなかったのだ。そして彼女を警察に引き渡すしかなかった。それは子育てに失敗して養護施設に預けざるをえなくなった親のようなものではないだろうか。彼女のニヒリズムはどうやったら解除できたのだろうか。それは『デッドプール2』のような自己犠牲だろうか(映画における無責任と俳優の人格 デッドプール2 | kitlog)。あるいは、最初にウィンストンが市民向けに提案したように「ヒーローをしっかり見ること」だろうか。あるいはエヴリンの方を誰かがしっかり見ること(父の死のシーンは曖昧だった)だろうか(見えなかった娘の歌いたくなかった歌 新感染 ファイナル・エクスプレス | kitlog)。少なくとも彼ら兄妹の考え方の違いは、その父の記憶の違いによるのだと思うのだが、それは秘密で不可視で暗闇のままにされている。

ガダマーの解釈学および存在論が向かっていたのは反対の方向にであった。存在が言語活動によって銜えこまれているのではなく、我々の言語活動こそが存在によって捉えられているのである。というのも言語活動とはまず存在それ自体の「光」なのであるから。(略)

ニーチェはガダマーの思想にとって実は味方ではなく、存在を思惟あるいは意志にとってそれが意味するものへと縮減する近・現代思想の唯名論を絶頂にまで導いた人なのである。言語はもはや主体の一つの道具にすぎないというのである。すべてが主体に依存するというそのような文脈においては、客観的な真実も拘束力を有する価値も存在しないことは明らかである。けれども、この価値と真実の不在は、ガダマーの見るところでは、意味の与え手である主観性が無ければ意味も秩序もない、と考える近・現代思想の枠組みの内部にとどまる限りでしか存在し得ない。ところで、形なき世界、意味を欠くと一挙に見なされる世界を前にしているという至高の主体、まさにこの考え方を我々は解釈学によって問題化することができる。こうして解釈学は、我々が存在を再発見すし虚無主義を克服するのを助けてくれるのである。(p142、143)

解釈学』ジャン・グロンダン

ここで言われている”光”はスクリーンスレイヴァーの発する光とは別のものである。われわれはスクリーンが発する光を言語活動を通して別の光に変容させる、新しい光を発することができる。それはいつかエヴリンの秘密に、存在に届くかもしれない。
9/10/2020
更新

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