映画における無責任と俳優の人格 デッドプール2
最愛の恋人ヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)を取り戻し、お気楽な日々を過ごすデッドプール(ライアン・レイノルズ)。そんな彼の前に未来から来たマッチョな機械人間ケーブル(ジョシュ・ブローリン)が現れ、謎の力を秘めた少年の命を狙う。ヴァネッサの希望もあり少年を守ることにしたデッドプールは、ケーブルに立ち向かうため、仲間を集めることに。特殊能力を持つ者たちとスペシャルチーム『エックス・フォース』を結成するが……。
デッドプール2 | 映画-Movie Walker
(映画『デッドプール2』予告編 最強鬼やば Ver. - YouTube) |
続編をより“ビッグ”なものにしようとする欲求は素晴らしくコントロールされており、スーパーヒーロー映画にしては珍しく、登場人物たちが直面する危機は実にささいなものである。ウェイドは世界ではなく、ただ自分自身だけを救いたいのだ。そのため、映画の筋書きは極めて簡潔に要約することができる。大半の上映時間において、ウェイドは面白おかしさ満載のストーリーに放り出されている。最初の1時間、彼は世界中を駆け巡ってあらゆる国籍の悪いヤツをやっつけて、自殺未遂をして、バーで放尿して、自分のマンションで麻薬中毒に戻って、非常識な量のコカインを摂取して、コロッサスと一緒にたむろしている。
デッドプール2 - 映画レビュー - Deadpool 2 Review
全世界待望の続編『デッドプール2』では、あの無責任ヒーローが、未来からやってきたマッチョな“マシーン人間”ケーブルとの出会いで、友情やファミリーの絆を大事にする”良いヒーロー”にまさかの大変身?を遂げて、最強鬼ヤバチーム“Xフォース”を結成する!
映画『デッドプール2』公式サイト
前作では無責任ヒーローだと喧伝されていた『デッドプール』だが、今回はデッドプール自身の言葉で『デッドプール2』は家族映画なのだということが語られる。家族とは何かというのはとても難しい問題だが、無責任ヒーローが家族を語るときそれは他人の人生にも責任を持つことということになるだろう。要するに無責任の看板をおろすということだ。彼がそのような考えの転換に至った理由は恋人が死んでしまったことだ。デッドプールは世界中の悪い奴らをやっつけていたが、その後自宅に戻ったところで復讐の襲撃にあい、その戦闘のさなかに流れ弾が恋人のヴァネッサを貫通してしまう。彼らは、これから家族をつくろう、息子だったら名前は何にしよう、娘だったらこうしよう、その名前はダサいやめてと明るい未来を描いている最中だった。デッドプールは悲しみの中、恋人を撃った犯人を追いかけ、彼を抱きしめて一緒に大型トラックに突っ込み轢かれる。彼は死ぬつもりだった。しかし彼は死ねなかった。そこで彼は自分のアパートに揮発性の高いガソリン入りのドラム缶を並べて自爆することを試みる。ドラム缶に火を入れるとそれはたちまち空気中に燃え広がり爆発し、デッドプールの身体はバラバラになってしまう。このバラバラになった身体のシーンは二回繰り返されるが、この映画で最も重要なシーンの一つである。それは彼が何らかの責任を引き受ける象徴的なイメージなのだ。死後のアパートでただの良心と化したようなヴァネッサが「心を正しい場所に」というのはそれを言語化したに過ぎない。
依然として決定的なことは、演技が一つの機械装置にたいして――あるいはトーキーの場合、二つの機械装置にたいして――なされる、という事実なのだ。「映画俳優は」、とピランデルロは書いている、「自分が追放されているように感ずる。舞台からだけでなく、かれ自身の人格からも。かれの肉体が欠損して現象することから生ずる説明のしようのない空虚感のために、かれはなんとなく不快になる。なにしろかれ自身は揮発してしまうのだ。彼のリアリティーも生命も、かれの声も身動きにともなう物音も、すべて奪い取られて、かれは沈黙した一個の映像となり、一瞬スクリーンの上で慄えたあと、音もなく消えてゆく。……かれの影を公衆の前で演技させるのは小さな機械装置であって、かれ自身は、その装置の前で演技することで満足するほかはない」。同じ事態は、つぎのように特徴づけられることもできよう。人間は初めて、かれの生きた全人格をもってではあるにせよ、しかし人格のアウラを断念して、活動せざるを得ない状態に立ち至った、と。これこそ映画の働きである。(p86,87 『複製技術時代の芸術作品』)
『ボードレール』ベンヤミン
映画撮影において俳優の”演技は一貫して続けられることがまったくなくて、多くの短い演技の切れはしから構成される。スタジオを借りる都合や相手役の都合、さらには舞台装置などの偶然的な諸要素を考慮することと相俟って、映画制作のメカニズムは基本的かつ必然的に、俳優の演技を一連のモンタージュ可能なエピソードの数かずに分解させなくてはならない。(同書p88)”俳優の身体は映画製作の多くの都合によってフィルム上で身体をバラバラにさせられる。様々な都合でフィルムの細切れになることを受け入れる。それがデッドプールのガソリン爆発身体バラバラ自殺なのだ。彼は人格を断念する。無責任をやめようとする。そう映画において人格を維持し続けることは無責任なのだ。レオナルド・ディカプリオが『タイタニック』の演技を『レヴェナント』でやろうとしたらおそらく無責任だろう。そうやって彼は多くの他のものの都合を考えること=責任をもつことをバラバラ自殺によって宣言しようとしている。『タイタニック』と『レヴェナント』は違う都合でできているのだから、バラバラでなければならない。自殺は単なる彼の悲しみや悔いの表現ではないのだ。多くのものの都合を考慮する、それがすなわち家族という言葉で言い表されていることである。そうすることで映画はつくられている。デッドプールは爆発自殺を試み失敗して回復してしまい身体はまた一つになってしまうが、コロッサスに助けられてX-MENに入らないかと誘いを受け、コロッサスの心を正しく使えという言葉がヴァネッサのそれと共鳴し彼はX-MENの見習いになる。そこから彼はいい人になろうとして、子供を助けたり、差別はだめだと注意してみたり、仲間をつくろうとする。それは彼らしくないことだが、彼らしい要素は幾分かは残っている。ここからはじまるのは大いなる迷走である。
他の都合を考える、家族をつくるという意味では象徴的なのはピーター(ロブ・ディレイニー)の存在だろう。彼はデッドプールの最強鬼ヤバチームX-Forceに入るための面接に来たのだが、デッドプールに「なにか能力は?」と聞かれて「何も、ただ求人広告を見て…」となにかに困っているような顔をすると、デッドプールは即「採用」といって彼を受け入れる。ピーターはただの中年のおじさんだ。彼はこれからの作戦の何に役に立つのかさっぱり不明だが、家族というものが認められるとして、何かに役に立つ立たないで受け入れを決めるということがあるだろうか。
そしてデッドプールは最後に自己犠牲を見せる。死ぬことのできない彼が体を張って何かをするというのはほとんど不可能なのだが、それをやってのける。炎放つことができるミュータントのラッセル(ジュリアン・デニソン)はミュータント児童養護施設で虐待を受けており、復讐をしようとしている。その復讐がきっかけで彼は将来殺人鬼になってしまう。それを止めるために未来からケーブルがやってきて、彼を殺して未来を変えようとする。彼の家族はラッセルに殺されていた。デッドプールは説得すればなんとかなるといって、ケーブルの作戦を阻止しようとする。しかし言葉で説得しようとしてもうまくいかない。デッドプールは自分が犠牲になることで、ラッセルのことが大切なのだと示そうとする。問題は彼が不死身なことだ。そこで彼はミュータントの能力を止める首輪をはめる。それで彼は普通の癌患者になったが、それは彼の完全な自己否定、人格の否定だ。しかしそれはラッセルのために必要なことだし、あの世のヴァネッサが望んでいることだ、仕方がない。家族(映画撮影)のためなのだ。ケーブルはラッセルに向かって銃を放つ。望んだスローモーションの中で死にゆく身体のデッドプールはその弾丸を受け止めラッセルの身代わりになる。そしてラッセルは改心するのだ。ラッセルが改心するとケーブルの未来も救われた。デッドプールは死んだが、ケーブルが未来に帰るためのタイムトラベルをデッドプールのために使い救われた。そして皆が救われて家族になったのだ。
問題はここからだ。すでに本編が終わってエンドロールそしてまた映像が流れる。デッドプールはケーブルが使い果たしてしまったタイムトラベルの道具を修理して、過去に戻り始める。彼はヴァネッサが死ぬ前に戻り、彼女が死なない選択をする。そうするとどうなるか、その後彼は自殺はしないだろう。身体はバラバラの細切れになることはない。彼は過去にヴァネッサを守りに行くのだが、それは同時に彼の人格を守ることなのだ。彼はバラバラにはならない。家族映画は存在したことになっているのか存在しなかったことになっているのかわからなくなった。彼は人格を守り、それは一つである。だからこそ、デッドプールはライアン・レイノルズが過去に失敗した『グリーンランタン』への出演を無責任にも止めに行くことができるのだ。
映画において重要なことは、俳優が公衆にたいして他人を演じてみせることよりもずっと以上に、俳優が機構にたいして自己自身を演じてみせることである。この実験的営為によって俳優がどのように変わるかを、最初に感じとったひとりが、ピランデルロだった。(p86『複製技術時代の芸術作品』)
『ボードレール』ベンヤミン
9/10/2020
更新
コメント