考古学の擁護 インディ・ジョーンズと運命のダイヤル
(「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」本予告編【インディが人生をかけて探し求めた秘宝“運命のダイヤル”とは…】6月30日 全世界同時公開! - YouTube) |
政教分離のヒーロー
第2次世界大戦前夜の1936年を舞台に、旧約聖書に記されている十戒が刻まれた石板が収められ、神秘の力を宿しているという契約の箱(=聖櫃)を巡って、ナチスドイツとアメリカの考古学者インディ・ジョーンズ(ハリソン・フォード)が争奪戦を展開する。
レイダース 失われたアーク《聖櫃》 : 作品情報 - 映画.com
『レイダース 失われたアーク《聖櫃》 』の冒頭、インディは南アメリカの罠だらけの洞窟で黄金の像を見つける。その像は台座にのっており、何か仕掛けがある。彼は事前に用意した砂袋の量を調整したあとで、黄金の像と砂を一瞬で入れ替える。罠の仕掛けがすり替えが起こったことを感知しなければ何も起こらないはずだが、うまくいかず台座の部屋が崩れ始め全ての罠が作動してしまう。インディは罠から放たれる矢をかわし、同行者の裏切りを乗り越え、転がって背後に迫ってくる大岩を避けて、洞窟から脱出する。洞窟を出るとすぐ、ライバルの同業者があらわれ、インディはそれを横取りされてしまう。
(INDIANA JONES AND THE RAIDERS OF THE LOST ARK | Official Trailer | Paramount Movies - YouTube) |
序盤から中身の濃いアクションが展開されるが、ここで見逃せないのはインディが砂を金に替えたことだ。映画の中で「安物の時計も砂漠に埋めて千年経てば考古学的お宝になる」というようなセリフがあるが、砂と金のすり替えはそのプロセスを圧縮しようとしたものだろう。価値のないと思われているものを価値のあるものに一瞬で置き換える。もちろん序盤のこのシーンではそれは失敗し、洞窟は崩れてしまうから、最初のすり替えは成功しているとは言えない。けれど、これから映画の中でそうしようとすることを、すり替えのシーンは宣言している。砂(多くのシーンが砂漠で撮られている)を金に替えるのだと。発掘のプロセス自体が、何もないと思われているところに何か価値のあるものを探す試みである。しかし、最後に聖櫃から出てくるのも砂である。モーセの石板が入っているとされた金の箱から砂が出てくる。砂は何もないことをあらわしているが、聖櫃の中に霊も封印されていてそれらが出てくる。そして箱を開けたドイツ軍の兵士や考古学者を死なせてしまう。ここでは砂が死と一瞬で置き換えられている。箱の中に何もないと思ったのに皆死んでしまった。しかし、本当は何もなかったわけではなく、「安物の時計を砂漠に埋めて千年経てばお宝になる」の話に従えば、その中には千年の時間があったことになる。ドイツ軍を襲ってきたのは千年の時間であり、誰も千年も生きられない。
政治組織について言えば、信じるという実践の場として、しだいに政治は教会にとって代わっていったが、その変遷をとおして政治組織の場には、権力と宗教とのあいだの非常に古く(キリスト教以前の)しかもきわめて「異教的」な結びつきが再帰してきて、以来たえずこの結びつきにうごかされているように思われる。すべてはあたかも、宗教的なものが自律的権力(「教権」と呼ばれていたものであった)ではなくなり、かわりに政治が宗教的なものになってしまっているかのように事が運んでいるのである。キリスト教は、可視的な信仰対象(政治的権力)と不可視の対象(神々、霊、等々)とが交わりを結んでいるところにひとつの断絶をもうけるはたらきをした。(p415)
『日常的実践のポイエティーク』ミシェル・ド・セルトー
インディの敵はいつもではないが、ナチスである。1作目と3作目の『最後の聖戦』、今回の5作目はナチスが敵になっている。映画の中のナチスの目的は霊的、宗教的でかつ実際的な力がある宝物を得て、戦争や統治に利用することだ。要は政治と宗教の一致、政治と宗教の力を共に使い世界の征服を目指している。インディの狙いはそれを阻止すること、つまり、政治と宗教を分離することだ。それは政治の課題を宗教的な運命に見立てることの拒否である。インディがピンチに陥って「もうだめだ」という状況になっても、彼は決まって何か逆転の糸口をつかんで、お決まりの「タッタラタータタター♪」の音楽が流れる。インディがほとんど運命的な閉塞状況を乗り越えるように、政治と宗教の運命論を拒否している。
ナチズムが当時の諸問題にたいする必然的な回答であるとするならば、もはや個人は、〈時代精神〉の高揚を、つまり、抗いがたい衝動の中で個人的意志と合理的認識とをなす術もないままに押し流すヘーゲル的ないしシュペングラー〔オスヴァルト。『西洋の没落』の著者〕的な世界精神の盲目的運動を、黙ったまま甘受するほかなくなるのである。
しかし、そのことは実際には、事態の外見上の流れを規定する、隠れた事物の道理の存在を暗黙ないし明示的に信じていることを前提とする。したがってそれは、政治的なるもののレヴェルの完全な過小評価であり、また、マルクス主義者たちの抱く経済的不可避論から、より神秘的な、しかしやはり実質的な不可避論への置き換えなのだ。(p167)
『ナチズムの美学』ソール・フリードレンダー
ベトナム戦争の欠如
(インディ・ジョーンズと運命のダイヤル|映画|ディズニー公式)考古学者で冒険家のインディ・ジョーンズの前にヘレナという女性が現れ、インディが若き日に発見した伝説の秘宝「運命のダイヤル」の話を持ち掛ける。それは人類の歴史を変える力を持つとされる究極の秘宝であり、その「運命のダイヤル」を巡ってインディは、因縁の宿敵である元ナチスの科学者フォラーを相手に、全世界を股にかけた争奪戦を繰り広げることとなる。
インディ・ジョーンズと運命のダイヤル : 作品情報 - 映画.com
(「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」本予告編【インディが人生をかけて探し求めた秘宝“運命のダイヤル”とは…】6月30日 全世界同時公開! - YouTube) |
ナチスが敵というのは変わりないのだが『運命のダイヤル』では、これまでの二作と大きく違っている部分がある。それは、戦場が舞台になっていることだ。『失われたアーク』でも『最後の聖戦』でも、ドイツ軍とインディが対峙する場所は戦場から離れた場所だった。宝物が直近の戦場に保存されていることはなく、インディの行くところは戦場から離れた発掘現場であり図書館であり、それら戦争から脇に逸れたところで、ドイツ軍と宝物やその手掛かりの奪い合いをしていた。『運命のダイヤル』ではインディが一九四四年にナチスとロンギヌスの槍を奪い合うところから始まるが、その奪い合いの現場は戦場である。宝物はナチスの列車で運ばれ、インディもそこに乗り込むが、途中で連合国軍の空爆が行われる。その混乱に乗じてインディは脱出するのだが、このような場面は今までなかった。今まではインディ対ナチスの宝物探しのための小軍隊のような形で、『最後の聖戦』で戦車が登場してもそこは戦場ではなく、どこかコメディタッチだったが、『運命のダイヤル』では爆弾が容赦なく降り注ぎ、壊れた機関銃は誰の意思とも関係なく列車を破壊する。そこはまるでインディ・ジョーンズがいないかのような空間である。彼には何の配慮もなされていない。ただナチスと連合国軍が戦っている場にインディが放り込まれている。
ロンギヌスの槍が偽物と判明し、インディは代わりにアルキメデスが発明したとされる秘宝「アンティキティラのダイヤル」をナチスの科学者ユルゲン・フォラー(マッツ・ミケルセン)から奪う。インディはダイヤルを持ち帰り、時間が進んで一九六九年、フォラーが表の顔はアポロ計画の科学者としてダイヤルを奪い返しに来る。
一九六九年はインディにとってつらい時代である。かつてのように講義を開いて満席になったり研究室に学生が押しかけてきたりするようなこともない。アポロ計画という自然科学や物理学、数学の成果を前にして、考古学は後景に退いているように見える。皆が未来を見ていて、インディだけが過去を見ている。インディは年老いてしまい、定年退職で大学も辞める。インディや考古学はもう必要なくなってしまったのだろうか。残念ながら、この映画はその疑問についてまともに答えることはできていないように思う。なぜなら、その疑問にインディ自身が最後に気づき、その後映画の中でその疑問に答える時間は残されていないからである。
(「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」本予告編【インディが人生をかけて探し求めた秘宝“運命のダイヤル”とは…】6月30日 全世界同時公開! - YouTube) |
インディは考古学は必要なくなってしまったのか。その問いの答えにインディが最後に気づいたのは戦争に関することである。フォラーはダイヤルで第二次大戦時にタイムスリップしヒトラーに成り代わる予定だったが、ダイヤルはフォラーやインディたちを紀元前、アルキメデスが生きていた時代のシュラクサイ包囲戦に放り込む。戦争の真っ只中でフォラーやインディが乗る飛行機は巨大な銛のようなものを撃ち込まれ戦場に墜落させられる。インディはシュラクサイ包囲戦の戦場で「ここに残りたい」という。ヘレナはインディをパンチして気絶させ、強引に現代に連れて帰る。これはアポロ計画の成功などで皆が未来を見つめる中で、時代に反して過去にとどまろうとするインディを表しているのだろうか。もはや考古学に興味を示さなくなった時代に嫌気がさして、自分の興味のある骨董品が動いている時代に骨を埋めようということなのか。一つ重要なのは、ありえないタイムスリップをして時間と場所も分からないどこかに飛ばされたにもかかわらず、インディがそれをシュラクサイと認識したことだろう。その時代と場所の文化や歴史に精通していなければ、そのようなことはできない。そして、おそらくだがそのことが一九六九年に欠けていたことなのだ。
コンピューター技術の着実な進歩により、複雑な問題に数学的アプローチを適用することがより現実的になっていた。それまでは経済学ですら、理数系的色彩よりも文系的色彩が強い学問分野にとどまっていたが、ここへきて定量分析が説得力と信頼性をもった手法へと発展した。(p301)
こうした新しいアプローチにおいて重要な役割を果たしたのは、主にランド研究所の人々だった。フォード・モーター・カンパニー勤務時代に定量分析導入の先駆者となった国防長官ロバート・マクナマラが、国防総省でこれらの人々を指揮した。マクナマラは軍の予算と計画が正当化できるものかどうか徹底的に洗い出し、軍部に対抗した。(中略)ランド研究所から引き抜かれ、国防総省でのマクナマラの右腕となったチャールズ・ヒッチは、一九六〇年に同僚の一人と共同執筆した著書でこう述べた。「基本的にすべての軍事問題は、ある側面からみれば、資源の効率的な配分と利用という経済学的な問題とみなされる」。マクナマラはデータを要求し、選択の対象となる計画の費用と便益を評価する最良の方法は定量分析だと主張した。(中略)やがて、マクナマラの手法が戦争、とりわけベトナム戦争のような複雑な政治的背景をもつ戦争を戦うのに不適切であることが明々白々となった。(p304)
新兵器の調達などの点に関する国防総省の意思決定に改善がみられた一方で、経済学を戦略的に応用することによる成果には限界があった。経済学者は自分たちの理論の妨げとなる政治的配慮に関心がもてず、また我慢もならなかった。外交や軍事史、そして現代政治に疎いことよりも懸念すべきは、「それらの欠如が戦略的洞察力にとっていかに重い意味をもつか」をまったく認識していない点だった。経済学者が適用する理論構造は、他の社会科学を「技術的に未発達で知的価値がない」ものとして見下す風潮を生みだした。(p306)
『戦略の世界史 上』ローレンス・フリードマン
この映画の中でインディが最も心を動かし表情に出したのは、息子がベトナム戦争で戦死したことをヘレナに告白するシーンだ。インディは息子が戦地に行くのを止められなかったことを後悔し、そのことがきっかけで妻ともうまくいかなくなってしまった。おそらく一九六九年のインディを物語る上で最も重要な要素であるにもかかわらず、映画のなかではベトナム戦争の話題は中心にならない。一九六九年にシーンが移ってから、アポロ計画のパレードのと同時にベトナム戦争反対のデモも行われているが、その運動はシーンとして弱い。映画のなかでの対立は科学対歴史、アポロ計画対考古学者の老人、未来対過去、フォラー対インディが中心であり、おそらく実質的には科学の勝利が色濃く出ているが、その間違った二項対立がベトナム戦争を覆い隠してしまっている。そこでは科学と同時に、それがシュラクサイ包囲戦だと認識できるような洞察力が必要だった。上の引用ではそれが欠けていたとされている。つまりベトナム戦争にはインディ・ジョーンズが欠けていた。映画はインディをベトナム戦争に関わらせることがない。もしそうすれば、ベトナム戦争の結末が変わってもおかしくはない。フォラーの願望がその可能性を見せているし、フォラーのそれと違って一九六九年は、まだベトナム戦争が続いている。そうさせない物語的な抑圧がインディを悲しませている。冒頭一九四四年の戦争と最後の紀元前の戦争の間に描かれる過去作を踏襲したような冒険のシーンは、ベトナム戦争の覆いを厚くしているだけでインディと関係があるように見えない。それは単に欠如の表現のように見える。この映画はその覆いや欠如をただ運命として、それに最後に気づくのみになっている。一九四四年にインディが戦争に放り込まれたのと同じように、彼は一九六九年の時代の雰囲気に単に放り込まれている。
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