命の価値は--all you need is killから
アーチーが死ぬのは、未来を描いた「Life With Archie」の第36話。死亡は4月に発表されていたが、どのように死ぬかは明らかにされていなかった。出版元アーチー・コミックのジョン・ゴールドウォーター共同最高経営責任者(CEO)によると、アーチーは「個人的見解」を理由に狙われた友人ケビン・ケラーを守って、自らが銃弾を受けるという。
ゴールドウォーター氏はアーチーの死について「悲しくはない。感動を与えるものだ」とコメント。「アーチーが銃弾を受けることは、受け入れることのメタファーだ」と述べた。
米コミック「アーチー」、主人公の死は感動与えるもの=出版社 | エンタテインメント | Reuters
桜坂洋のSFライトノベル「All You Need Is Kill」(集英社スーパーダッシュ文庫刊)を、トム・クルーズ主演でハリウッド実写化。「ギタイ」と呼ばれる謎の侵略者と人類の戦いが続く近未来を舞台に、同じ時間を何度も繰り返すはめになった兵士が、幾度もの死を経験し、成長していく姿を描く。戦闘に対して逃げ腰な軍の広報担当官ウィリアム・ケイジ少佐は、戦闘経験が全くないにもかかわらず最前線に送り込まれてしまい、あえなく戦死。しかし、死んだはずのケイジが意識を取り戻すと、周囲の時間は戦闘が始まる前に戻っていた。再び戦死するとまた同じ時間に巻き戻り、不可解なタイムループから抜け出せなくなったケイジは、同様にタイムループの経験を持つ軍最強の女性兵士リタ・ヴラタスキに訓練を施され、次第に戦士として成長していく。戦いと死を何度も繰り返し、経験を積んで戦闘技術を磨きあげていくケイジは、やがてギタイを滅ぼす方法の糸口をつかみはじめる。
オール・ユー・ニード・イズ・キル : 作品情報 - 映画.com
桜坂洋のライトノベル「All You Need Is Kill」を原作にしつつも、ライマン監督は映画版では主人公の年齢をはじめとするいくつかの設定を変更しており、中盤以降の展開はほぼ映画オリジナルといってもよいものになっている。過去にロバート・ラドラムの「暗殺者」を『ボーン・アイデンティティー』として映画化しているライマン監督は同作を例に挙げて、「映画製作者は原作本からインスピレーションを受けて、(原作を)映画として再構築する。僕が何より大事にしたのは、原作の中にある最も人間的なテーマだ」と語ると、「話の筋をいじったのは、原作のテーマを最も良い形で表現するためだ」と明かした。
(中略)
本作には、戦争物には似つかわしくないようなユーモアもふんだんに盛り込まれている。「最悪なシチュエーションほど、ユーモアが生きると僕は考えてる」と持論を展開したライマン監督は、とりわけトム・クルーズを絶賛。「これほどコメディの才能があるとは思ってなかった。アクション俳優じゃなくて、コメディ俳優になればよかったのに」とジョークを飛ばしていた。
日本のラノベを映画化!でもストーリーが全く違う?監督が理由を明かす - シネマトゥデイ
14日に見てきました。物語のゲーム性についてはよく言われます。今回こういうふうに映像作品になってみると、上で監督もそのユーモア性に触れていますが、子供の頃に友達がスーパーマリオをプレイしているのを見てる体験に近いと思いました。「ちょ、そこで落ちるのかよ」「ダッシュしすぎ」とかツッコんで笑える感じの。
もし事件が絶えずその自らの行程に注意深くありえていたならば、奇遇もなければ、めぐり合いもなく、どうどうめぐりもないであろう。すべてが前へ前へと展開してどこまでも進歩してゆくことであろう。そして、もし人たちがいつも生に対して注意深くあったとしたならば、もし我々がいつも他人とまた我々自身と絶えず接触を保っていたならば、決して我々の中にばねや繰り糸によって出来するように見えるものは何にもないであろう。おかしみは人が物に似てくる人のもつあの面であり、全く特殊な一種のこわばりによって、ピンからキリまでの機械仕掛け、自動現象、つまり生のない運動を真似する人間的出来事のあの様相である。だから、それは焦眉の矯正を促す個人的あるいは集団的の不完全性を現わすものである。笑いはこの矯正そのものである。
『笑い』ベルクソン p84-85
映画を見て気になった点は、やはり自爆のシーンでしょう。トム・クルーズ演じるケイジは、とある命令違反でメディア広報から急遽戦争の最前線に立たされることなりますが、その最初の戦闘でアルファと呼ばれるギタイの血を浴びて時間のループに閉じ込められることになります。銃のセキュリティを外す方法もわからない中、アルファに追い詰められて取った行動が対人地雷を自分で押す自爆でした。
その後ループに入ってからは自殺することはありましたが自爆することはなかったように思います。そして、最後ループの力を失ってオメガに対峙した時もケイジのとった行動は手榴弾を抱えてオメガに体当りする自爆でした。オメガもこの行動は読めなかったのでしょう。ケイジはループの中で一度も自爆をしなかったのですから。
ループしてるのが自分一人というのは基本的にマリオの一人プレイと同じで、自爆しても意味がありません。クッパが現れた!捨て身で踏みつけに行くぞ!ボムを抱えて突進だ!などと意気込んでみても自分が死んだらクリアできないのです。まずは自分が生き残るしかない。また、ループの力が失われる条件が中途半端な負傷による輸血という設定で、クリアできないとわかったら自殺なり何なりして即死ぬしかないのです。これはとても厳しい世界です。適者生存という言葉がありますが、この場合は何か所与の世界に対してほとんど完璧に適合できなければ生き残れない。ぬるく生存してることは許されないのです(ギタイがテムズ川を渡ってやってきます)。
途中ほとんど偶然のような形でループの力が失われます。ここでようやくゲームは一人プレイから協力プレイに開放されます。自分は足を負傷しており、弾薬など装備の数も足りない。そうするとできる事は限られてくるんですね。しかも逃げることはできないと分かっている。ルーブル美術館敷地内で二人が囮になり、弾切れになったところで自爆をします。自分が死んでも時間は続いていって、J分隊の他のメンバーが作戦を続けてくれることを信じているからです。自分が死んだ時点で世界が終わってしまうなら、そんな事は全く意味はありません、でもそうではないのです。それはオメガに対峙したケイジもわかっていたと思います。ラストのハッピーエンドは偶然にすぎないでしょう。
もちろん自爆あるいは自爆テロのようなものを推奨しようというのではありません。「アーチーが銃弾を受けることは、受け入れることのメタファーだ」をもじるなら「自爆することは、自己の変容そして協力のメタファーだ」でしょうか。
9/10/2020
更新
コメント