意識の二重化から二つの意識へ プロメア
世界大炎上
世界の半分が焼失したその未曽有の事態の引き金となったのは、突然変異で誕生した炎を操る人種〈バーニッシュ〉だった。あれから30年、〈バーニッシュ〉の一部攻撃的な面々は〈マッドバーニッシュ〉を名乗り、再び世界に襲いかかる。〈マッドバーニッシュ〉が引き起こす火災を鎮火すべく、自治共和国プロメポリスの司政官クレイ・フォーサイトは、対バーニッシュ用の高機動救命消防隊〈バーニングレスキュー〉を結成した。高層ビルの大火災の中、燃える火消し魂を持つ新人隊員ガロ・ティモスは、〈マッドバーニッシュ〉のリーダーで、指名手配中の炎上テロリスト、リオ・フォーティアと出会い、激しくぶつかり合う。リオを捕らえることに成功し、クレイからその功績を認められ ―― ガロにとってクレイは幼き頃、命を救ってくれた恩人で憧れのヒーロー ―― 誇らしげに喜ぶガロであった。
しかし、リオは〈マッドバーニッシュ〉の幹部であるゲーラ、メイスと共に捕らえられていた〈バーニッシュ〉を引き連れて脱走する。後を追ったガロが彼らのアジトにたどり着くも、そこで目にしたものは、懸命に生きる〈バーニッシュ〉たちの姿であった。そして、リオから〈バーニッシュ〉をめぐる衝撃の真実を告げられることに。
何が正しいのか――。
そんな折、ガロたちは地球規模で進められている“ある計画”の存在を知ることになる―
ABOUT | 映画『プロメア』公式サイト 5/24(金)全国ロードショー
(映画『プロメア』本予告 制作:TRIGGER 5月24日〈金〉全国公開 - YouTube) |
『キングダム』のバカと『プロメア』のバカ
『キングダム』では戦災孤児で奴隷になった子供が、剣の修行をすれば奴隷の立場から抜け出せて出世もできると信じて、それを延々と積み重ね、その努力がやがて歴史の進行と重なってくることのスリルに要点がある。主人公は観客と同じように、その映画の中の世界観をほとんど知らないものであるのだが、彼なりに「要はこういうことなんだろ」ということができる。彼はその状況で人々が欲しているものが分かるのだ。それが可能なのは、彼の積み重ねと物語の進行が一致しているからだろう。
ずっと以前から、貴族とブルジョア階級とは、あらゆる公共的生活から排除されていて、公共的生活についてはこのような特別の無経験な状態に陥っていた。このことについては、われわれは驚くに当らないことである。けれども、それよりも驚いたことには、公務を指導した人々、すなわち、大臣たちや司法官たちや知事たちも、将来のことについては殆ど先見の明をもっていなかったということである。けれども、これらの公務員たちは、自分たちの職務については極めて有能な人々であった。彼等は、当時の公共的行政の全詳細に精通していた。けれども、社会の一般的な動きを理解したり、大衆の精神に起こっていることを判断したり、これらのものから結果することを予見したりすることを教える偉大な政治学については、彼等は人民自身と全く同様に素人であった。(p329,330)
『アンシャンレジームと革命』トクヴィル
一方、『プロメア』においては主人公の公務員・消防士ガロの火消しは物語の運命と一致していない。そのために、彼は「俺の火消し魂に火がつくぜ」といったような矛盾して両端に引き裂かれたようなことを言わざるを得ない。それはもう一人の主人公で身体から炎を発するバーニッシュのリオも同じことである。彼はテロリストではあるが人は殺さないという。彼等はジレンマを抱えていることになるが、それは彼等の行為が物語を救うことと一致していないからである。そして、この映画では世界の救済は運によってもたらされる。運によって彼等はやるべきことを理解する。それまでずっと世界のルールが分からないまま彼等は戦っているという状態が描かれていたわけだが、それがつまり不完全燃焼ということなのだろう。それは世界の仕組みを知る者を排除して、その劣化した人物が世界を支配するというディストピアである。不完全燃焼は『グレンラガン』と比べるとキャラクターや機械に燃え跡や焦げなどの描線が足りないこととしてあらわれている。
第二次世界大戦後、マイネッケは、過去四十年間に亙るドイツの不幸を偶然の連鎖――カイザーの虚栄心、ヒンデンブルクがヴァイマル共和国の大統領に選出されたこと、ヒトラーの偏執狂的性格などなど――に帰しておりますが、これは自国の不運にうちひしがれて偉大な歴史家の精神が破産したことを物語るものであります。歴史的事件の絶頂でなく、その谷底を進んで行く集団や国民にあっては、歴史におけるチャンスや偶然を強調する理論が優勢になるものです。試験の成績なんか宝籤のようなものさ、という見解は、いつも劣等生諸君の間で人気を博するものであります。(p147,148)
あることを不運として描くのは、その原因を究めるという面倒な義務を免れようとする時に好んで用いられる方法であります。誰かが、歴史は偶然の連鎖です、と私に向かって語ったといたしますと、私は、この人が知的に怠惰なのか、知的生命力が弱いのかと思うでしょう。(p150)
『歴史とは何か』E.H.カー
Firefist: [trying to get the collar off of Deadpool's neck] We need a code.
Domino: Try, uh... seven?
Deadpool: Settle down, Captain Lucky, it's not gonna be one number.
[Firefist presses the number 7 and unlocks the collar]
Deadpool: God, that's lazy writing.
『デッドプール2』
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:(奴隷と主人のショートカット キングダム | kitlog)
宇宙が狭すぎる
(映画『プロメア』エンディング主題歌PV ※一部ネタバレ映像含みます。 制作:TRIGGER 大ヒット上映中 - YouTube) |
『ドラえもん のび太の宝島』でもノアの箱舟のモチーフがでてきたが、これも地球を犠牲にしてそこから脱出するというつくりになっていた。『プロメア』ではそれが少し複雑になっている。地球の崩壊があと半年に迫っていて、フォーサイト財団のクレイは一万人だけを収容できる宇宙船をつくって地球から脱出しようと言うのだが、その脱出のための燃料がバーニッシュと呼ばれる突然変異で炎を出せるようになった人間なのだ。バーニッシュの大規模な燃料化は虐待行為だが、その虐待行為から来るバーニッシュの怒りがそのまま地球のプロメアと呼ばれる炎の生命体とリンクしている。つまり、クレイは地球が崩壊しようとしているから、バーニッシュを燃料化して地球を脱出しようと言うのだが、その燃料化の試みそのものが地球の崩壊の引き金になっている。地球を脱出して人々を幾らか救おうと思うと地球が崩壊する仕組みになっている。ここにもひどいジレンマがある。
『ドラえもん のび太の宝島』ではノアの箱舟を作った敵が「自分だけ良ければいいの?」と非難されていた。それを使えば地球が崩壊してしまうのだからそういってしまうのも仕方がないだろう。しかしなぜ地球脱出として描かれているもののコストがなぜこんなにも高いのだろうか。『ドリーム(原題:Hidden Figures)』では差別されている黒人女性たちが自分たちの権利を得ようとしていたが、そのことも「自分だけ良ければいいの?」と非難されたかもしれない。しかし、彼女たちのうちの一人が自由を得ることで、今まで彼女を差別していた何人かの人は自由(それは他人を奴隷扱いする自由だが)を失うかもしれないが、その代わりに同じ属性で差別されていた数え切れないほど多くの人が彼女と同じ自由と権利を享受することができる。『プロメア』ではそのような自由を得ることも、なぜか地球を崩壊することと天秤にかけられているような世界観にみえる。一人が自由になればそれに続いて数多くの人々の自由がもたらされるといったようなことは考えられておらず、「そんなことをすると地球が崩壊するからやめてくれ、自分だけ良ければいいのか」と違う意味で暑苦しい。その結果、平行世界などの壮大な設定を扱っておりながら宇宙観がこじんまりしているようにみえる。
チェスタトン氏は『異端者』と称するあのすばらしい論文集の序文に次のような言葉を記している。「およそ一個の人間に関してもっとも実際的で重大なことは、なんといってもその人の抱いている宇宙観である、という考えをもっているものが世間にはいく人かいるが、私もその一人である。われわれの考えるところでは、下宿屋の女将が下宿人の品定めをする場合、下宿人の収入を知ることは重要なことではあるが、それにもまして重要なのは彼の哲学を知ることである。まさに敵と矛を交えようとする将軍にとって、敵の勢力を知ることは重要ではあるが、しかし敵の哲学を知ることの方がよりいっそう重大なことであるとわれわれは考える。おもうに問題は、宇宙に関する理解がものごとに影響を与えるか否かということではなくて、つづまるところそれ以外にものごとに影響を及ぼすようなものが果して存在するかどうかということなのである。」(p9)
『プラグマティズム』W. ジェイムズ
関連:(検算と正義 Hidden Figures(邦題:ドリーム) | kitlog)
ジレンマという不幸な意識、ただ話せばいいだけ
(映画『プロメア』本予告 制作:TRIGGER 5月24日〈金〉全国公開 - YouTube) |
こうした意識のおしゃべりはじっさいには、強情な若者どうしの口論めいたものである。つまり、他方がBと言えば、一方はAと言い、片方がAと言おうものなら、こんどはBと言うのだ。かれらとしては、自己自身と矛盾していることで、たがいに矛盾したままでありつづけるという歓喜を贖っているのである。(p335)
ストア主義にあって、自己意識とはじぶん自身が単純に自由であることだ。懐疑主義においてこの自由が実現され、規定されて現にあるものというもう一方の側面が否定されるが、かくてしかし自由はむしろみずからを二重化して、いまやじぶんにとって二重のものとなる。そのことをつうじて二重化は――これは以前なら、主人と奴隷というふたつの個別的なものに割りあてられていたものである――ひとつのもののうちに立ちかえっているのである。自己意識がこのようにじぶん自身のうちで二重化することは、精神の概念にあって本質的なことがらである。そのような二重化がいまやここであらわれているとはいえ、二重化したものはいまだ統一されているわけではない。かくして「不幸な意識」こそが、二重化された、ひとえに矛盾のうちにある実在としてみずからを意識する意識となるだろう。(p335,336)
『精神現象学(上)』ヘーゲル
物語の最後になってプロメアと意思疎通できることが描かれる。それがこの世界の危機の解決の糸口になる。それまではバーニッシュの中で人間の部分とプロメアの部分とで意識が二重化していた。それ故に「人を殺さないテロリスト」といったような引き裂かれて矛盾したように自分を形容せざるを得なかったのだ。まずは「人を殺さない」というところと「テロリスト」というところを切り離さないといけない。そして両者を対話可能にすることだ。ただそれだけで、解決策があらわれる。一人の中で意識が二重化するのを避けて、それを奴隷と主人といったような二つの人格に分ける。そうすればそれらは対話可能になり世界のルールの開示が可能になるだろう。
11/17/2020
更新
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