奴隷と主人のショートカット キングダム
紀元前 255 年。春秋戦国時代の中華・西方の国・秦。戦災孤児の信(山崎賢人)と漂(吉沢亮)は、天下の大将軍を夢見て、日々剣術に励んでいた。そんなある日、漂は王都の大臣・昌文君(高嶋政宏)によって召し上げられ、王宮へ。信と漂は別々の道を歩むこととなる。だが、王宮では王の弟・成(本郷奏多)によるクーデターが勃発。戦いで致命傷を負った漂は、何とか信のいる納屋に辿り着き、“お前に頼みたいことがある”と告げる。血まみれの手に握られていたのは、ある丘に建つ小屋を示す地図だった。“今すぐそこへ行け”と言い残して力尽きる漂。泣き叫びながらも、信は漂が手にしていた剣と地図を握りしめ、走り出す。そして辿り着いた場所で信の目に飛び込んできたのは、冷静に佇む漂の姿。だがそれは、玉座を奪われ、王都を追われた秦の若き王・エイ政(吉沢亮:二役)だった。
キングダム | 映画-Movie Walker
竹林の敵
信とエイ政は山の民の末裔、河了貂(橋本環奈)を連れて、昌文君と落ち合う予定の地に向かっていた。道中の竹林で成キョウ(本郷奏多)の刺客ムタ(橋本じゅん)があらわれる。ムタは毒矢で遠距離から攻撃し、近距離では両手に斧と鎧にぶら下がった刃物とでトリッキーな動きをして、信たちに立ちふさがる。毒矢だけなら何とかなると思って近づく信だが、手斧を使った素早い攻撃と回転する鎧での攻撃のためになかなか手が出せない。信が打開策を見出せないのは、ムタの身体能力のためだけではない。ムタは映画を見ているととても素早くみえる。それは身体的なものではなくて映画的なものである。ムタは竹林の影に体の一部を隠したかと思うと、それまで自分の前方にいたのに次のカットではすぐ横にいる。ムタはホラー映画のように気がつくと横にいたりして、カットとカットの間をワープして襲ってくるのだ。エイ政は信とムタの戦いを見て、信に「下がるな!」という。信は「俺はビビッてたのか」と戦いに関してある自覚を持ち、それから攻勢を仕掛ける。
信は毒矢にビビッていたのだろうか。それともトリッキーな動きにビビッていたのだろうか。それらもあるかもしれないが、もっと大きな恐怖は敵が身体的な運動ではなく映画的な運動をしてくることではないか。カットとカットの間を瞬間移動してその間の身体的な運動が不可能にもかかわらず、そんなことにはお構いなく攻撃してくる。エイ政の「下がるな!」そのような映画的なショートカットを恐れるなということではないだろうか。何しろ彼らが行なおうとしていることは王座の間への大胆なショートカットなのだから。
抜け道の行方、自由の行方
(映画『キングダム』特報 - YouTube) |
物理法則であれ、社会法則であれ、道徳法則であれ、どんな法則も彼らの目には命令と映る。…ある一定の一般性にまで達した物理法則がわれわれの想像力にとって命令の形を取るのに対して、万人に向けられる強制的要請は逆に、いささか自然の法則のようなものとしてわれわれには現れる。これら二つの観念はわれわれの精神のうちで出会い、そこで一種の交換を行う。法則は命令からその強制的な性格を手に入れ、命令は法則からその不可避性という性格を受け取るのだ。社会秩序への違反はこうして反自然的な性格を帯びる。つまり、たとえ違反が頻繁に繰り返されるとしても、違反は、自然にとっての怪物のごとく、社会にとっての一つの例外としての効果をわれわれに及ぼすのである。(p12,13)
『道徳と宗教の二つの源泉』アンリ・ベルクソン
抜け道は『スター・ウォーズ』と『ハン・ソロ』のについて考えたとき(ワープの行方、自由の行方 ハン・ソロ | kitlog)のワープと似たような効果を発揮している。それはつまり法則からの自由、法則を装った命令からの自由である。この映画では抜け道を使うことが二回出てくる。一つ目は成キョウが派遣した多数の追っ手から逃れるために、河了貂が知っていた抜け道を使う。二つ目は山の民と手を組んだ後に王座に最短距離で行くための道だ。それらは両方とも信、エイ政と彼らの目的である成キョウとの間にいる人々と衝突しないでやり過ごすためのものだ。彼らには他の人々とのいざこざで消耗しているような時間はないが、成キョウとしては彼らを阻止するか王座に来るのをなるべく遅らせたいと思っている。成キョウが憎んでいるものは王族とそれ以外のものとの交流だからだ。
成キョウがクーデターを起こして、エイ政を抹殺しようとしたのは、エイ政が王族と平民との間に生まれた子であり、その血筋が王にふさわしくないと思ったからだ。彼は同時に成り上がりの兵士も拒否する。成キョウは自身の率いる八万の部隊に対して、低い身分から勉学や剣術の修行で成上がり都で良い暮らしをしているという兵士の一人を皆に紹介するふりをして、彼をその場で殺してしまう。その兵士は自分の生き方を皆に発表しようとしたところで、怪物のような処刑人につぶされてしまう。成キョウはそのよう成上がりや、低い身分のものとの交流をまったく拒否している。それは自分の地位が脅かされる可能性を潰すためだろう。信たちが、王宮内をショートカットして王座に向かうときに、それを阻もうとするのもその成上がりの兵士を殺した処刑人である。そして、最後に信たちを阻む左慈は完全な現実主義者で「分をわきまえろ」、現状維持で今の状態を受け入れろ、何も変えるなという。王族が王族だけで王族のための政治を行うことの何が悪いのだというわけだ。彼は一度将軍の地位から落ちて諦めているか、臆病になっている。
彼らは慣行の軌道から一歩も出ることができないのであって、彼らの経済は数百年にわたってまったく変化せず、変化するとしても外部からの強制や干渉によっているにすぎない。なぜであろうか。新しい方法の選択は自明なことがらではなく、それ自身合理的経済行為という概念に含まれた要素ではないからである。(p212)
『経済発展の理論(上)』シュムペーター
(映画『キングダム』予告 - YouTube) |
ショートカットと「死者蘇生」
慣行の領域の外に出ることはつねに困難をともない、新しい要因を含むのであって、このような要因を内包し、このような要因をその本質とする現象こそまさに指導者活動にほかならないのである。(p222)
『経済発展の理論(上)』シュムペーター
この映画の最も大胆なショートカットは、信の幼馴染の漂が王であるエイ政の影武者になることだろう。
信と漂は奴隷の身分から大将軍に成上がるために子供の頃に「一万回決闘をするぞ」と誓い、剣術の修行を欠かさなかった。途中で王の使者があらわれて、漂を王宮へ連れて行ってしまう。信は漂に追いつくために修行を欠かさない。彼の居所の住みやすさが子供の頃と全く変わっていないことから分かるように、奴隷の身分では頑張っても暮らし向きは良くならない。それでも、彼は山から薪を運ぶときに、背中に背負う量をだんだん増やしていき、その家の主人を驚かせる。それは重いものを背負って身体を鍛える意味があるかもしれないが、量を多く運べば生産性が上がって、報酬を得られはしないが時間をつくることはできるかもしれない。彼は奴隷の仕事を早く終わらせて、剣の修行に励むことができる。
ある日、漂が血を流しながら信の小屋にやってくる。彼は王宮内に反乱が起ったといって、信に剣と地図と夢を託す。そして死んでしまう。信は漂から受け取った地図の通りに行ってみると、そこに漂と同じ顔をして、王宮を追われたエイ政がいる。信は漂がエイ政の身代わりになったことを理解し激怒するが、エイ政の外見に漂がちらつき、死んだ漂の夢をかなえることを決意する。つまり、漂を「蘇らせよう」というのだ。それはそのままエイ政の中華統一の野望を実現することにつながっていく。
この信の心変わりは山の王との会話の中にも見られる。山の民は四百年も前に秦から裏切られ虐殺を受けたことを恨んでいたが、それは出会ったばかりの信とエイ政の関係と重なる。信は、彼が死んだ漂の夢を叶えようとしているのと同じように、山の民も死んだ人々が願っていた夢を叶えて彼らを生かそうとしてみないかと説得する。山の民たちは信に動かされる。それは、その前にエイ政が山の王を説得しようとして言ったことと意味はあまり変わらないのだが、信は首を刎ねられて死ぬ寸前だったのを回避して、まるで蘇ったように話すので、死んだものの夢を継いで「蘇らせよう」ということに説得力があったのだろう。
もし社会生活がそのすべての領域において、たとえば天文学的宇宙のような相対的不変性をもっているならば、あるいはかりに変化するとしても、この可変性が人為的な影響を受けるものではないならば、あるいは最後に、かりに人々の「行動」によってそれ自体またはその結果を自由に操作することができるとしても、この操作がだれにとっても同じように可能であるならば、各個人の月並みの仕事という客観的に決定されている機能以外に、特殊な指導者機能は存在しないであろうし、それはあたかも野生の鹿の群をある特定の動物が先導する必要が少しもないのと同じである。
新しい可能性に対して、しかも新しい可能性に対してのみ、特殊な指導者課題が成立し、指導者類型が出現する。(…)指導者はそれ自身、新しい可能性を「発見」したり「創造」したりしない。新しい可能性はいつでも存在し、人々によってその日常の職業労働の過程において豊富に蓄積されており、またしばしば広く知られており、文筆家が存在する場合には宣伝されてもいるのである。(…)ただこれらの可能性は死んだものである。指導者機能とは、これらのものを生きたもの、実在的なものにし、これを遂行することである。(p228,229)
『経済発展の理論(上)』シュムペーター
9/10/2020
更新
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