檻から映画に帰る ダンボ
サーカスに、愛らしい子象が誕生した。“大きすぎる耳”をもった子象は“ダンボ”と呼ばれ、ショーに出演しても観客から笑いものに。ある日、ダンボの世話を任されたホルト(コリン・ファレル)の子供ミリー(ニコ・パーカー)とジョー(フィンリー・ホビンス)が、悲しむダンボを元気づけるため遊んでいると、ダンボがその“大きな耳”で飛べることを発見する。
“空を飛ぶ子象”の噂は瞬く間に広がり、ダンボを利用し金儲けを企む興行師によって、ダンボは愛する母象ジャンボと引き離されてしまう。母を想うダンボに心を動かされたホルトの家族とサーカス団の仲間は力をあわせ、ダンボの捕われた母を救い出す作戦がはじまる――!
作品・キャスト情報|ダンボ|ディズニー公式
(ダンボ|映画|ディズニー公式)
(Dumbo Official Trailer - YouTube) |
同じ動物の目線と科学者の目線
アニメ版のダンボを助けるのはネズミのティモシーだった。ダンボは耳が特別大きいために他の象たちに化物扱いされていたのだが、ネズミのティモシーから見るとダンボは他と変わらない象だった。サーカスの団長が玉乗りをしている象の上に象を乗せてその上にまた象を乗せて象の塔をつくるという無茶なショーを計画するのだが、その時点でほとんど無理だった計画が本番でダンボがきっかけで崩壊してしまって、全部がダンボのせいにされる。それをティモシーが慰め、ダンボは間違って酒を飲んでしまったことをきっかけに、大きな耳を翼にして飛べるようになる。それはティモシーがダンボを他の象のように化物扱いせずにずっと友人として接した結果だろう。
今作の『ダンボ』では、ダンボを見る目は少し違っている。ファリア家はサーカスで生計を立てている一家だが、ホルトは戦争帰りで片腕を無くしており、妻はインフルエンザ(スペイン風邪)で死亡、娘のミリーと息子のジョーがいた。ホルトは戦争から帰ってきて、またサーカス団を盛り上げたいと思っているが、戦争やスペイン風邪による被害が彼ら家族を襲ったようにサーカスの経営にも影を落としていた。ホルトは戦争前はサーカス団のスターで、子供たちにはサーカスを継いで自分のようにサーカス団のスターになってもらいたいと思っている。しかし、彼には片腕がない。戦争から帰ってくる場面でホルトと子供たちは抱き合うが、子供たちを両手で抱いてやることができない。無い方の腕から一人が零れ落ちてしまう。ミリーはサーカスをやるよりは、科学者になりたいと思っている。
量的差異と質的差異の差異
有機的な存在がじぶんのうちに立ちかえっている場合には、その存在は他のものに対してかんぜんに没交渉的であり、有機的な存在が現に在るありかたは単純に普遍的なありようを示している。かくてその定在が拒絶するにいたるのは、持続的な感覚区別を観察に対して与えることであり、おなじことを言いかえれば、当の定在はじぶんの本質的に規定されているありかたをただ、存在する規定性の交替というかたちで示すのである。それゆえ、存在するものとしての区別が表現されるそのしかたは、ほかでもなく、この区別が〔質的な区別に対して〕無関心な区別であるというものであって、つまり区別は量として存在することになる。(p439)
〔以上で述べたことは〕ただ知覚されたものを〔有機的に〕みずからのうちに反省的に立ちかえったものと取りかえることであり、たんに感覚的に規定されたありかたを有機的な規定性と交換することである。そのように取りかえ、交換することは、かくてふたたびその価値を喪失してしまう。それはしかも、悟性が法則定立をなお放棄していなかったことによるのである。(p441)
『精神現象学(上)』ヘーゲル
ジャンボという名の象からダンボが産まれる。ダンボが最初に人々の前に現れたとき、やはり欠陥品扱いされてしまった。耳が大きすぎるのだ。そのために歩くときに耳を踏んでつまずいてしまう。それでも団長はサーカスで稼がないといけないということで、耳を隠してダンボをサーカスに出演させる。最初は何事もなかったが、トラブルで耳が観客の前に顕わになり、観客は驚いて「フェイクの象だ!」と罵声を浴びせ、食べ物を投げつける。そこに母親のジャンボがダンボを助けようと舞台の袖から自分の意志でやってくるが、象が暴走したとみなされ、他のところに売られることになってしまう。
ダンボが誕生してから子供たちはずっとダンボに興味を抱いていた。その関心はジャンボが他のところに売られてダンボが独りになってしまって一層高まった。子供たちも母親を亡くしていたからだ。子供たちはダンボを慰めようとずっと見守っている。ある時、子供たちがダンボと鳥の羽を息で飛ばしてキャッチボールのように遊んでいると、ダンボの鼻の中に羽が入ってしまい、ダンボはクシャミをしようとして耳をばたつかせると少し浮き上がる。子供たちは大発見だと思い父親に報告するが、彼は片腕をなくして以前のように曲芸は出来ないため新しい芸を考えねばならず、同時に母親がいない子供たちにどう接すればいいのかわからなくなっているため、子供たちのいっていることを信じず何か幻覚でも見てるのではないかと考えてしまう。ミリーはそのことで父がダンボに関心がないのと同時に私たちにも関心がないのではないかと思ってしまう。ダンボは耳が大きいが、それはただ単に耳が他の象より何倍大きいかというような量的な違いではなく質的な違いなのだ。ダンボは空を飛ぶことが出来る。しかし、ダンボは象の概念の中に閉じ込められているために、観客にもホルトにも象とは違うもの、ちょっと変わった象としか見られていない。それが単に量的な違いではなく質的な違いであることを知るには関心を持って子供たちのように見守り続けなければいけない。けれど、ホルトにはそうする余裕がない。今日食べる魚を探している人間はその水辺で魚が釣れないとさっさと場所を変えてしまう。釣り人は余裕がなければ魚が釣れない水辺に「ここは変わった水辺だな」といったような関心をもってとどまることはないだろう。
子供たち特にミリーはダンボを見守り続け、母のジャンボがどこかに連れて行かれてダンボが落ち込んでいるときも、自分の亡くなった母親の話をして慰めようとする。ミリーは母親から鍵をプレゼントされていて、何か困ってこれ以上どこへもいけないと思ったときには、その鍵を使って想像でその閉じた部屋ドアの鍵をあけててみるといいといわれたのだという。それは単に塞ぎこんでいる気分から立ち直るようにいっただけではなくて、ダンボに象の閉じられた概念の扉を開けてそれを拡張するよう言っている。その時から、ダンボは空を飛べるようになる。
ホルトは空を飛ぶダンボを見て考えを変え、科学者になりたいというミリーを応援するようになる。彼はどうやってミリーに自分の言うことを聞かせるかという考えをやめて、娘を見て娘の言うことに関心を持つようになった。ホルトがそう変化できていなかったら、ヴァンデヴァー(マイケル・キートン)のようになっていただろう。彼はドリームランドのコントロールルームですべてをコントロールしようとして自分の持っていたものすべてを崩壊させてしまう。彼は「不可能は可能だ」と何度も言っていたが、それがなぜそうなるかについて、例えばインフラのコントロールの仕組みについて関心がなかったのだ。
すべての知識は経験に始まるものですから、新しい経験が新しい知識の始まりであり、経験の増大は知識の増大の始まりであります。したがいまして、ある人にとって新しく起ることは何であれ、かれが以前には知らなかったなにかを知る希望と期待を抱かせるのであります。新奇に起るまた未知のなんらかのことがらが将来の知識に及ぼすものについてのこのような希望と予想こそが、わたくしたちがふつう驚嘆と呼ぶ情念であります。そして、その同じものが欲求として考えられたばあいには好奇心と呼ばれ、それが知識への欲求であります。識別する能力において人間は、名称を付与する能力を持つ点で動物とはまったく異なるように、好奇心というこの情念においても動物の本性よりまさっております。といいますのは、動物は新しいあるいは未知のなにものかを見たとき、それが自分にとって役立つかそれとも害を与えるかどうかを識別することだけを考え、それにしたがって接近したり逃れたりします。これにたいして人間は大部分のできごとについて、それらがどのようにして惹き起こされ、また始まったかを記憶していますので、かれにとって新しく起るすべてのことから原因と始まりとを見つけようといたします。そして驚嘆と好奇心というこのような情念から、名称だけでなく、名称を生みだすと考えられるすべての事物の原因を推定することが生まれます。またこれが発端となってそこからすべての哲学〔知識欲〕が生まれます。(p97,98)
『法の原理』ホッブズ
二つのダンボ、映画の世界
ヴァンデヴァーの暴走でドリームランドが火事になってしまい、ミリーたちとダンボが火の中に閉じ込められる。ダンボが飛べればいいのだが、ダンボは飛ぶときはいつも鳥の羽を頼りにしていて、その羽が燃えてしまったためにダンボは飛ぶことをためらっていた。すると、ミリーがダンボに大事な母の形見の鍵を見せて、それを火の中に投げ入れてしまう。それはダンボと鳥の羽との結びつきで捉えられていた、飛ぶことの概念の檻の扉を開けるためだ。そこに扉すらないことを示すためかもしれない。ダンボが飛ぶことと鳥の羽とは何の関連もない、それは単に飛ぶはじまりのきっかけにすぎない。ダンボは子供たちを乗せて空を飛び危機を脱出する。
サーカスの皆はダンボとジャンボをもとの生息地に返すことにする。檻から解放することは一貫している。ミリーは代わりにダンボの映画をつくる。それは単純なコマの繰り返しの段階の技術でしか描かれてはいないが、そこではダンボは確かに飛んでいて、そこには彼女の見たものや記憶が確実に含まれている。
人間は、見ることも、触れることも、嗅ぐことも、聞くことも、記憶することもできない世界の大きな部分を知力によって知ることが可能になった。しだいに人間は、自分の手の届かない世界についての信頼に足るイメージを、頭の中に勝手につくることになった。(p47)
人間がこれまで経験してきたなかで、映画に匹敵するほどの事物の視覚化に役立ったものはない。もしフィレンツェの人が聖者を思い描こうとしたら、教会に行ってそこの壁画の上にジオットが当時の規格に合わせて描き出した聖者の像を見たであろう。もしアテネの人が神々の姿を望んだら、神殿にそれを求めた。しかし、描かれた事物の数は多くはなかった。第二の戒め(モーゼの十戒の第二、偶像崇拝の戒め)の精神が広く受け入れられていた東方では、具体的な事物を写すことはさらに少なかった。おそらく事物のイメージが作りあげられないために、実際的な決断能力がそれだけ低下していた。しかし西欧世界では、この数世紀の間に、宗教を離れた事物の描写、生々しい写実、物語、絵物語、そしてついには無声映画、おそらくこれからのトーキーを含めて、量、規模ともに途方もなく増大してきた。(p126)
『世論(上)』リップマン
(二つの木馬、映画の世界 ブレードランナー 2049 | kitlog)
11/17/2020
更新
コメント