政治劇の隠蔽、現場主義と保守主義 ミッション:インポッシブル/フォールアウト

何者かが複数のプルトニウムを強奪する事件が発生。その標的になったのは、世界各地の三都市。イーサン・ハント(トム・クルーズ)とIMFのチームは、“同時核爆発を未然に阻止せよ”とのミッションを命じられる。猶予は72時間。だが、手がかりは少なく、名前しか分からない正体不明の敵を追うミッションは困難を極める。刻一刻とタイムリミットが迫る中、IMFの前に立ちはだかるCIAの敏腕エージェント、ウォーカー。ウォーカーとの対決を余儀なくされたイーサンに迫る危機の数々。果たして彼らは、絶体絶命の危機を乗り越え、核爆発を阻止することができるのか……?

ミッション:インポッシブル/フォールアウト | 映画-Movie Walker

ミッション:インポッシブル/フォールアウト
(Mission: Impossible - Fallout (2018) - Official Trailer - Paramount Pictures - YouTube

僕は今作を主観的に、人の尺度(体感時の判断)で伝えたかったけれど、ダンケルクのことを知らないような人たちにも大きなスケールで伝える必要があったんだ。だから、いかに政治家や軍の将官などを映像に含めずに、あくまで兵士の視点で描かれた一貫性のある体感型映画にするかが問題だったよ。そこで同じ時間軸に起きる出来事を、異なる観点で描くようにしたんだ

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(本のない世界で ダンケルク | kitlog)以前、『ダンケルク』について書いたものがこれだが、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』(以下『フォールアウト』)も似たようなことをやろうとしている。それは、政治劇を廃して兵士の視点に集中し、それを観客に体感させるというものだ。そのために、脚本も未完成のまま(本のない世界で)、現場で主演のトム・クルーズの意見などを聞きながら撮影を進めていったという。

撮影中盤でも脚本は未完成だったと報じられていたが、この件についてマッカリー監督は「そうだ。しかも、今でも完成してないよ」と大笑い。前作『ローグ・ネイション』ではスタントありきで、そうしたスタントが無理なく行われる理由を考える形でストーリーを紡いでいったが、今回は「キャラクターと感情」を第一に考えたため、エンディングについては考えがあったが、それ以外は何も決まっていなかったという。

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ここに問題がある。『ダンケルク』であれば、われわれは歴史の教科書などを開けば、なぜ『ダンケルク』で描かれたような状況に兵士が置かれているのかなど、背景知識を得ることができるし、そうしなくても背景についてなんとなく知っている人も多い。だから、兵士の視点に集中しても、兵士は何が起こっているかわからず混乱しているかもしれないが、観客の私たちはわかっているという形で混乱せずにすむ。しかし、『フォールアウト』のほうになると、それは歴史的事実でも人々がみな知っていることというわけでもないので、背景が描かれないと何をやっているのかがよくわからなくなる。『ダンケルク』とは逆で、出演者はストーリーを理解しているのかもしれないが、観客はそれを理解しにくいというかたちになっていて、わけがわからない群像劇を見せられている気分になる。

なぜ政治劇を描かなかったのだろうか。今作は前回の『ローグ・ネイション』と地続きの物語で前回と同じ敵が登場している。『ローグ・ネイション』は陰謀論をめぐる物語で、世界を裏で操る「シンジケート」と呼ばれる非合法組織が実在しているのではないかということをイーサン(トム・クルーズ)たちIMFのメンバーが追求していくというものだった。「シンジケート」は実際に存在し、イギリス政府の命令でMI6が組織したものだった。「シンジケート」の運営資金の調達やMI6による「シンジケート」の存在のもみ消し、IMFのそれらの追求などの思惑が絡み合って物語が進んでいくのだが、重要なのはIMFのブラント(ジェレミー・レナー)の存在だ。彼がスパイ活動の現場と政治の舞台を行き来することで物語をわかりやすくしていた。しかし、ジェレミー・レナーはアベンジャーズの撮影のために今作では出演していない(映画『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』にブラント役ジェレミー・レナーが登場しない理由 ― 『アベンジャーズ』撮影で | THE RIVER)。『フォールアウト』では政治劇を反映する登場人物が不在のまま物語が進められる。今回も「シンジケート」の存在、そのボスのソロモン・レーン(ショーン・ハリス)が中心に置かれており、それをもみ消したいイギリスとその全貌を調査したいアメリカやフランス、新たなテロを計画する「シンジケート」の残党という様々な国家や集団の力関係が絡んでいるのだが、それは詳しく描かれない。そのために何のために存在しているのか、映画の鑑賞中にはよくわからない人物がいることになってしまう。結果としてアクションのコレクションになってしまっている(それでも見たことない映像ばかりで面白いのは事実ですが)。

もしお望みなら、歴史を文学に――意味も重要性もない過去のストーリーや伝説のコレクションに――変えてしまうことも出来るのです。しかし、本当の意味の歴史というものは、歴史そのものにおける方向感覚を見出し、これを信じている人々にだけ書けるものなのです。私たちがどこから来たのかという信仰は、私たちがどこへ行くのかという信仰と離れ難く結ばれております。未来へ向って進歩するという能力に自信を失った社会は、やがて、過去におけるみずからの進歩にも無関心になってしまうでしょう。(p197)

私に関心があるのは、一方、実践的なものや具体的なものを挙げて、これを賞賛し、他方、「綱領や理想」を挙げて、これを非難する、という両者の明確なコントラストなのです。こういう風に実践的活動を理想主義的な理論的活動の上に高めるのは、申すまでもなく、保守主義の証明書なのです。……徹底的な経験主義という形態で徹底的な保守主義が同じく親しみ易く表現されておりまして、これが今日では大変にポピュラーになっております。それは一番ポピュラーな形態では、トレヴァ・ローバー教授の、「急進派が、勝利は疑いもなくわれわれのものだ、と絶叫する時、賢明な保守派がその鼻を叩いてやる」という言葉に窺われるでしょう。オークショット教授は、この流行の経験主義をもっと面倒な形で私たちに示しています。彼の申しますには、われわれの政治問題においては、われわれは「涯もなく底もない海を航海している」ので、そこには「出発点もなければ予定の目的地もなく」、われわれの唯一の願いといえば「水平に浮かんでいる」ことだけである。(p230,231)

『歴史とは何か』E.H.カー

政治劇を描かないということは、自分たちの上にあるようなものに関心を持たない、あるいは持たせないということで現場のみが描かれている。そのことが、映画本編の細かいところにも影響を与えている。気になったところは二つある。一つは、シンジケートの残党についての情報を得るためにイーサンたちが芝居をするシーンだ。イーサンらはその残党の(協力者?)一人にスマホのロックを解除してもらいたいと思っているのだが、イーサンとルーサー(ビング・レイムス)は典型的なグッドコップ、バッドコップを演じる。イーサンが暴力的に強迫的にロックの解除を迫るのをルーサーが止めに入って説得するというものだ。イーサンとルーサーはその演技によってその残党の譲歩を引き出し、彼は「CNNでわれわれの声明文を読むなら解除してもいい」と条件をつけた。そして、マスクを使ってCNNのキャスターに扮したベンジー(サイモン・ペグ)が偽のスタジオで撮影したものをその残党が信じ、偽りの優越感からロックを解除した。そしてベンジーが向こうから出てきて種明かしがされるのだが、イーサンやルーサーに対して(トム・クルーズに対してではなく)「ひどい劇だな」という皮肉のようなものを誰も言わないのがとても引っかかった。もちろん三人共その寸劇に参加しているのだから俯瞰する人間は誰もいないのだが、この映画の現場主義を象徴していると思う。ブラントがいればそう言わなかっただろうか。(シンジケートの残党の当初の目的は宗教の三大聖地をプルトニウム爆弾で破壊することでもあり、敵の目的も上位概念を破壊することであるように見える)

もう一つは、イーサンがオーガスト(ヘンリー・カヴィル)を追うシーンだ。両者ともに発信機が取り付けられていて、ベンジーがタブレットの地図で両者の位置を確認しながらイーサンをオーガストの居場所へ案内する。ベンジーがイーサンに進むべき方向を案内する過程で三次元の現実を二次元の地図で把握しており、ベンジーは「そこをまっすぐ進め」ということで「地上の道路を渡れ」を意味しているのだが、敵から逃げる過程でビルの屋上にいるイーサンには「ビルの間を飛べ」という命令に聞こえ、無茶苦茶な大ジャンプアクションをしなければならなくなる。これは『ローグ・ネイション』での誰かが人を操っているという考えを反動的に茶化すためのものだろう。現場を知らずに上からものを言ってもうまくいかないか大変な目にあってしまう、人を操るというのはうまくいかないというシーンである。しかし、重要な情報というものは人を動かしてしまうものだ。この場合、情報を持つものとそれによって動くものが離れる必要はなかった。実践と理想を分離する必要はなかった。オーガストの位置情報はイーサン自身で把握できるようにしていれば良かったのである。彼が逐一自分で位置情報を得てオーガストを追えばよかったのだ。しかし、この映画では政治劇は理想と実践の片方として分離され隠蔽されている。
9/10/2020
更新

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