目をつむる、開く ハクソー・リッジ
ヴァージニア州の田舎町で育ったデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)の父トム(ヒューゴ・ウィーヴィング)は第1次世界大戦出征時に心に傷を負い、酒におぼれて母バーサ(レイチェル・グリフィス)との喧嘩が絶えなかった。そんな両親を見て育ち「汝、殺すことなかれ」との教えを大切にしてきたデズモンドは、第2次大戦が激化する中、衛生兵であれば自分も国に尽くせると、父の反対や恋人ドロシー(テリーサ・パーマー)の涙を押し切り陸軍に志願する。グローヴァー大尉(サム・ワーシントン)の部隊に配属され、上官のハウエル軍曹(ヴィンス・ヴォーン)から厳しい訓練を受けるデズモンド。生涯武器には触らないと固く心に誓っている彼は、上官や仲間の兵士たちから責められても頑なに銃をとらなかった。ついに命令拒否として軍法会議にかけられても貫き通した彼の主張は、思わぬ助け舟により認められる。1945年5月、グローヴァー大尉に率いられ、第77師団のデズモンドとスミティ(ルーク・ブレイシー)ら兵士たちは沖縄のハクソー・リッジに到着。そこは150mの断崖がそびえ立つ激戦地だった。倒れていく兵士たちに応急処置を施し、肩に担いで降り注ぐ銃弾の中をひるむことなく走り抜けるデズモンドの姿に、感嘆の目が向けられるように。しかし丸腰の彼に、さらなる過酷な戦いが待ち受けていた。
ハクソー・リッジ | 映画-Movie Walker
(『ハクソー・リッジ』本予告編 - YouTube) |
諸々の対象――内的であれ外的であれ――に向けられる〈注意〉と、不可避の存在のざわめきに吸い込まれてゆく夜の〈警戒〉との違いはさらに大きい。自我は、存在の宿命によって運び去られる。もはや外も内もない。警戒には対象というものがまったくない。しかし、だからといってそれが無の体験だということにはならない。ただ、警戒にもまた夜と同じように名前がない。注意は、まなざしを方向づける自我の自由を前提としているが、私たちの眼を閉じさせない不眠の警戒には主体がない。(p108)
『実存から実存者へ』レヴィナス
たとえば車に乗っていて「あの道からは自転車が飛び出してくる可能性が高いからよく見て走行しよう」というのが注意である。注意には具体的な場所や対象があるので、その時その時間だけ特別に神経を集中させればよい。しかし、それが警戒の場合、いつ、どこから、どのように、何がやってくるかわからない。そのため何かに注意することはそもそもできず、ただ状況に対して単に目を見開いていることしかできない。不在の何かに対して目を開いていなければならない。戦場では誰かが目を開けていなければならない。眠るときでも、二人一組になって一人が眠っている間にもう一人は警戒して目を開けていなければならない。しかし戦場ではその彼を眠らせた後でも緊張感が夢の中で「眠ってはいけない」という風に敵兵が自分を殺すイメージを与え叩き起こす。彼には目をつむることが許されないのだ。映画館でのわれわれのように。
上のような理由で戦場はさながらお化け屋敷のようである。どこから何が驚かしにやってくるのかわからないのでとにかく怖い。実際、デズモンドが眠ったあとで見た夢はお化け屋敷そのものに見えた。お化け屋敷と戦場の違いは、当然だが驚かされることが生死に関わるかどうかである。戦艦からの砲撃のあと、デズモンドらの一団がハクソー・リッジをのぼって辿り着いた崖の上の日本兵の陣地は、辺り一面に土煙が舞って遠くを見渡すことができない。警戒しようとして先を見ようと思ってもできないのだ。だからなおさら、兵士たちは目を見開かざるをえない。目をつむることはできない。
この映画には同じものが二つ出てくるということを意識的にやっていると思う。たとえば、崖がその一つだ。一つはハクソー・リッジという戦地の崖、もう一つはデズモンドの故郷の日常での崖だ。そしてその崖のシーンは対照的に描かれている。この映画は前半と後半で日常のシーンと戦場のシーンに分かれているが、日常のシーンではやたらとキスシーンが多い。映画館でデートをした後デズモンドがドロシーに急にキスをすることからはじまって、何度もしつこいくらいキスシーンが描かれる。最初のキスでデズモンドがいきなりドロシーにキスをすると、ドロシーは「いきなり何するの」と怒ったような顔をして目を潤ませながら、デズモンドの頬を叩く。デズモンドはそのことに驚く。これと同じようなシーンが今度は彼の故郷の崖の上で描かれる。デズモンドとドロシーは崖の上に登りそこでキスをしようとする。デズモンドは「今度はキスをした後に殴ったりしないでよ、二人とも崖から落ちてしまうから」と冗談みたいにいう。ドロシーも冗談っぽく「どうだろう、やってみないとわからない」とこたえ二人はキスをする。彼らは目をつむってキスをする。当たり前だが、そこに危険はないからだ。ドロシーも崖の上で彼を突き飛ばしたりはしない。お互いに信頼していて彼らは目をつむることができる。それは目をずっと開いておかなければいけなかったハクソー・リッジの上の状況とは全く反対である。
デズモンドはいつもどこかニヤニヤしているところがある。ドロシーと初めてあったときもそうだし、軍に志願して訓練を受けているときもそうである。日本版のポスターには臆病者と書かれているが(実際にチキンと仲間から言われているが)、印象としては阿呆である。けれど、もちろんただの阿呆ではない。
彼は見も知らぬ、無縁なものの中に投げ出された孤児のようであり、途方にくれている。彼は自分が生きているということに許しを乞うような、人の心を打つ困惑した笑いを浮かべている。だが彼の不器用な無力さが、それだけですでに我々の心をとらえてしまったとき、この扁平足が途方もなく器用な軽業師のものであること、彼の絶望的な笑いが同時に一筋縄ではいかないものであること、彼の単純素朴さが天才的なずるがしこい才能をもっていることが明らかになる。彼は屈服しない弱者である。彼は、最初は皆に軽蔑されるが、結局は王様になる民話の中の三男坊、末っ子である。(p187)
我々にとってもまた、我々の持ちものや道具類をうまく取り扱えない他国者以上に滑稽なものはない。だがこのおかしみは両刃の剣である。それらの持ちものや道具類の正体もまた同時に暴露されるのである。(p188)
『視覚的人間』ベラ・バラージュ
バラージュが「チャップリン――アメリカの阿呆」と名付けた文章から引用した。チャップリンが道具をうまく扱えないことで道具の正体を暴露するとしたら、デズモンドは道具を別の方法で使うことで彼の信念と道具の両義性を暴露する。デズモンドの子供時代、彼は遊びで喧嘩をしていたのだが、ついカッとなって落ちていたレンガを取り上げそれで相手を殴ってしまい重症を負わせてしまう。15年後、彼はレンガを交通事故にあった青年を車の下から出すためのジャッキとして、人を救うために用いる。デズモンドがレンガで怪我をさせた後、父親はベルトを外し輪っかにしてデズモンドにお仕置きをしようとする。それを母親がもう十分反省しているじゃないといってやめさせるのだが、同じベルトが今度は15年後の事故にあった青年を止血するための道具として描かれる。デズモンドは良心的兵役拒否者として銃に触ること銃を撃つことを徹底して拒んだが、戦場で上官を助けるときにはライフルを担架の支えとした。
それらはデズモンドがそれぞれ道具の別の可能性を開かせた瞬間である。道具には別の役立ち方もあるということだ。それは彼の戦場での戦うだけではない生き方そのものでもある。デズモンドは戦場で一人の負傷した兵士を発見する。彼は「目が見えない、目が見えないんだ」という。デズモンドは彼を落ち着かせ、水筒の水を顔に浴びせる。彼の目が開かないように固まっていた血は流れ落ち、彼は「目が開いた」といって喜ぶ。血が戦場の兵士の目を開かないようにしていたのだ。そのことを象徴として、デズモンドの献身と戦場での生き方は彼の上司や仲間に認められるようになる。しかし、訓練ではデズモンドの可能性はずっと閉じられたままだった。彼の上官たちはずっとデズモンドのことを血を顔に浴びたまま、目が開かないまま見ていたのだ。
9/10/2020
更新
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