白い布で覆われた遺体 パトリオット・デイ

2013年4月15日。殺人課の刑事トミー(マーク・ウォールバーグ)は、朝からボストンマラソンの警備に駆り出されていた。オリンピックの次に歴史の古いこのマラソン大会は、毎年祝日である「パトリオット・デイ(愛国者の日)」に開催され、117回目を迎えるこの日も50万人の観衆で賑わっていた。そんななか、次々と走者がゴールし、最高潮の盛り上がりの最中、トミーの背後で突如大爆発が発生。歓声は悲鳴に変わり、煙が立ち込める中に血を流した負傷者たちが折り重なって倒れていた。トミーらボストン警察の面々は事態が飲み込めないまま救護活動を開始。やがて到着したFBI捜査官リック(ケヴィン・ベーコン)が現場を慎重に観察すると「これはテロだ」と断定。管轄はFBIへ移るが、犯人に対する怒りが沸々と湧き上がっていたトミーは、病院を回って負傷者たちの話を丁寧に聞いてまわるのだった。9.11同時多発テロ以降の事件にアメリカは震撼、爆発時の映像はまたたく間に世界中に配信される。やがて監視カメラに映る不審な“黒い帽子の男”と“白い帽子の男”が容疑者として浮上する……。
パトリオット・デイ | 映画-Movie Walker



映画ではすべてのアクションがこのような蟻の巣に似ている。より近くからより細かくそれを眺めれば眺めるほど、それはより豊かな生命とより速いテンポを持つようになる。反対に映画の中で出来事をほんのちょっぴり暗示するだけだと、その出来事はまったく生彩の乏しいものになるだろう。このように素早く通り過ぎてゆく映像の中では、我々は事件をただ頭で知るだけであって事件を眼で見はしないのである。それは我々の眼にピチピチと生きているようには見えないで、一種の象形文字で書かれた文献のような意味しかもたない。(p159)

『視覚的人間』ベラ・バラージュ

ニュースでは例えば「Aという人がBという犯罪を犯した」ということが報道される。けれど、われわれは多くの場合「AがBをした」ということを言葉だけで知るのみで、「AがBをした」ということを眼で見ることはほとんどない。けれど映画はそのことを、たとえそのすべてが実際に起きたことではないにせよ、見せることができる。それによってニュースでは見えなかった内面的なものが外面的なものとして露わになる。「本当にこんなところでテロが起こってしまったのか」といったようなニュースではわからなかった感慨がそこにはある。映画にはテロが起こる瞬間が映っていると思う。その瞬間は被害者の日常や加害者のたとえば「爆弾は腰の位置に置くべきだった」と何気なく発したような言葉によって強化されている。それは一つの時間の中で連続しているようにみえる。

〈安心せよ〉とゲーテは言った。映画には〈純粋に〉外面的なものや〈空疎な〉装飾性はないのである。映画ではすべての内面的なものが外面的なものにおいて認識されるのであるから、まさにそれゆえにすべての外面的なものにおいても、或る内面的なものを認識することができるのである。美においてもまたそれが認識される。(p67,68)

『視覚的人間』ベラ・バラージュ



フレデリック・ジャクソン・ターナーがフロンティアの研究で最初に手がけたのは、十七世紀のボストン郊外について調べることだった。「もっとも古い西部は、大西洋岸だった」と、彼は言った。ダンモア卿によれば、「いつまでもさらに遠くの土地に思いをはせ、すでに定住した土地よりももっとよい土地があると考えてしまう」のは、アメリカ人の「弱点」なのである。こうして、フロンティアは西部の奥へ奥へと後退し続けたが、そのあとに残されたのは、領土にたいする執着や忠誠あるいは思い入れをもたない「移動しつづけるアメリカ人」という遺産だった。(p94)

『分断されるアメリカ』サミュエル・ハンチントン

この映画に描かれていることは上のこととはまったく逆である。この映画はボストンへの愛着で満ちている。外からやってきたFBIの捜査方針に対して地元警察は「ここはわれわれの街だ」といい協力しつつも反発する。FBIは容疑者の監視カメラ映像を公開して捜査するのはまだ早すぎるといったのに対し、地元警察は市民を信じて公開すべきだといった。警察が犯人との銃撃戦になったとき、市民が警察に対して「小さいハンマーならあるぞ、役に立つなら使ってくれ」と協力を申し出る(これはほとんどギャグシーンなのだが)。犯人の一人が逃げ、居所が分からなくなったなかで、ボストン市内に外出禁止令が出され静寂に包まれた街が空から映し出される。一人の市民が庭のボートの異変を発見し警察に通報する。FBIやSWATが現場を仕切ろうとする中で、ある女性警官が「ここはわたしたちの街よ」といって持ち場を離れようとしない。

そしてこの映画の主人公のように見えるトミーは、主要な人物が実話として実際に存在している中で唯一架空の存在である。彼は一体誰なのか。彼はボストンの街のことを誰よりも知っており、そしてたまたま事件現場のすぐ近くを警備していた人物として描写されている。彼は自分の街の記憶と一つの監視カメラの映像から犯人がいつの時間にどのように行動をしどこを歩いていたかをまるで実際に見たかのように想像し、どの監視カメラに犯人が映っているかを当ててみせた。それは何かの特殊能力として描かれているのではなく、彼は街での経験の延長として単に記憶を頭を捻って絞り出しているだけである。そのようにボストンを熟知している彼はボストン市民の象徴だろう。そう考えると、彼が映画の冒頭いきなり膝を負傷し、足を引きずって歩かなければならなかったことの意味がわかるような気がする。つまりそれはターナーがいうような「移動しつづけるアメリカ人」が否定されているのだ。彼は足を負傷して動けないのではなく、ボストンにとどまり移動しないことを選んだのだ。ボストン市民の象徴として描かれている彼にそうさせたのはボストン市民の土地に対する愛着である。

一八四九年にヨーロッパからの訪問者アレグザンダー・マッキーは、次のように述べた。アメリカ人は「土地にたいしてほとんど、もしくはまったく愛着がなく、そこがヨーロッパ人とは異なる。彼らの感情は単なる国よりも、その制度に向けられている。自身については、特定の土地に住みついている人間というよりも、共和制支持者という見地から見ている……したがって、アメリカ人は誰もがその人なりに、特定の政治的信条の使徒となる」(p92,93)

『分断されるアメリカ』サミュエル・ハンチントン

上記の引用にある「アメリカ人」はこの映画に出てきたテロリストに似ていて、彼らは土地に対する愛着がないゆえにテロを起こし、その背景には彼らの信条がある。テロリストの妻は夫が銃撃戦で死亡した後、尋問されたときに「夫は出かける前にキスをしてくれた。彼は天国でも私とキスをしてくれるだろう」と述べた。此岸と彼岸があり、此岸で幸福になれなくても彼岸で幸福になれる、此岸で異教徒を殺せば彼岸で幸福になれる、という発想は当然だが、此岸つまり自分が生きている土地、ボストンを愛することはない。それは移動するための通過点でしかなく、そのような通過点には愛着を持ちようがない。この意味で、ボストン市民とテロリストは土地への愛着を巡って対照的に描かれている。


テロリストがある庭のボートで見つかり逮捕されると、警察たちは市民たちに讃えられ逮捕直後のパトカーはそれを喜ぶ市民たちによって取り囲まれお祭り騒ぎのようになった。テロ事件の現場には花や記念品が飾られた。ボストンに本拠地のあるレッド・ソックス(ソークス)はユニフォームのレッド・ソックスの文字をボストンに変え試合を行った。ここでも彼らが見せるのは土地への愛着である。悲惨な事件は起こってしまったし、悲惨な光景は誰かの眼には今でも映っているだろう。しかしその光景がいつまでもそこに残されているということはできない。ボストンマラソン爆弾テロ事件では八歳の少年が亡くなった。FBIは遺体に何かテロに関する証拠が残ってないか調べるために、その少年の遺体を動かさないよう命令した。その少年の遺体には白い布がかけられてそばで一人の警官がそれを見張っている。白い布によって、テロの悲惨な光景は見えないように覆われてしまった。白い布はテロの現場に置かれた花や記念品、Bostonと刺繍されたユニフォームである。それは悲惨な光景を直接見えないようにする試みであり、同時にそのことが土地への愛着とつながっている。テロの現場は白い布で覆われた、もう悲惨な光景を見ることはできない。けれど、白い布で覆われた少年の遺体をずっとそばで見守っていた警官の表情はその覆われた悲惨な光景を間接的にあらわしている。彼の悲しみや怒りをこらえている表情なのか、警官として毅然とした表情なのか判断のつかない無表情のようにも見えるその顔がテロの悲惨な光景をいつまでも思い出させる。

9/10/2020
更新

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