超人の居場所 guiltyとevil スーサイド・スクワッド
迫りくる世界崩壊の危機を前に、政府はある決断を下した。バットマンをはじめとするヒーローたちによって投獄され、死刑や終身刑となったヴィラン(悪役)たちを、減刑と引き換えに自殺に等しい任務を強制する集団スーサイド・スクワッド(自殺部隊)へ入隊させるのだ。こうして、情に厚い凄腕暗殺者デッドショット(ウィル・スミス)、狂気の道化師ハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)、軍人リック・フラッグ(ジョエル・キナマン)、地獄の炎を操る小心者エル・ディアブロ(ジェイ・ヘルナンデス)、必殺縄師スリップノット(アダム・ビーチ)、ブーメラン使いキャプテン・ブーメラン(ジェイ・コートニー)、唯我独尊を貫く女侍カタナ(福原かれん)、魔女エンチャントレス(カーラ・デルヴィーニュ)、ウロコに覆われた怪力男キラー・クロック(アドウェール・アキノエ=アグバエ)という強烈な個性が揃った寄せ集めの最狂チームが誕生した。思いがけず“正義のヒーロー”を任された彼らは、世界を救うことができるのか!?
スーサイド・スクワッド | Movie Walker
(映画『スーサイド・スクワッド』予告2【HD】2016年9月10日公開 - YouTube) |
人類を守るために異星人からの地球侵略を防いだスーパーマン。だが皮肉にも、戦いの結果は平和をもたらすと同時に、都市に甚大な被害を及ぼし、多くの犠牲者を出してしまう。その強大なパワーを、ある者は“神の御業”と崇め、またある者は“悪魔の脅威”と感じる。バットマンとして悪と戦ってきたブルース・ウェインも世界を滅ぼす力を目の当たりにした1人。スーパーマン不要論の盛り上がりに呼応するかのように、強烈な憎しみを抱き“脅威”を取り除こうと立ち上がる。同じ頃、巨大企業レックス・コープを率いる若き実業家レックス・ルーサーは、異星人の遺物を集めていた。その動きを探る謎の女も登場。人類はまた混沌とした状況へと追い込まれようとしていた……。
「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」 (1/2) - 映画ナタリー Power Push
(第二項なき第三項の苦悩 第三項は夢を見る バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生|kitlog)どうやらバットマンVSスーパーマン(以下BvS)の世界と地続きのようである。劇中でスーパーマンがいなくなったことが語られ、葬儀のシーンもある。BvSでは前作『マン・オブ・スティール』でのスーパーマンとその敵との戦闘が街に被害をもたらしたとしてその責任が問題になっていた。もしも未知の生命体がやってきて、それへの対処への責任が罪として対処した側に求められるなら、そんな面倒なことは誰もやろうとはしないだろう。世界を救ったとしても糾弾されるのだから。今作はその問題に一つの回答を与えようとしているように見える。つまり、そのような責任を負うものは最初から罪人であればいいという考えだ。そして使い捨てができるような人物であることも求められる。もしも責任問題に発展すれば彼らが全てを被る。それが今作のスーサイド・スクワッドと呼ばれる部隊だ。もちろん彼らを指揮しているのはアメリカ国家なのだが、それは完全な秘密ということで徹底しているように見せかけている。
BvSではそうはならなかったが、スーパーマンが実際に悪に染まってホワイトハウスを占拠しに来たらどうなるかということが劇中で語られる。今まで地球の平和のために働いたとはいえ、何かのきっかけで心変わりし、もしそのような脅威があるなら何か身体的に管理するシステムが必要かもしれないが、それは何の権利をもってなされるのだろうか。そのようなオプションは国民から人権侵害という非難にあわないだろうか。けれど、そのような懸念がまったく必要ない人物がいるとしたら……、ということで世界の危機に対処するための罪人が集められる。(デッドショットは百発百中の殺し屋ということでバットマンに捕らえられ牢屋にいれられるが、彼の殺しの雇い主を調べてみると……みたいなことで、超人故に罪人になっている可能性があるが、人殺しをした罪は罪である)彼らは首に爆弾を埋め込まれ、もしも逆らえば一瞬で文字通り首が飛ぶようになっている。スーパーマンにはそのような扱いは許されないだろう。彼らは政府の仕事の隠蔽のための組織であり尻拭いのための組織である。この映画の全体を通底しているのは民主主義の仕組みの中でこのような責任をいかに回避するかという汚い問題である。汚い問題であるがゆえにスーサイド・スクワッドの指揮官アマンダ・ウォーラー(ヴィオラ・デイヴィス)に対してはムカつく以外の印象を持ちにくい。それはデッドショットなど悪役の過去や背景が描かれればいっそうそう感じるようにできているように思う。
民主主義の理念に適合するのは、統治者の不存在である。プラトンはその『国家』(第三編九節)において、「理想国において、卓越した能力の持主、天才はいかに処遇さるべきか」という問いについて、ソクラテスに次のように語らせているが、まさしくこの言葉こそ、民主主義のこの精神に発するものである。すなわち、「我々は彼を、崇拝・驚嘆・敬愛に値するものとして尊崇するだろう。しかしそれから彼に「貴方のような人間は我が国には存在せず、存在も許されてもいない」と告げ、頭に油を塗り、花の冠で飾って、国境の外に連れ出すだろう」と。統治者的資質の持主は、この民主主義の理想郷には居場所がないのである。(p102,103)
『(民主主義の本質と価値 他一篇 (岩波文庫))』ハンス・ケルゼン
問題は本当に普通の人間が超人を制御できるのかということと、そのような制御の方法が強制的で非人間的であるために反発を招くことだろう。実際にこの映画では超人というにはちょっと度を超えた魔女が指揮官ウォーラーの手を離れて、人間を滅ぼすという方向へ行ってしまう。魔女だけは特別にその心臓を抜き取って、逆らったらそれを潰すぞといってボールペンをぶっ刺し、人質のいる人物のように扱っていた。魔女は一般人に取り憑いていて罪人ではないので男(米軍のフラッグ大佐)を与えることで日常も管理していた。その後ある方法で逃げられ魔女はその恨みを爆発させる。未知の生命体が襲来した時に備えて超人の部隊をつくったにも関わらず、その部隊に協力を強制したことで反発を招きその中から人類の脅威になるような敵を生み出してしまったことは皮肉であることを越えて滑稽ですらある。自分で自分の敵をつくっているのだから本当は馬鹿馬鹿しく間抜けな展開であるはずなのだ(ただ中東とアメリカの歴史を見るとそうも言ってられない気もする)。
この映画でスーサイド・スクワッドから自由になれたのは、上の魔女ともう一人はジョーカーである。ジョーカーの出演シーンは多くカットされているという噂もあるが(ジャレッド・レト本人が言っているのだからまちがいないのだろうが)、その噂の通りなのかジョーカーのキャラが薄いし、都合よく画面からいなくなってる感じがする。この映画を観る限りでは、ちょっと狂ったハーレイ・クインの王子様といった風である。しかし、ジョーカーは物語全般で自由なのだから、予測不可能性という意味で最後の戦いにも絡んできてくれないかなと思ってしまった。
最後のスーサイドスクワッド対魔女はBad対Evilの戦いというのをどこかで見たが、Guilty対Evilの方がわかりやすいのではないか。つまり、一方は一般の法で裁ける悪であり他方は法で裁けない悪である。後者は相手を絶滅させる戦争犯罪のようなもので、ここに出てくる悪役(ヴィラン)の個人的な動機による盗みや殺人といったものとはわけが違う。ヴィランは盗みや殺人を犯すがなぜか街にいたいと思っていて、それは法の枠組みの中にいるということも同然である。彼らはヴィランではあるが、デッドショットは娘といっしょにいたいと思っているし、ハーレイ・クインはジョーカーといっしょにいたいと思っている(それ故少し憎めない)。それは街全体を崩壊させようという魔女の意志とはかけ離れたものである。もちろん魔女の方にも言い分はあるし、魔女も人間を滅ぼして弟といっしょにいたいと思っているだろうが、やはり多数の人間が自由や幸福を得られるのが正義なのだろう。魔女とその弟だけが地球に残っても仕方がないのだ。けれど魔女が暴れるきっかけがきっかけなだけに後味が悪い。
さてすでに確認しましたように、この悪の定義は次の二つの意味で、きわめて主観的なものでした。第一にわたしが人格としての健全性を失わずに行うことができるとされているものは、人によって、国によって、時代によって異なります。さらにこの問題は、「客観的な」規準や規則によって決まるのでなく、わたしが誰と〈ともにすごす〉ことを望むかという主観的な問いによって、最終的に決定されるのです。(p204,205)
『責任と判断』ハンナ・アレント
9/10/2020
更新
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