見られる自信のあるゴースト ゴーストバスターズ
コロンビア大学の物理学者エリン(クリステン・ウィグ)は、旧友アビー(メリッサ・マッカーシー)が自分と共同発表した幽霊研究本を承諾もなく電子書籍化しているのを発見。憤慨して彼女の勤める大学向かうが、なぜか一緒に幽霊騒動の起きた屋敷を調査する羽目に。そこで初めて幽霊に遭遇したエリンは、アビーとその相棒ジリアン(ケイト・マッキノン)と共に喜ぶものの、それぞれ大学を解雇されてしまう。行き場をなくすも幽霊の存在を確信した三人は、超常現象の調査会社を立ち上げるが……。
映画『ゴーストバスターズ』 - シネマトゥデイ
マッキノンが演じるのは、ジリアン・ホルツマンという狂った科学者だ。極度の変人にして、愛にあふれた人物だ。ゴーストバスターズには泣けるシーンはないけれど、マッキノンによるほぼ一人芝居のシーンは、劇中唯一、ほんとうに心動かされる。
新『ゴーストバスターズ』を「救った」女優、ケイト・マッキノン|WIRED.jp
(ゴーストバスターズ) |
動画共有サイト「ユーチューブ(YouTube)」に公開された予告編第1弾には、約90万件もの「低評価」が集まり、映画の予告編としては同サイト史上最も厳しい批判を受けた。ソーシャルメディア上では、ポール・フェイグ(Paul Feig)監督やキャスト陣に対し、殺害予告や女性蔑視のコメントが容赦なく向けられた。
あるツイッター(Twitter)ユーザーは「フェミナチ (Feminazi、急進的フェミニストに対する蔑称)を喜ばせるために作られた駄作」と投稿。新作はこういった暴言の集中砲火を浴びている。
32年前に公開された元祖『ゴーストバスターズ』のキャストは男性ばかり。一方、そのリメーク版には、ケイト・マッキノン(Kate McKinnon)、メリッサ・マッカーシー(Melissa McCarthy)、レスリー・ジョーンズ(Leslie Jones)、クリステン・ウィグ(Kristen Wiig)という女優陣が起用された。監督は、ヒット映画『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン(Bridesmaids)』など女優を起用したヒット作で知られるフェイグ氏だ。
主要キャスト全員女性の新『ゴーストバスターズ』に非難、ハリウッド性差別問題 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
映画の内容よりも先にTwitter上での炎上やいじめで有名になってしまった今作だけど、率直に言っておもしろくなかった。男性の男性性を皮肉るような要素が多くて、おもしろくないと書くとその部分で納得いってないからだろうみたいな批判にあうのかもしれないが、そういうことはあまり関係がない。むしろ、おもしろくない(というより、せっかくのリブートなのに残念だなという気持ちのほうが大きい)から皮肉の要素ばかりが目立ってしまったのではないだろうか。
今作で圧倒的にまずいと思うのはゴースト発生装置なるものが存在することだろう。そのせいでオリジナルの『ゴーストバスターズ』にあったような神話的な要素や過去の不確かな伝承や不気味なものとしての幽霊などといったような要素は排除されることになり、ただの私怨によるテロとしてとてもスケールの小さいお話に落ち込んでいるように思う。そういう意味では、ゴーストの出てこなかった最初の5分位とケヴィン(クリス・ヘムズワース)が馬鹿みたいに踊ったあとに(ここが一番笑えたのになぜ本編で使わなかったのだろう)旧版で出てきたズールの存在を匂わせる(視覚化するのでなく匂わせるのが重要だと思う、最初の五分もそれが理由)最後のおまけの5分だけが魅力的だと思った。
視覚化する前にゴーストの存在を匂わせるというのが重要という意味で、最初にゴーストが真正面に出てきた時はとても奇妙だと思った。エリン(クリステン・ウィグ)、アビー(メリッサ・マッカーシー)、ホルツマン(ケイト・マッキノン)の三人はゴーストが出たという屋敷に調査に出かける。その中で開かずの扉だと思っていたものがなぜか開いている。ここまではいい。しかし、なぜゴーストが正面から近づいてくるのだろうか。これではまるでドアを開けて人間の動線と同じように近づいてきたみたいに思えてしまう。地下鉄で出たゴーストもそうだった。パティ(レスリー・ジョーンズ)は地下鉄の線路に降りた男を追いかけてゴーストに出くわすが、そのゴーストも姿を見てと言わんばかりに正面から近づいてくる。何の前兆もなく。CGの技術的な成果なのかもしれないが、現実に何か影響が出てゴーストが見えるといった工夫がなく綺麗なゴーストがいきなり見えて、そうやって正面から見て!という風にされると物語としてもシーンとしても単調にならざるを得ず、それらがゴーストである必要もないのではないかとさえ思えてくる。機械から発生しているからゴーストの行動も機械的なのだろうかという皮肉の一つも言いたくなる。
責任ある決定は理論的な知識や前提からの単なる帰結や結果であってはならない。――そうでなければ、その決定はつねに唯一の特異な状況に応えるものではなく、規則やプログラムの適用になってしまう――のだから、それに先立つ法的、倫理的、政治的、理論的熟慮に対して断絶をもたらすものでなければならないし、したがって、有限な決定以外のものではありえない。(p216)
問題は、生/死の形而上学的二項対立である。デリダのいう「幽霊」とは、純粋な〈自己への現前〉としての生と、その不在としての死との階層秩序的二項対立に決定不可能性をもちこむものにほかならない。幽霊は純粋な生でも純粋な死でもなく、純粋な現前でも純粋な不在でもなく、純粋に現実的でも純粋に非現実的でもない。(p250)
『デリダ』高橋哲哉
もう一つ気になるところは、彼女らが改造したゴーストバスターズの車である。オリジナル版は救急車だった。ゴーストが現れると救急車が出動しそれを捕らえるのだ。彼らは捕らえられて病院行きになるのだ。劇中でゴーストバスターズは大量のゴーストを捕らえて保管しておくのだが、その閉じ込めておく保管先に問題はないのかといって環境団体の代表がおしかけてきてトラブルになる。現実で完全にゴーストを信じてオカルトにはまってしまってはいけないのかもしれないが、これは何よりも思考の問題であると思う(思考の問題は正義の問題でもある。思考の余地としてそれは閉じ込められていながらも存在させておかなければいけないと思う。イスラム国のテロがパリで起きた時に(生死の問題と自由、未開人という発想 パリのテロから|kitlog)メモ程度にこれを書いたが生死の問題はそれが波及的にあらゆるものを二項対立化させてしまうので危うく思える。
あらゆる問題が、それが安全保障の問題になってしまえば議論は二極化する。それが誰かにとっての生死の問題だからだ。誰かが何かを人に強制し、誰かを統治するという目的で未開人と認定するかもしれない。イスラム国は戦略的に未開人を演じている可能性もあるが、それによって非ムスリムは彼らを「教育」しなければならないとか「啓蒙」しなければならないとか考えるかもしれない。
生死の問題と自由、未開人という発想 パリのテロから|kitlog
今作で改造した車は救急車ではなく霊柩車だった。つまりゴーストは捕らえられる対象ではなく(一度捕らえるが逃げられてしまいそれ以降一つも捕らえてはいない)、対ゴースト用の武器もアップグレードされてゴーストは死すべき対象になってしまっている。これは悪魔祓いなのだ。それは生か死かの確立であり、思考の二項対立の確立であるように思われる。ゴーストバスターズをテロの映画にするのはもったいないと思う。
悪魔祓いとはなにか?それは、幽霊に死亡宣告を下すことにほかならない。幽霊に死を!エクソシストたちは、法医学者よろしく死者が決定的に死んだことを宣告し、それに死を与える。事実確認的なものであることを装うこの行為遂行によって、エクソシストたちは、「死者はまちがいなく死んだ」のであり、それが戻ってくることはありえない、死者が「われわれのうちで」死後の生を生きたり、生き延びたりすることはけっしてないのだから、今や安心してよいのだと結論を下す。この死亡宣告は、回帰する幽霊への宣戦布告であり、じっさいには死刑執行である。これによってはじめて、生は生であっていささかも死ではなく、死は死であっていささかも生ではないという生/死の二項対立が確立される。パルコマン、パルコマスとしての幽霊が、悪魔祓いによって「われわれの生」の〈自己への現前〉から一掃されるのである。(p260,261)
『デリダ』高橋哲哉
9/10/2020
更新
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