接合の正義 君の名は。
千年ぶりとなる彗星の来訪を一か月後に控えた日本。山深い田舎町に暮らす女子高校生・三葉は憂鬱な毎日を過ごしていた。町長である父の選挙運動に、家系の神社の古き風習。小さく狭い町で、周囲の目が余計に気になる年頃だけに、都会への憧れを強くするばかり。
「来世は東京のイケメン男子にしてくださ―い!!!」
そんなある日、自分が男の子になる夢を見る。見覚えのない部屋、見知らぬ友人、目の前に広がるのは東京の街並み。念願だった都会での生活を思いっきり満喫する三葉。
一方、東京で暮らす男子高校生、瀧も、奇妙な夢を見た。行ったこともない山奥の町で、自分が女子高校生になっているのだ。繰り返される不思議な夢。そして、明らかに抜け落ちている、記憶と時間。二人は気付く。
「私/俺たち、入れ替わってる!?」
いく度も入れ替わる身体とその生活に戸惑いながらも、現実を少しずつ受け止める瀧と三葉。残されたお互いのメモを通して、時にケンカし、時に相手の人生を楽しみながら、状況を乗り切っていく。しかし、気持ちが打ち解けてきた矢先、突然入れ替わりが途切れてしまう。入れ替わりながら、同時に自分たちが特別に繋がっていたことに気付いた瀧は、三葉に会いに行こうと決心する。
「まだ会ったことのない君を、これから俺は探しに行く。」
辿り着いた先には、意外な真実が待ち受けていた……。
君の名は。 - 映画・映像|東宝WEB SITE
近未来の地球。環境は加速度的に悪化し、植物の激減と食糧難で人類滅亡の時は確実なものとして迫っていた。そこで人類は、居住可能な新たな惑星を求めて宇宙の彼方に調査隊を送り込むことに。この過酷なミッションに選ばれたのは、元テストパイロットのクーパーや生物学者のアメリアらわずかなクルーのみ。しかしシングルファーザーのクーパーには、15歳の息子トムとまだ幼い娘マーフがいた。このミッションに参加すれば、もはや再会は叶わないだろう。それでも、泣きじゃくるマーフに“必ず帰ってくる”と約束するクーパーだったが…。
映画 インターステラー - allcinema
(初めに愛があった インターステラーから|kitlog)
クリストファー・ノーランの『インターステラー』では、クーパー(マシュー・マコノヒー)が最後にある場所へ自ら飛び込み、時間と空間の関節が外れたような空間に迷い込む。そこで彼は時間と空間を超えて娘のマーフ(ジェシカ・チャステイン)にあることを伝え危機を脱する。クーパーが存在している場所は地球から遠く離れた宇宙の果てで、しかも重力の影響で時間の進み方も違う。空間的にも時間的にも隔てられたなかで、彼らを結びつけたのは暗号(まともなコミュニケーションが取れないのでコミュニケーションは全て暗号にならざるをえない)を読み取ることを可能とする愛と記憶だった。というのが『インターステラー』のおおまかなストーリーで、今回の新海誠監督『君の名は。』は『インターステラー』クーパーが飛び込み彷徨ったあの空間がすでに舞台となっている。冒頭から二人の主人公は心と身体が入れ替わり、すでにあの本棚の部屋のような奇跡が起こっているということが前提となっている。その空間で支配的なのは『インターステラー』にある次のセリフが端的に表している。
CASE: This is not possible.
Cooper: No. It's necessary.
"
一人の人間を夢遊状態にし、できるかぎりの幻覚を経験させてから目を覚まさせました。はじめのあいだは、彼は催眠状態中の経過についてはなにもわかってないようにみえました。そこでベルネイムは、催眠状態中に何が起こったかを話すように求めたのです。その男はなにも思い出せないと主張しました。しかし、ベルネイムは要求さしつづけ、強制し、「君は知っているのだ。それを思い出さなければならない」と命令するのでした。するとどうでしょう。その人物はしばらくためらっていましたが、考えこみはじめ、はじめは暗示された体験の一つをおぼろげながら思い出し、つづいて他のものも思い出し、回想はだんだん明瞭になってゆき、いよいよ完全なものとなり、最後にはあますところなく思い出したのでした。しかも、彼は催眠状態後に思い出したのですし、そのあいだ、だれからもなにも教わっていません。ですから、彼が最初から催眠状態中の出来事を知っていた、という結論は当然でしょう。ただ、催眠状態中の出来事の記憶は彼の力では思い出せなかっただけのことです。彼は自分が知っていることを知らず、その出来事を知らないと信じていたのです。ところで、私どもが夢をみた人について推測した事実も、これにそっくりといえます。
『精神分析学入門』フロイト p132
"
私たちはドリーのように忘れっぽいということは稀だが、覚えていることがが眠って見る夢の場合は話が別になる。目がさめる直前こういう夢をみたという確信のようなものがあったはずなのに完全に目がさめてみるとそれが何だったのかほとんど思い出すことができない。それで何か夢をみたという感覚だけが残るということはよくある。その類似から、ドリーは記憶障害なのではなくて我々の現実と夢の感覚が入れ替わったものと考えるとどうだろうか。ドリーは起きながら夢をみている。
ファインディング・ドリー finding in the dream|kitlog
偶然『ファインディング・ドリー』の感想で夢と短期記憶障害を結びつけていた。『君の名は。』では三葉(声:上白石萌音)と瀧(声:神木隆之介)は短期記憶障害ではないが、彼らが映画内でほとんど夢を見ている状態にあるのでそれと近い状態にみえる。けれど、ドリーと違うところは彼らの夢は現実と繋がっているので、現実にメモをとることができるし、常に友人や家族が話を聞いて自分のことを覚えていてくれているということだろう。彼らはおそらく一ヶ月ほど入れ替わりを経験するが、メモや友人、家族のおかげで夢の内容を保持し入れ替わり先の人物がどういう人かを理解し、お互いがお互いのことを夢のような設定でありながらも確実に存在しているという感覚を与えあい、存在していると思う(われわれ観客もそう思わされる)。それは『アリスのままで』で描かれているようなアルツハイマー患者の行動そのものだが、夢の表現ということでその描写は重苦しいものではなく、あくまでコミカルに描かれている。
(『映画とは何か』 アリスのままで|kitlog)
突然、入れ替わりは途絶えてしまう。奥寺先輩(声:長澤まさみ)とのデート中に夢のなかで出てきた風景が写真展にあったことと「他に好きな人がいるんじゃないの?」と問われて、瀧は三葉の存在を確かめたくなる。電話は緊急用との注意書きがあるが電話をかける、けれど繋がらない。そしてそれ以降、入れ替わりは起きなくなってしまう。あとからわかるがこれは三葉側の事情によるものだ。瀧は自分は存在していないものに思いを馳せていただけなのかどうかを確かめるために、写真展での写真が撮られた地域と自分の記憶、それをもとにして書いたスケッチだけを手がかりに岐阜へ向かう。入れ替わりがなくなって記憶だけを頼りにそれを書くのだが、その記憶が消えてしまう前に何かを書こうという描写は作家としての表明なのか過去の自分のオマージュなのか。スケッチを元にたどり着いた場所で彼が発見したのは、無惨にも破壊され尽くしてしまった町の痕だった。彼が探していた町は三年前に隕石の衝突で消滅していた。彼は地元の図書館へ行き当時の状況を記したものを調べ、被害者のなかに三葉の名前を見つける。町民のほとんどはその隕石の衝突で亡くなっていた。瀧はここで記憶がかすみはじめる。三葉を探していたその最中に「誰を探していたんだ」と言ったりする。
映画が人々への愛に負っているものについて、ここで手短かに述べておきたい。ロバート・フラハティ、ジャン・ルノワール、ジャン・ヴィゴ、そしてとりわけ チャップリンの芸術を完全に理解するには、彼らの作品が、どういった特色のある優しさ、どのような肉体的、感情的な愛情と映し出しているのか、あらかじめ 知っておかなくてはならない。映画は他のすべての芸術にまさって、愛にふさわしい芸術であると私は思う。小説家であれば、登場人物との関係において愛より も知性を必要とする。小説家の愛し方とは、何よりも理解することだからだ。チャップリンの芸術を文学に置き換えたとしたら、やはりある種の感傷主義に堕す るだろう。そのために、まさに文学者らしい文学者で、映画的な詩情にはまるで縁がないアンドレ・シュアレス〔一八六八―一九四八年。フランスの作家〕のよ うな作家が、チャップリンの「卑しさ」を云々するのも仕方あるまい。しかし、映画においてはその「卑しさ」こそが神話的な気高さに結びつくのである。
『映画とは何か(下) (岩波文庫)』アンドレ・バザン p189
瀧は自分の記憶を全て絞り出して、三葉たちがお供えをしていた「口噛み酒」を思い出す。この映画では引き戸のカットがシーンとシーンを繋ぐ映画的な前置詞の役割を果たしている。引き戸ははちょうど真ん中にあって画面が半分に割られる。「たはかれ」が「かたわれ(片割れ)」と言い直され、隕石も半分に割れるが、そのようなイメージの積み重ねで世界には「半分」という概念があり「口噛み酒」が三葉の半身だとなんとなく理解させられる。瀧が思い出したのは三葉とそのおばあちゃん(声:市原悦子)との会話で「口噛み酒」がお祭りの儀式において巫女の半身だといっただけなのだが。とにかく瀧にしてみれば可能かどうかというよりも必要かどうかなのだ。見つけた酒を一口飲むと、三葉の記憶が彼のなかに入ってくる。細胞分裂から始まり子供時代を経て、瀧は再び三葉と入れ替わる。それ以前は意識していなかったが、瀧は未来を知るものとして三葉のいる町の人々を救うことを決意する。
コミュニズムの幽霊はかつては未来から呼びかけてきたのに対し、今日では過去から呼びかけてくる、まったく対照的ではないか、と思われるとしたらそれは誤解である。幽霊との関係の「脱臼」した時間性、out of jointの時間性は、両者の区別を決定不可能にしてしまう。「幽霊の固有性とは、もしそんなものがあるとしたら、それは幽霊が回帰するもの=亡霊として、過去の生者を証言するのか未来の生者を証言するのか分からない、ということである。というのも、回帰するもの=亡霊は、約束された生者の幽霊の再帰をすでにマークしていることがありうるのだから」。死者の亡霊的回帰(revenir)も、その回帰がつねに来たるべきもの(a-venir)であるかぎり、未来からの呼びかけという要素をもつ。コミュニズムの幽霊はそのうえ、現存秩序の変革の可能性、つまりこの「来たるべきもの」そのもの、他者の到来としての「メシア的なもの」を証言する幽霊なのだから、それが未来からの呼びかけでもあることを否認することはできない――精神分析的意味では、「否認」することしかできない――のである。
『デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)』高橋哲哉 p259
未来から来たあるいは未来のことを確実に知っているという人間をそれ以外のひとは一体どうやって信用するのだろうか。隕石が落ちた日は偶然にも町のお祭りの時期だった。お祭りで楽しんでいる人たちをどうやって説得できるのだろう。未来のことには、単純に未だそれが起こっていないという理由のために説得のための証拠がないのだ。隕石は単に地球を通りすぎるということになっている。高校生の三葉らが行うのはテロを起こして発電所が爆発、山火事が起きてるということにして住民を避難させるというものだったが、役所の人間まで騙すことはできない。三葉(中身は瀧)では彼女の父親である町長を説得することができなかった。三葉の身体をして強引に避難させろといっただけでは「お前は誰だ」と怪しがられるだけだった。父親を動かすには三葉の記憶、瀧の未だ知らない記憶が必要だった。三葉(中身は瀧)は妹から昨日三葉が東京に行っていたのだということを知る。三葉も入れ替わりが三年ずれていることを知らないで、瀧に会おうとしていた。瀧はもちろん三葉のことは未だ知らない。けれど、瀧はそれを思い出すことができた。この映画では忘れない忘れてはいけないということ盛んに言われるが、それはずっと覚えているということではなく思い出せるということだろう。三葉(瀧)は、自分の身体がある山に行けば瀧(三葉)に会えると思っている。やがて二人は同じ場所に立ち、光が画面を二つに割って「半分」の概念を思い出させる。あの世とこの世の境目でもあるらしいその場所で黄昏時や彼は誰時とよばれるような瞬間が一時的に彼らを出会わせる。この時はじめて二人は瀧は瀧として三葉は三葉として出会う。二人は再びお互いを忘れないことを約束する。一時、三葉が自分が過去のニュースなどを見た記憶を再構成したものではないかと疑っていたが、瀧は再び彼女の存在を確認する。三葉は自分ではなかった。
政治的に見ると〈思考〉と〈行為〉の主な違いは、思考するときにはわたしは自己か、他なる自己とともにあるだけですが、行為を始めた瞬間から、わたしはほかの多数の人々とともにあるということにあります。
『責任と判断』アレント p175
三葉(三葉)は瀧の作戦を継続する。彼女は父親に住民を避難させるよう頼みに行くのだが、どう説得して町長であり父親である人物を動かしたかは描かれない。その場におばあちゃんがいたのが大きかったのかもしれない。避難訓練という妥協案のような解決で秘密の革命が成功し、その町の住民は過去を遡って救われることになる。映画は三幕構成で終盤には二人の大人時代が描かれる。二人とも高校生の時に起きたことをなぜか忘れているが、何かを探しているという感覚だけは残っている。彗星が過ぎ去ったあとで彗星のように割れてしまうのか、組紐のように重なるのかは言うまでもないだろう。
この世の、時代の、時間の関節がはずれていること、out of jointあるいはUn-fugeが、ハイデガーにとっては不正の極みであるのに対し、デリダにとっては正義のチャンス、正義の可能性なのである。
『デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)』高橋哲哉 p253
関連 (メタ 『シン・ゴジラ』としての『君の名は。』|kitlog)
9/10/2020
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