仮面の告白 デッドプール(Deadpool) ボーダーライン(原題Sicario)

エリートFBI捜査官のケイト(エミリー・ブラント)は、肥大化するメキシコ麻薬カルテルを潰すためにアメリカ国防総省特別部隊に選抜される。特別捜査官(ジョシュ・ブローリン)に召集された彼女は、アメリカとメキシコの国境付近を拠点とする麻薬組織ソノラカルテル撲滅のための極秘任務に、あるコロンビア人(ベニチオ・デル・トロ)と共にあたることに。しかしその任務は、仲間の動きさえも掴めない通常では考えられないような任務であった。人の命が簡単に奪われるような状況下に置かれ、麻薬カルテル撲滅という大義のもとどこまで踏み込んでいいのか、法が機能しないような世界で合法的な手段だけで悪を制せるのかと、善悪の境が揺さぶられるケイト。そして巨悪を追えば追うほどその闇は深まっていく……。
ボーダーライン | Movie Walker

ボーダーライン
(Sicario (2015 Movie - Emily Blunt) Official Trailer – “Welcome to Juarez” - YouTube

昔の知り合いから「幽霊」と揶揄され、いつも無表情のアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)が一番人間的に見えるシーンはどこだろうか。この映画はケイトが観客の心情の代わりをするようなかたちで進む。彼女はFBIだがモラルや法や正義というのを全く信じているような人物だ。彼女はカルテルを潰すという目的で特別部隊に入るも何をどうすればいいのか状況がどうなっているのかこれから何が起こるのか全くわからない立場に立たされる。状況を理解しているのはアレハンドロとマット・グレイバー(ジョシュ・ブローリン)だけだが、彼らは何も大したことは話さない。その場その場で的確に最小限の命令をするだけだ。そのわけの分からなさと彼らの超法規的行動の中の不安が次第にケイトを蝕んでいき、禁煙を解き酒を飲み徐々に憔悴していく。その状況を見かねたケイトの相棒のレジー・ウェイン(ダニエル・カルーヤ)は彼らに尋ねる。「一体何が起こっているんだ。何をしようとしている?(状況がわからないという)暗闇をそのままにしないで教えてくれ」と。彼らが「何が知りたい」と尋ねるとレジーは空気を読まず「全てだ」とこたえる。マットは「クソ法律家め(f***)」と半ば呆れるようにレジーを見つめ、アレハンドロとマットは渋々(と見せかけて)こたえる。「われわれが行っているのはカルテル内部に混乱を起こすための作戦だ。内部で混乱が起きれば必ずカルテルのボスが動く。そうすれば、ボスを捕まえる(殺す)ことができる。カルテルは数えきれないほど多くの人々を殺害しているから、彼らのボスをたたくことはワクチンを発明することに匹敵する」おおよそこのような説明をしていた。このシーンのアレハンドロが最も人間的だった。その説明はもちろん嘘なのだが、その時のアレハンドロの表情が唯一気さくな感じがした。彼はCIAの麻薬戦争に加担するふりをしながら、後半で明らかになるが全くの私怨で動いている。つまり大義といったものはないのだ。そこで彼らが語った大義や理想のような嘘は言わば仮面で、物語の後半堂々とその仮面は脱ぎ捨てられる。仮面が脱ぎ捨てられたあと残るのは一人の男の復讐心だけで彼は自分の妻を殺し娘を酸に浸した男を家族とともに殺す。

「自由意志」に関するわれわれの直観、「原因と結果」に関するわれわれの直観などが、どれほど架空のものにしか過ぎないか、ということ――諸々の思考、イメージ、語たちなどが、実は、いかなるレヴェルに至るまで、そういう思考の徴候にしか過ぎないか、あらゆる行動はどれほど不可解で、うかがい知れない動機をもつか、ということ――ひとを称賛したり、非難したりする行為は、いかに表面的な局面にとどまっているか、ということ――われわれが行なう意識的な生活は、その本質的な部分においては、どれほどわれわれが作り出した架空の産物と想像の産物の世界のなかで営まれているか、ということいかにわれわれは、自分が作り上げた架空の産物(われわれの感情でさえもそうした作り物である)について以外のことは語ることができないか、ということ(p102)

強い者にとって現実の認識が、すなわち現実への肯定が、やむにやまれぬ必然性であるのは、ちょうど弱い者にとって、現実に対する怯懦が、また現実からの逃避が――つまり「理想」が――やむにやまれぬ必然性であるのとまったく同じである。そういう弱い者は、弱さからインスピレーションを受けて、そんな逃亡をせざるをえない……。だから弱い者は認識しようと望んだからといって、彼の思い通りにはならない。デカダンたちは、嘘を必要としている――嘘は、彼らの存在条件の一つなのである。(p139)

ニーチェ (ちくま学芸文庫)』ジル・ドゥルーズ 



好き勝手に悪い奴らをこらしめ、金を稼ぐヒーロー気取りな生活を送っていた元傭兵のウェイド・ウイルソンは、恋人ヴァネッサとも結婚を決意し、幸せの絶頂にいた矢先、ガンで余命宣告を受ける。謎の組織からガンを治せると誘われたウェイドは、そこで壮絶な人体実験を受け、驚異的な驚異的な治癒能力と不死の肉体を得るが、醜い身体に変えられてしまう。ウェイドは、赤いコスチュームを身にまとった「デッドプール」となり、人体実験を施したエイジャックスの行方を追う。
デッドプール : 作品情報 - 映画.com

デッドプール
(デッドプール 海外版予告(2分50秒) - YouTube

奇妙な仮面をかぶっている男がもう一人いる。もちろんデッドプール=ウェイド・ウィルソン(ライアン・レイノルズ)のことだが、彼は寡黙なアレハンドロと違ってさながらYouTuberのようにしゃべりまくりこちら側にまで話しかけてくる。第四の壁といわれるらしいが、彼はそこを突破して自由に物語を語り進行し編集し批評する。彼の行動の動機も復讐だ。恋人のヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)とラブラブな時に末期癌であることがわかり、彼女のために救いの手段を求めるもだまされて人体実験を受けることになる。超人のエキス(?)を活性化させるためにありとあらゆる拷問を受け、最後には酸素の供給を気絶するまで絞って気絶するとまた酸素を供給しまた絞りというのを繰り返す拷問を受け、何度も死にかけるも超人としてのパワーを得ることに成功する。しかし癌が体中に身体にプラスになるかたちで転移したということなのか、顔がグシャグシャになってしまい以前の面影を有していない(というほどひどくは見えなかったが)。ちょうど顔の皮を一枚剥いだようになっている。そのせいで彼女に会うことができない。会いに行っても嫌われるだけかもしれないという思いが重くのしかかる。デッドプールは自分の顔を治すため、また自分の顔を変えた人間に復讐するためにマスクをしてタクシーに乗って敵を追いかけていく……。

ウェイドはマスクをしていない時はパーカーで顔を隠していても見知らぬ他人からゲテモノを見るような目で見られる。彼の友人がアボカドとアボカドがセックスをしてできたような顔とかフレディみたいな顔とか冗談めかしていっているが、事情を知らない人が見たら驚くのも無理は無い。というわけで彼はその友人以外には、自分の顔を見ることができない盲目の老婆しか普段過ごす相手がいない。ウェイドはその盲目の老婆と何故か同居している。普通のヒーローと違って彼の場合、顔が奇妙に変わってしまい普通の生活ができないのが特徴だろう。彼の場合、自分の素性を隠すためだけではなく自分の醜さを隠すためにも仮面をつけている。普通のヒーローの場合、例えば『シビルウォー((超人が超人であるために シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ|kitlog))』のように彼らはマスクを付けて大義を語るが、デッドプールにはそのような大義が存在しない。なぜなら彼はマスクを付けて初めてヒーローではなく人間らしく振る舞えるからだ。マスクをしていないときはパーカーで影を作り下を向いてひっそり歩くほかない。しかし仮面をつけると違う。それは彼の皮膚なのだ。彼の顔の皮を一枚剥いだような顔面を覆う一つの皮膚で彼はやっと人間のように振る舞える。だから彼はヒーローでありながらどこか人間らしく振る舞う。理想やヒーロー的な建前を必要とせず、俺ちゃんの身の回りのことが大事なのだ(デッドプールの世界観では未だ世界の危機は起こっていないが、そういう場合どう行動するのかは注目に値するだろう。)俺ちゃんの身の回りというのは現実と虚構の境界にも及び、その境界にある仮面についても自覚的に批評していく(「こういうのが好きなんだろ?」「この映画は予算無いの」といった風に。この能力が単にギャグとして生きるだけなのか、何か奇跡を起こす手段になるのかは気になるところだ)。

神の殺害者は「人間たちのなかで最も醜い男」なのである。ニーチェの言わんとすることは、人間がある外的な権威を必要としなくなって、これまで受動的に禁じられていたものを自分自身で禁止し、自発的に警察力と重荷を背負う時、つまりもはや外から来るとは思えない禁圧の力や重荷を自ら引き受けるとき、人間はさらにいっそう醜くなったということである。こうして哲学の歴史は、ソクラテス学派からヘーゲル主義者に至るまで、人間の長い服従の歴史であり、その服従を正当化するために人間が自分に与える数々の理由の歴史なのである。

ニーチェ (ちくま学芸文庫)』ジル・ドゥルーズ p41

フランシス(エド・スクレイン)の魔の手からヴァネッサを救ったデッドプールは彼女の前で仮面を脱ぐ。仮面の下にもう一つヒュー・ジャックマンの仮面を周到に用意していたデッドプールだが観念して素顔を見せる。そこにあるのは世界で最も醜い顔だったかもしれないが、上の引用に照らせば彼は最も美しい男だったに違いない。少なくとも彼女にとっては。そしてわれわれにとっても?

締め付けには3つの形がある。まず政府による抑圧が増えている。数カ国で言論統制が敷かれた。ソ連の崩壊後、ロシア国民は自由で闊達な議論を享受したが、プーチン氏の下で再び制限されている。面倒な質問をした記者は今は労働収容所に送られることはないが、命を奪われる。

中国の習近平国家主席は権力の座に就くやソーシャルメディアの検閲を強め、政府と意見を異にする人を何百人も逮捕し、大学で自由な議論を封じてマルクス主義の講義を増やした。中東ではアラブの春で言論の自由が生まれたが、シリアとリビアの現状はアラブの春以前より悪化している。エジプトでは「私以外の言うことは聞くな」と話す人間が実権を握る。

2つ目は、暗殺という形の検閲だ。メキシコでは犯罪や汚職の調査報道に携わる記者が拷問され、しばしば殺される。イスラム過激派は自分たちの信仰を侮辱した人物を虐殺する。バングラデシュでは、宗教と政治は分けて考えるべきだとブログで訴えた男性が路上で斬り殺され、フランスの漫画家は職場で射殺された。

3つ目は、誰でも侮辱されない権利があるという考え方だ。確かに気配りは人間関係には不可欠だ。だから何でもないように聞こえるが、これが権利になると、誰かを不愉快にさせる発言がないか、絶えず監視が必要になる。不快の感じ方は主観的なので、取り締まりは広範で恣意的になる。

欧米では多くの学生がその権力の行使に賛成している。男性はフェミニズムについて語る権利がないとか、白人が奴隷制度を語るのはおかしいなどと言って、人種や民族、障害者など特定の集団の利益を代弁する政治活動に熱中する学生もいる。別な学生はライス元米国務長官や、イスラム教に批判的な活動家アヤーン・ヒルシ・アリ氏などの著名人が、キャンパスで講演するのを阻止した。
自由な議論が脅かされている  :日本経済新聞
9/10/2020
更新

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