女の子の実存 リトルプリンス 星の王子さまと私
母親の勧めで進もうとしている進学校の学区内に引っ越してきた9歳の少女は、母親の言いつけを守り友だちも作らずに一生懸命勉強に励んでいた。そんな中少女は、壊れた飛行機を修理したり望遠鏡を夜空に向け眺めたりしている隣家の老人が気になり、母親の目を盗んで老人と親しくなっていく。彼はそれまで誰にも話したことのない特別な話をしてくれた。それは、以前彼が飛行士だったときに不時着した砂漠で出会った不思議な少年の話だった。小さな星からやってきた、一輪のバラと仲良しの少年……少年とは星の王子さまであり、老人はあの飛行機乗りの青年だった。ある日老人が病に倒れてしまい、少女は彼がいつかまた会いたいと言っていた王子さまを探しにオンボロの飛行機に乗って飛び立つ。
リトルプリンス 星の王子さまと私 | Movie Walker
(映画『リトルプリンス 星の王子さまと私』日本語吹替版予告編【HD】2015年11月21日公開 - YouTube) |
「だから、この映画のことを聞いたとき、すぐにやりたいと思ったの。私が演じるキャラクターはとても頭がよくて、優しくて、ちょっと風変わりで、ものすごく生真面目なタイプなの。彼女とお母さんは新しい町に引っ越してきたばかりで、お母さんからのプレッシャーがとても大きいのよ。彼女は新しい学校でもいい成績をとることを期待されているの。まだ9歳ぐらいなのに、年のわりにすごく大人っぽい。そんな彼女が、飛行士と友情を築くことによって、また子供に戻っていいんだということを教わる。飛行士が彼女から離れなくて済むように、彼女は王子さまを捜しにいくの」
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映画は女の子のワース学園への転校のための面接からはじまる。女の子は壇上に立ち、面接官の質問に答える。顔色の悪い面接官は言う。「どんな大人になりたいですか?」女の子は答える。「はい、もちろんです。その3つの理由を……」女の子は母親と一緒に事前に用意した「運命の質問」に対する答えを練習どおりにジェスチャーを交えて披露するが、質問の内容が変わっていた。女の子の内部で「フレーム問題」が生じ、バタン、彼女は壇上で気絶(フリーズ)してしまう。運命の質問、「君はワース学園にふさわしいか?」。
シングルマザーの母親と女の子の家族は面接を諦め、プランBつまり学園の校区内の格安の物件に引越し自動的に学園入れてもらうことにする。そうやって入学したとしても、やはりワース学園にふさわしい生徒でなくてはならない。引越ししてきて早々母親は女の子にマグネットの計画表をプレゼントする。そこには女の子の人生のプランが全て分刻みで表示されていた。そこに書いてある予定をこなすとマグネットを動かし、遅くに帰ってくる母親にそのことを伝えるという仕組みだ。女の子はいつも時計をしており、タイマーが次の予定を知らせてくれる。後に、女の子が友達ができたと言って、母親に遊びに言っていいかと訊くが、それは「○年後のお昼の30分の間ね」という具合にスケジュールがびっしり詰まっているのだ。電車のレールの脇の空間には入ってはいけない。入れるとしても踏み切りの開くその間だけである。母親は踏み切りの空く時間が数年後だと宣告している。ワース学園校区内の町の様子が電車の比喩を使わせる。母親にとって、そのマグネットが女の子の本質であるのだ。そして、そのマグネットに従った人物がワース学園にふさわしいのだ。
「本質」とは、目に見えないもので、物の場合ならば、その物の性質の総体、要するに、どんな素材であるのか、それはどのようにつくられるのか、何のためにつくられるのか、といったことの総体です。
ここで例に挙げられているのは、ペーパーナイフです。その製造法や用途を知らずに、ペーパーナイフという物をつくることはできない。ペーパーナイフとはどういうものかを、あらかじめ職人は知っている。だから、職人はその本質を心得ながら、ペーパーナイフという実際の存在、実存をつくる。つまりこの場合には、「本質が実存に先立つ」わけです。それはペーパーナイフに限らず、書物でも、机でも、家でも、みんな同じです。
『NHK 100分 de 名著 サルトル『実存主義とは何か』』p18
女の子は、はじめその「本質」に従うが、すぐにその「本質」に闖入者が現れる。彼女らが引っ越してきた格安物件は隣に「変人」が住んでいた。変人と言っても、初期のコルビュジェが考えたような画一的な白い箱が並ぶ町の中で、ガウディのグエル公園にあるようなオブジェがある風変わりな木造の家に住んでいるおじいさんで、庭にオンボロの飛行機があり、それを密かに飛ばそうとしているというだけだ。その飛行実験が失敗しプロペラが女の子の家に穴を開ける。女の子は警察と保険会社に連絡し、お詫びにということで女の子はおじいさんから小銭を貯めた大きなガラス瓶をうけとる。
母親と女の子は、もちろんおじいさんのことを怪しんで危険だと思っている。ある日、女の子がマグネットに従って数学の(フッサールが幻滅を感じた数学の)勉強をしていると、窓から紙飛行機が飛んでくる。それは、おじいさんの書いた物語『星の王子さま』のはじめのページを折ったもので、おじいさんは女の子に友達になろうと呼びかける。女の子はそれに応じず、その最初の一ページも興味を示さず、少し読んでゴミ箱に捨ててしまう。
女の子は後にその物語に興味を示すようになるが、それはどういう理由だったのだろうか。女の子は母親から小銭を数えるように言われ、それを快く引き受ける。瓶を傾けて机の上に小銭を全て流し出す。予めつくっておいた同じ長さの紙筒に小銭を流し込み、数えていく。その途中で、女の子は指に痛みを感じ見てみると、血が滲み出ている。原因を探すと、小銭の中に『星の王子さま』のキャラクターや小道具のおもちゃが隠れていて、王子の剣が指に刺さったのだった。女の子はその時点からおじいさんのつくった物語に興味を持つようになる。この出会いは想像的なものに人が最初にどう触れるかについて教えてくれるかもしれない。人が存在しないものについての志向性をどうやって手に入れるのか。
”人間は、ただ知覚のレベルでだけ生きるのではなく、過去や非現実的なもの・想像的なもの・理念的なもの・文化的なものといった、さまざまな違った存在次元の「諸対象」の経験をももつのだ”が、女の子の指に血を流させる危険なものとして、まずは知覚のレベルとして経験されなければ、それとは違った存在次元の経験は不可能ではないだろうか。紙に書いてあった物語の一ページはその時の女の子にとって「想像的なもの」すぎるが、彼女の指に血を流させた物語のキャラクターは現実的なものであり、彼女にとって知覚可能なものだった。
女の子はゴミ箱に捨てた物語を拾い、読み進めると自分がそれに興味を持っていることに気づき、おじいさんに物語の続きを聞きにいく。物語の続きをということが重要だ。女の子は物語について現実的におじいさんに質問する。いわば、大人の思考だ。女の子は大人のふりをして物語を批判する。「~は矛盾していておかしい」だとか「~のわけがない」などといった批判だ。「こんな小さな星に王子が住んでいるわけがない」。これでは、女の子は彼女の母親と同じだ。何か本質が予め存在していて、それに従うかたちで物語を批判しているのだ。それに対して、おじいさんはこう答える。「彼が羊を欲しいと言ったから、彼は存在する」と。現象学では「すべての意識は何ものかの意識である」ということが語られるが、女の子が目にした『星の王子様』のおもちゃは一般的には説明不可能なものというか、おじいさん以外にそれについて語りえないものであり、何ものかはおじいさんで一般的な「本質」はそのおもちゃには存在しないといったように不思議なものである。それはペーパーナイフのようには説明できない。
赤ん坊の特性は、ピアジェが想定したように「独在論的」(solipsiste)なのではなくて、「他人を仲介としての物」という関係が重要な構造をなしていることがわかる。主観が直接に物に対面する、というのがピアジェの考えであるが、これは、赤ん坊を抽象性において考えたものであり、赤ん坊のじっさいの生活は「赤ん坊・親・物」という三角の関係とみるべきものである。(p311)
ピアジェは「主体―物」という図式を基本ととったので、したがって、「他人」というものをも、「物」の自覚、「物」認識というモデルの下に理解することになった。こうして他我の存在が物と同じ次元でとらえられることになる。(p313)
『ピアジェ (1980年) (岩波現代選書〈55〉)』M.A.ボーデン
女の子とおじいさんはすっかり仲良くなり、女の子はおじいさんの書いた物語を読み進めていく。しかし、人の人生に死が訪れるように物語にも終わりが来る。この映画に即していえば、おじいさんの寿命が残り少ないから物語が終わってしまうというほうが正確かもしれない。おじいさんは自分の命がもう長くないことを女の子にそれとなく伝える。そして、物語にはもう続きがないということも。そのことに女の子はまったく納得しないというか理解しない。女の子の父親は仕事が忙しいために家から自分勝手に出て行ったことになっているが、おじいさんもそうなのではないかと女の子は勝手に思って怒っている。しかし、おじいさんには本当に寿命がないのだ、そしてそれを真正面から伝えることもできないでいた。「王子とバラはどうなったの?」「確かなことはいえない、しかしわしは王子を信じておる」といったような曖昧な返事しかおじいさんはすることができない。物語の続きがないことに怒った女の子はおじいさんの家を飛び出し、自分の部屋の壁、天井一面に飾り付けてあった蛍光塗料のついた星をすべて掃除機で吸い取ってしまう。そして、彼女は元の生活に戻っていった。
雨の日の夕方、救急車が老人の家で赤ランプを明滅させている。女の子は茫然として救急車を眺めそれが病院へ向かうのを見て、咄嗟に自転車で追いかける。女の子はおじいさんが死に直面していることを知るが、たいていの人間と同じように何もできない。もし誰かが死んでしまったら、それを受け入れるしかない。しかし、どうやって。女の子は毎年誕生日に送られてくる父親からのスノードーム、それも毎年同じ種類で中にビルの群れだけがある、の後ろに隠しておいた(おそらくおじいさんと喧嘩したあとに)『星の王子さま』のおもちゃを見つけて、王子を探しに行こうと決意する。それはなぜだろうか、というのは彼女がその先に描いた物語を見れば分かる。
芸術作品というものが持つ必然的な秩序を、サルトル自身が自覚したのは、映画を見ていたときだったそうです。映画という芸術には、シーンやシークエンスが時間に沿って必然的にひとつの流れをつくり出す、きわめて高度な秩序があります。ロカンタンは、人生そのものを必然的なものにするために、物語のように生きようとして失敗した。しかしこんどは物語のように生きるのではなく、物語をつくろうとする。偶然的な実存の世界を去ることはできないけれど、その世界の中で一つの必然的な秩序を持ったものをつくろうという方向にいくのです。
『NHK 100分 de 名著 サルトル『実存主義とは何か』』p47
おじいさんに物語の続きを受動的にねだっていた女の子は今度は主体的に自分の物語を描こうとする。おじいさんによって描かれた物語の本質(設定)は女の子の実存(経験)によって少しずつずらされていく。それはもう本来の『星の王子さま』とは違ってしまっている。女の子はキツネとともにおじいさんの家の飛行機で空に飛び出し、王子のいる星を探す。王子を見つけたのは、父親が送ってくるスノードームを具現化したようなビルだけの星だ。そこで王子は大人の格好をしていた。王子は大人になるための学校(機械?)を卒業してビル掃除の仕事をしていた。そしてそこではなぜだか失敗続き。この大人の王子は何を意味しているのだろう。後半の女の子が描いた『星の王子さま』の続きは彼女の経験したこと、実世界のものも物語世界のものも含めて、がベースになっている。『星の王子さま』のキャラクターや、ワース学園の面接、その校区内の町並み、スノードームや掃除機、そしておじいさんとの関係。『星の王子さま』では王子とバラが序盤で離れて、そこから彼らがどうなるかはわからない。そして女の子はそのことに怒っていた。現実世界で関係が離れてしまったのは、女の子とおじいさんである。とすれば、後半で描かれている大人の王子は女の子(あるいは将来そうありうる女の子)のことであり、儚いバラは命が消えかかっているおじいさんのことだろうと思う。
大人になった王子はすっかり想像力をなくしており、大人のいう「本質」に従うようになっていたが、女の子が見せた羊の絵(箱に3つの穴が開いた)で自分のことを思い出し、バラにもう一度会いに行くことを決意する。ここはおじいさんと喧嘩して離れたあとの女の子の心情そのものだろう。スクラップ工場(巨大な掃除機)でバラバラにされそうになっている飛行機を救い出し、おじいさんと喧嘩したあと女の子が大人の思考で掃除機に閉じ込めてしまった蛍光塗料の星たちを大人たちの邪魔を振り切って解放する。(キツネが大人の足を踏んづけるところがとてもいい)そして王子と女の子はバラ(おじいさん)に会いに飛行機を飛ばす。王子がもといた星を見つけるもバラはもう死んでいた。けれど、王子はバラのことは絶対に忘れないと誓う。それは女の子がおじいさんに言いたいことなのだ。最後に女の子と双子のような王子が突然現れるが、そのことが王子が女の子の代理であることを暗示している。手術後、一命を取り留めたおじいさんに女の子は『星の王子さま』の物語を彼女の書いた続きを込み(おそらく)で渡す。後半の物語は女の子からおじいさんへのラブレターであって、そのことはお互いに気づいているだろうと思う。女の子はおじいさんに「亡くなっても、おじいさんのことは忘れないよ」と暗に言いたかったのだ。
■「忙しい」が口癖。所有したがるビジネスマン
夜空に浮かぶ星を所有したがる彼は、ひたすら星を数えている。王子になぜ星を集めるのかと尋ねられると、「金持ちになれる」と彼は言う。何のために金持ちになるのかと尋ねられると「もっと星を買える。お金があればなんでもできる」。仕事やお金が一番大切と考える大人の象徴として描かれている。
■褒められたがりのうぬぼれ男
大きな帽子をかぶったうぬぼれ男は、人から拍手で称賛されることにのみ生きがいを感じる大人。帽子をとってお辞儀をするためだけに、帽子を被るような間抜けな男だ。「この星で一番、ハンサムで~」という自慢を王子にするが、「この星には君しかいないよ?」とひと言、言われてしまう。誰にでも褒められたい気持ちはあるとはいえ、それが行き過ぎた、賞賛の言葉しか耳に入らない大人の象徴となっている。
■支配したいだけの王様
自分の体面を保つこと、誰かを従わせることが大好きな王様は、いまにも頭から落ちそうな大きな王冠をかぶり、椅子にふんぞり返っている。王子に夕日が見たいとせがまれると「状況が整ったら」と答えるだけ。自分の権力が絶対と思い込み、人々に尊敬されたいという支配欲にまみれた大人の象徴だ。
「どんな大人になりたい?」…『リトルプリンス』の女の子が問われる永遠の命題 | シネマカフェ cinemacafe.net
この映画2週間くらい前に見て、映画のエンディングが『気づかず過ぎた初恋』ということもあって、単に星の王子のバッドエンド展開なのかとしか思えなかったのだが、最近になって違う風に解釈できるかもしれないというきっかけに気づくことができてよかった。
9/10/2020
更新
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