人間の人間扱い、生者と死者の間で 007 スペクター 

ダニエル・クレイグが6代目のジェームズ・ボンドに選ばれたとき、その売りは平然と人を殺しそうなタフネスとハードさだった。プレーボーイ・スパイのファンタジーではなく、リアリティーあるアクションが求められたのだ。もはや荒唐無稽なスパイアクションを求める時代ではない。だが、本当にそれで良かったのだろうか? ボンド映画の魅力が復古的な世界観にあるなら、それもまた逃げなのではあるまいか?
(評・映画)「007 スペクター」 前作から伏線、これぞボンド:朝日新聞デジタル

少年時代を過ごした ”スカイフォール” で焼け残った写真を受け取ったボンド (ダニエル・クレイグ)。その写真に隠された謎に迫るべく、M (レイフ・ファインズ) の制止を振り切り単独でメキシコ、ローマへと赴く。そこでボンドは殺害された悪名高い犯罪者の元妻であるルチア・スキアラ (モニカ・ベルッチ) と出逢い、悪の組織スペクターの存在をつきとめる。

その頃、ロンドンでは国家安全保障局の新しいトップ、マックス・デンビ (アンドリュー・スコット) がボンドの行動に疑問を抱き、Mが率いるMI6の存在意義を問い始めていた。ボンドは秘かにマネーペニー (ナオミ・ハリス) やQ(ベン・ウィショー)の協力を得つつ、スペクター解明のてがかりとなるかもしれないボンドの旧敵、Mr. ホワイト (イェスパー・クリステンセン) の娘マドレーヌ・スワン (レア・セドゥ) を追う。

死闘を繰り広げながらスペクターの核心部分へと迫る中、ボンドは追い求めてきた敵と自分自身の恐るべき関係を知ることになる-。
ストーリー - Spectre

007 スペクター
(SPECTRE - Official Trailer - November 6 - YouTube

率直に言ってこの映画から距離をとって眺めるのは個人的な理由で難しい。ただ、150分近くが嘘のように早く感じたことは確か。クリストフ・ヴァルツが敵のオーベルハウザー役(Oberhauser: It was me, James. The author of all your pain. )をしていることもあって、A is ボンド and A is オーベルハウザー.に見える、つまり『インサイドヘッド』のような一人相撲なのではないかということだが、何を言っているのかわからないかもしれない。「ナイン・アイズ」が全世界の情報を統合し支配しようとしているというモチーフもそうだが、拷問のシーンは直接的な痛みは伴うだろうが狙いとしては強制的に記憶を消すというものであるということも関連しているだろう。あの世界から隔絶したような砂漠は現実世界ではなくて精神世界ではないかというような疑問が湧いたとしてもおかしくはない。拷問の結果、ボンドの記憶が消えてしまえば彼はまた一人に戻ってしまう。けれど、そうはならなかった。

The dead is living.という警句とともにメキシコの死者の日を再現したところからはじまるシークエンスは圧巻だが、今日的に見てその警句はとても重要だ。

この間、フランスで同時多発テロが起こり、フランスのメディアがテロリストの行動を「kamikaze」と表現して話題になった。

パリで起きた同時多発テロ事件で、現地メディアが自爆テロ実行犯を「kamikaze」(カミカズ)=カミカゼの仏語風発音=と表現していることに、語源となった神風特攻隊の元隊員から憤りの声が上がっている。命をなげうち、祖国を守ろうとした特攻と、無辜(むこ)の民間人を犠牲にするテロを同一視するような報道に、元隊員は「国のために戦死した仲間は、テロリストとは全く異なる」と反発している。

「日本をなんとか救おうと、愛国心の一念から仲間は飛び立ち、命をささげた。テロと特攻を一緒にするのは戦友に対する侮辱であり、残念至極だ」
特攻隊は「テロリストとは違う」「戦友への侮辱だ」 仏報道に88歳元隊員憤り(1/2ページ) - 産経WEST

我々は現実を表現する時にしばしば死者を用いる。死者とは対話が不可能であるから、その情報が更新される確率や可能性は低い。なのでそれは概念的に安定して用いることが可能になる。言葉として用いることができる。同時に、それについて理解することが生者に比べて相対的に難しくなるために、容易に聖化されたり悪魔化されたりする。つまり、イデオロギーの対象になりやすいのだ。イデオロギーとは同一性の観念をめぐる思考のことというか、違うものを同じに見るということがイデオロギーそのものである。上のkamikazeの例では、それを聖なるものと同一視するか、悪魔的なものと同一視するかを争っているのだ。そこにグレーゾーンは存在しにくい。よって、死者を使って生者を表現することが最も危険なことの一つであることは間違いないと思う。

社会についての判断の唯一の規準として取り上げられる民主的自由、それが自由の原理を認め、少なくとも国内で行われることであるために、それがあちこちで行使するあらゆる暴力の罪から免れている民主主義、一口でいえば、逆説的に分離と偽善の原理となった自由、それはすでに戦争の態勢である。反対に、他人を理解することを求め、我々みんなを統合する自由からは、決してプロパガンダを引き出すことはできないだろう。
(略)
ある体系がおそらく我々を断罪するということは、それが絶対悪であることを証するものではないし、場合によっては我々がそれに正しさを求めることだってあり得る。もし我々がそこに我々の生命に対する脅威しか見ないことに慣れるならば、我々はあらゆる手段が善となる死闘のなかに入る。つまり、神話、プロパガンダ、暴力の働きの中に入るのだ。この陰惨な見通しの中では、人はなかなかうまい議論はできない。しかし、このようなことが起こり得ることをひとたび理解することは必要であり、そして生者として考えることが必要だ。(P31,32)

人が表明する哲学がいかなるものであれ、たとえ神学的なものであれ、社会というものは決してその記念碑の正面や憲法条文にかかげられている価値偶像の寺院ではなく、その中における人間と人間との関係そのものなのだ。(P2)

ヒューマニズムとテロル (1965年)』メルロ・ポンティ

ある生者を対話不可能なものとみることはその者との人間の関係を硬直化させてしまう。われわれはしばしばテロを行って死んだ人間、自爆テロを行った人間を悪魔化したがる(相手側は殉教者として聖化したがるだろう)が、そうやって悪魔化した何かつまり死者を見るような目と同じ目で生者を見てはいけない。死者に概念的にグレーゾーンが存在しにくいように、生者も概念的に見てしまうおそれがある。生者はあくまで対話可能であり(必ず説得可能という意味ではないが)、おおよその人間は聖だの悪だのといった烙印を押されているわけではない、それらはいつでも修正は可能なはずである。もちろん生者として存在する限り、死者として概念的に存在するのではない限り。生者の概念は常に揺れている(と信じたい)。そして、「You ain't no Muslim bruv(あんたなんかムスリムじゃないぜ)」と言われた彼は、まずその生に対して疑問が持たれるべきなのだ。「なぜそんなことをしたのか?」と。((London terrorism suspect was paranoid from pot: brother - NY Daily News))

コミー長官は上院司法委員会での証言で、FBIの捜査によって、米国生まれのサイード・ファルーク(Syed Farook)容疑者とその妻でパキスタン出身のシュフィーン・マリク(Tashfeen Malik)容疑者が、外国のテロ組織に感化され、遅くとも2013年の時点で既に「ジハード(聖戦)や殉教」について語り合っていたことが分かったと述べた。
米乱射の容疑者夫婦、交際前から過激化 3年前にも攻撃計画か 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News

殉教とは死者に自分を重ねていくことに他ならない。教えとは過去からくる死者(対話不可能なもの)の言葉で、殉教はそれに絶対に服従することだが、殉教ではその言葉の上に次々と死者がピラミッドのように積み上がっていき現実に力を持ってしまう。

ここでわれわれに関係があることは、この宗教が他のそしてより優れた宗教と同様に殉教者をもっている、ということである。すなわち、この宗教の予言者でありまた開祖であった人物は、その教えのために暴徒によって虐殺され、信徒たちの或るものもまた同様の不法の暴力によってその生命を失い、さらに信徒たちは全員挙って彼らが成長した地方から強制的に放逐された、ということである。

自由論 (岩波文庫)』ミル p184,185

M: A license to kill is also a license not to kill.

C(アンドリュー・スコット)が全世界の情報を支配しドローンで統治しようというのに対し、M(レイフ・ファインズ)は時代遅れのスパイの重要性を説くが、それは彼がたとえ相手を殺す場合でも相手の目を見て引き金を引く、つまり相手を人間扱いしようということだ。もし自分がドローンに狙われていて、それが目の前に現れたとしたらどうだろう。それはまるで死者のように説得不可能な相手である。それに対してなにを言えばいいのか、どういう表情をすればいいのか、ドローンに対してはグリーンバックの下で孤独に演技をしている俳優のようにならざるを得ない。ドローンに人間扱いされないことによって、そのまま人間としてどう振る舞えばいいのかというより人間的な振る舞いが封じられてしまう。

物語の終盤、ボンドはオーベルハウザーを追い詰め銃口を彼に向ける。が、ボンドは敵を撃たなかった。このシーンがこの映画に歯切れの悪さをもたらしているのは間違いないが(歯切れの悪さとはどこから生じるのか)、彼が砂漠に向かう列車内でマドレーヌ(レア・セドゥ)になぜ殺し屋をやっているのか問われたように(そしてボンドは単に子供の頃からそう決まっているだけと答えるのだが)、彼の本質は殺し屋として予め決定されているわけではないのだ。彼が生きていればそれは変更可能である。それは、相手のオーベルハウザーにとっても同じだろう。彼を殉教させてはいけなかった。彼を概念にしてはいけなかったのだ。下のように。

James Bond: Where is he?

Mr. White: He is everywhere.
9/10/2020
更新

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