二つの木馬、映画の世界 ブレードランナー 2049

2049年、カリフォルニアは貧困と病気が蔓延していた。労働力として人間と見分けのつかないレプリカントが製造され、人間社会と危うい共存関係にあった。しかし、人類への反乱を目論み社会に紛れ込んでいる違法な旧レプリカントは、ブレードランナーと呼ばれる捜査官が取り締まり、2つの社会の均衡と秩序を守っていた。LA市警のブレードランナー・K(ライアン・ゴズリング)はある事件の捜査中に、レプリカント開発に力を注ぐ科学者ウォレス(ジャレッド・レト)の巨大な陰謀を知ると共に、その闇を暴く鍵となる男、かつて優秀なブレードランナーとして活躍していたが、ある女性レプリカントと共に忽然と姿を消し、30年間行方不明になっていたデッガード(ハリソン・フォード)にたどり着く。デッガードが命を懸けて守り続けてきた秘密とは? 二つの社会の秩序を崩壊させ、人類の存亡に関わる真実が明かされる……。
ブレードランナー 2049 | 映画-Movie Walker

映画『ブレードランナー2049』 | オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

ブレードランナー2049
(映画『ブレードランナー 2049』予告2 - YouTube

1982年に上映された『ブレードランナー』のテーマはキャラクター論だった。「だった」というが、これは周知の事実というわけではなく、それは私の意見である。キャラクター論といっても、それは脇役のキャラクター論である。レプリカントは人間と主従の従の関係にあり、過去を持たず、寿命が四年と極端に少ない。これは映画における脇役の比喩だろう。彼らは主役のために存在し、主役のようには過去を明示されず、アクション映画であればすぐに死んでしまうか、そうでなくてもすぐ忘れ去られていくような存在である。この映画は主人公がデッカード(ハリソン・フォード)という人間になっていながら、焦点が当たっているのは、ずっとその脇役たちである。それは彼らの反乱の挫折の物語である。脇役は主役に道を譲らざるをえない。

過去を持たないということは行動原理(一般的な原理とは違う)がないということでもある。過去のない人物は何に従って行動すればいいのか、何も説明するものを持ち合わせていない。すると、反射的に今の悪条件をなんとかしようと思って、彼らは自分の寿命の短さという短所をどうにかするということだけを考える。レイチェル(ショーン・ヤング)というレプリカントは例外的に過去の記憶を与えられている。彼女は不意にピアノを引き始め、それはタイレル(レプリカントたちの生みの親)の姪の記憶なんじゃないかとデッカードに冗談ぽく言われる。彼女はそのことを嫌っていたが、徐々にそれを受け入れ始める。ブレードランナーにとってレプリカントはすべて「解任(処刑)」対象だが、デッカードは他のレプリカントに襲われていたところをレイチェルに救われて彼女を特別だと思っていた。この救いが重要である。『ブレードランナー2049』ではレプリカントの生まれる瞬間が描写される。一人の大人に成長した女性がビニールのような長い膜の中を滑り落ちる。彼女は怯えている。ウォレス(ジャレド・レト)は赤ん坊は生まれた瞬間に自分がそこで生存できるかどうかという恐怖をおぼえるのだという。そこに人間の最初の救いの瞬間がやってくる。われわれはその子にあらゆる手をつくして「大丈夫だ」と言い聞かせなければならない。人間は他の動物よりも未熟に生まれてくるため、そうしなければ死んでしまうだろう。ウォレスはこの救いの瞬間を放棄し、生殖能力のないレプリカントは失敗作だとして殺した。しかし、この救いの記憶(生まれた瞬間というのは象徴的な意味でであって、子供は何度も大人に助けられ救われないと生きていけない)がレプリカントに与えられていたら、他人を救うことができるのではないか。おそれくそれが人間性の秘密だろう。デッカードがレイチェルに見たのはそのような記憶と行動に関する奇跡である。

人間の赤ちゃんは、生まれてもすぐには歩けない。大体6か月位からハイハイできるようになり、1才位から歩けるようになる。でも馬や牛の赤ちゃんは、生まれてすぐに立って歩くことができるんだよ。どうしてこんなに違(ちが)うんだろう。

動物には生まれた時から、たくさんの敵(てき)がいる。馬の赤ちゃんは、敵が来た時に走れないと、大人になるまで生き残れないんだ。でも人間は、親が作った家の中で守られて育つよね。犬やネコの赤ちゃんも同じ。だから最初は歩けなくても大丈夫(だいじょうぶ)なんだ。
生まれたばかりの馬の赤ちゃんが歩けるのはなぜ?

では『ブレードランナー2049』で描かれているものは何なのか。この映画の主人公K(ライアン・ゴズリング)はレイチェルのように子供の頃の記憶がある。それはこうだ。子供の頃、宝物として持っていた手のひら大の木馬を他の子供達に奪われそうになったので逃げ、その木馬を火のついてない炉の中に隠し、そのあと火のついている炉の前で、あたかもその炉の中に木馬を投げ入れたかのように呆然と立ちつくした。追ってきたものたちはその様子を見て木馬が燃やされたと思い、彼に暴力を振るった。この記憶がフロイトの理論のように物語全体を覆っている。問題はこの記憶の中で木馬が二つに分かれたことである。実際の物質としての木馬と、彼が火に入れたと見せかけた観念の木馬である。彼はここで木馬の観念と火の観念を合成して消失した木馬の観念を生み出した。この場合、物質の木馬を保証するのは物質であるが、観念の木馬を保証するのは一人称としては彼の記憶と三人称としては彼の見つめる先、視線である。前者はそれが物質として目に見えるが、後者は目に見えない、視線の先には実際には何もない。そしてこの映画では後者がすべて本物であるとみなされる。それはすなわち、存在そのものではなく存在を見ること存在を思い浮かべることである。そこに実際に何かが存在していなくても視線の先にあるものが本物なのだ。つまりこれは映画論である。われわれはスクリーンに映るものを本物だと見なしている。(見えなかった娘の歌いたくなかった歌 新感染 ファイナル・エクスプレス|kitlog)や(記憶と行動は対立するか ゴースト・イン・ザ・シェル|kitlog)で見られたように見ることは愛そのものである。

人間は、見ることも、触れることも、嗅ぐことも、聞くことも、記憶することもできない世界の大きな部分を知力によって知ることが可能になった。しだいに人間は、自分の手の届かない世界についての信頼に足るイメージを、頭の中に勝手につくることになった。(p47)

人間がこれまで経験してきたなかで、映画に匹敵するほどの事物の視覚化に役立ったものはない。もしフィレンツェの人が聖者を思い描こうとしたら、教会に行ってそこの壁画の上にジオットが当時の規格に合わせて描き出した聖者の像を見たであろう。もしアテネの人が神々の姿を望んだら、神殿にそれを求めた。しかし、描かれた事物の数は多くはなかった。第二の戒め(モーゼの十戒の第二、偶像崇拝の戒め)の精神が広く受け入れられていた東方では、具体的な事物を写すことはさらに少なかった。おそらく事物のイメージが作りあげられないために、実際的な決断能力がそれだけ低下していた。しかし西欧世界では、この数世紀の間に、宗教を離れた事物の描写、生々しい写実、物語、絵物語、そしてついには無声映画、おそらくこれからのトーキーを含めて、量、規模ともに途方もなく増大してきた。(p126)

スクリーン上では、観察、叙述、報告、そして想像という全過程が見る人に代わってできあがってしまっている。目を開けて座っている以外にわずらわしいことは何も要求されず、ふつうならつねに想像力を働かせなければ求められない結果がスクリーン上に繰り広げられる。ぼんやりしていた観念が鮮明になる。

たとえばクークラックスクランについてのあいまいな観念もグリフィス監督のおかげで、『国民の創生』を見れば、具体的にはっきりした形をとるだろう。歴史的に見てこの映画は誤っているかもしれないし、道徳的に見て有害かもしれない。しかしそれは一つの具体的な形をとっている。(p127)

世論(上)』リップマン

Kはブレードランナーとしてある農場へ出向き、その主である旧式のレプリカントを「解任」する。彼はそこで地中に埋まった遺骨を見つける。それがレプリカントのもので帝王切開をして出産した痕跡があることが判明し、Kはその骨の正体を探ること、もしも出産が成功しその子供が生きていたら「解任」することを命じられる。彼はもう一度骨を見つけた現場へ戻ると、それが埋めてあった木の根元に数字の羅列が並んでいるのを見つける。すると、彼の中に子供の頃の木馬に関する記憶が蘇ってくる。その数字の羅列は誕生日でその数字は彼が記憶の中で宝物にしていた木馬の裏にも刻まれていた。彼は役所の記録を調べてその生年月日に双子が登録されていることを知る。双子は男女で男の方は行方不明、女の方は免疫不全で死亡したとある。

これは木馬の構図そのものである。後に明らかになることであるが、Kはレプリカントから生まれた子供ではない。そして女の方も免疫不全ではあるが死亡してはいない。この記録の改ざんは2022年のブラックアウト(大停電)でほとんどの記録が断片化したことで可能になったものだが、その目的はレプリカントから生まれた女、アナ・ステライン(カーラ・ジュリ)を隠すことだった。レプリカントに生殖が可能となればレプリカントと人間の差異が消滅し人間の立場そのものが脅かされてしまうため、人間たちはその事実をなんとしても認めないか事実がないようにするためにアナを「解任」するだろう。レプリカントにとってはアナは希望である。彼女は守られなければならない。そのために隠されたのだ。それは木馬と同じ方法である。本物の木馬を稼働してない炉に隠したように、ある男Kを行方不明の人物として世間に隠す。そしてレプリカントの本物の子供は火のついた炉に木馬を投げ入れたと見せかけたように死んだことにしておいた。上にも書いたように映画では視線の先にあるものが本物で触れられるものが本物というわけではない。映像はスクリーンの質感までを変えて触覚に訴えかけるようなことはしない。木馬は実在しているがそれはそれ自体では偽物の象徴なのだ。木馬は観念になって初めて本物になる。

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映画の中では観念の木馬のほうが本物である。しかし、Kは本物になろうとして実在の木馬になろうとする。Kはジョイ(アナ・デ・アルマス)という人工知能つきのホログラムとアパートで暮らしていた。それは現在レプリカントを製造しているウォレス社の製品でもある。ジョイは会話ができ髪型や服装などの見た目を好きなように変えることができる。しかし彼女は天井にあるホログラム投影用の装置の下でしか存在することができない。Kはホログラムのシステムをアップデートし、それを携帯してどこででもホログラムを発生させることができるようにした。Kとジョイはいつでもどこでも一緒にいられるようになった。彼らは雨の中、屋上に上りジョイははじめて自分のホログラムに雨が通り抜けるのを感じる。ホログラムを雨が通り抜けたことを計算し、ジョイの肌に水滴が生じ彼女はそれを感じることができる。彼女は前よりは自由になり、本物の女性に近づいたかもしれない。けれど肉体のないホログラムであることからは抜け出ることができない。

ジョイは肉体を欲しただろうか。そうかもしれない。Kが自分の記憶と生い立ちに関する推測をジョイに披露したとき、その欲求は大きくなったかもしれない。もしもKがただの新型レプリカントであれば、彼には生殖能力はない。そうであれば、肉体的な関係は必ずしも必要ではなく、プラトニックな関係でも続くことができただろう。しかしもしもKがレプリカントが妊娠して生まれたレプリカントであれば生殖能力が存在するかもしれない。であれば、彼はその能力を使うことを考えるだろう。ジョイは人間の娼婦を部屋に招いてKの相手をさせようとする。女医はその娼婦の体に自分のホログラムが重なるように計算し、彼らは三人で愛し合う。

しかしそのことは重要だったのだろうか。映画においてはお互いに見つめること、あるいはどちらが見ていることで愛が表現される。その眼の中に。重要なのは眼だ。だから、デッカードはウォレスが再生したレイチェルのコピーを「眼が緑色だった」つまり眼が偽物であるから偽物だと言い放ち、ウォレスから愛されたいと思っているラブ(シルビア・ホークス)は盲目のウォレスから愛されることはない。ラブがウォレスから見られることはないからだ。ラブは物質の木馬として知覚されても、観念の木馬、視線の先の木馬として知覚されることはない。

ブレードランナー2049
(映画『ブレードランナー 2049』予告2 - YouTube

ラヴは傷ついたKと戦い、ジョイはKを痛めつけるのを止めるようラヴに懇願する。するとラヴは、Kを感情的に痛めつけるためか、ホログラム出力装置を破壊し、ジョイを殺す。フークスはこのシーンを次のように説明する。

「ラヴがジョイを殺すシーンで私はKに『我が社の商品にご満足頂けたでしょうか』と(皮肉で)言います。このシーンでラヴが言うちょうど良いセリフを探していた時、これほど心無い、残酷なセリフはないと思いました。今から殺して、人生に残る傷をつけるつもりで、『我々の商品にご満足頂けたら良いのですが』と言うなんて。それこそ何よりも邪悪で、冷徹なセリフです」

デ・アルマスは「そうですね。彼女はジョイを憎んでいるから、ジョイを殺したわけではないと思います」と話す。「Kを傷つけるためにやっているのです。彼女はKがジョイを愛したように、誰かに愛されたことは一度もないからです。彼女に欠けているのはその部分だと思います」

「確かに、そうですね」とフークスも同意する。「ラヴの苦痛はKとジョイの関係性に表れているのだと思います」

デ・アルマスは「さらに面白いのは、レプリカントは人間が自分たちを殺したがっていることが不満で、戦っているのにもかかわらず、彼女はもうひとつの(人工生命体である)私を殺します」と、ラヴ(レプリカント)とジョイ(ホログラム)が戦うことの皮肉を指摘する。

「ジョイはラヴにとってただの商品で、自分にはない、理解できない愛をもっているKを憎んでいます」とフークスは語る。「ニアンダー・ウォレスは彼女にとって手の届かない存在なのだと思います。そして、その苦痛があの瞬間に現れたのではないでしょうか」
レプリカント vs ホログラム――「ブレードランナー2049」のキャストがアンドロイド社会におけるヒエラルキーを語る - ブレードランナー 2049

Kは自分の正体を知るために、木馬の作製場所をその木の成分から特定しラスベガスへ向かう。そこで待っていたのはデッカードだった。もしもKがレプリカントから生まれた子供なら、デッカードはその父親である。けれど、デッカードはそのことに関して曖昧なことしか言わない。そうしているうちに、子供の情報を求めて追ってきたウォレス社のラブに襲撃される。ウォレス社は壊滅したタイレル社の生殖機能付きのレプリカントの技術を得て、レプリカントの量産をしたいと思っている。そのためにレプリカントから生まれた子供の情報が必要だった。デッカードならそれを知っているはずだとして、彼をさらっていく。Kはその襲撃でジョイを失い(これは1982年の『ブレードランナー』のロイの境遇と似ている)、身体にもひどい傷を負って気を失ってしまった。そこをレプリカントの革命軍に助けられる。そして、Kは次のことを知る。自分がレプリカントから生まれた子供だと思っていたが違っていた。彼にある記憶と周辺の記録は本物の子供を隠すための工作だった。免疫不全で死んだ女の方から目を逸らさせるために彼は存在していた。木馬のように。革命軍は言う。レプリカントの子供のことがバレたらまずい、デッカードを殺してくれと。

Kはデッカードと彼をさらったラブを追った。途中ジョイの製品の広告のホログラムと遭遇する。ジョイはウォレス社の製品なので見た目が同じものがどこにでも存在している。彼はその広告が自分を誘惑してくる様子を見る。けれど、そのジョイはかつてのジョイのようには自分を見てはくれない。そしてKもそのジョイをかつてのジョイと同じジョイであるという顔でジョイを見ることができない。デッカードが偽物のレイチェルを見せられたときのように「眼が違う」のだ。Kはラブを追い詰め彼女の乗っているスピナーを海の上に墜落させる。スピナーに水が浸水しそれは沈もうとしている。Kはデッカードを殺しに来たのではない、助けに来たのだ。Kとデッカードは親子関係ではないし、何の特別な関係もない。彼はなぜデッカードを助けたのか。Kの記憶が正しくKのものだと思っていた時には、彼は自分がデッカードの息子だから彼を探しに行く理由があった。しかし実際にはそうではなかった。おそらくここで観念の延長が行われたのだろうと思う。つまり「自分が息子だから」という理由から、「自分が息子だとしたら」という行動理由に変化したのだ。彼は「自分が息子だとしたら」と考えるに足る記憶をそれが偽物だったとしても持っている。それは「木馬が炉の中で燃えていたら」という思いで燃え盛る炎を見つめる子供の頃の記憶と相似形である。『ブレードランナー』(1982)のレイチェルがピアノの前で自然にそれを弾いたようにKもそうしたのだ。こちらの世界ではそっちのほうが本物である。

沈没し浸水するスピナーの中でKとラブが戦う様子は子宮の中で二人の赤ん坊がどちらが生まれるべきかを争っているかのようだった。ラブはスピナーの中で溺死し、Kはデッカードとともに彼の本当の娘に会いに行く。本当の娘アナはレプリカントに記憶を与える仕事をしていた。Kは自分の記憶がつくられた記憶か本物の記憶かを尋ねるために彼女に一度会っていた。アナはKの記憶を見て涙を流しながら「これは本物よ」といった。デッカードをアナのところに送り届けたところでKは力尽きて傍の階段に倒れ込む。その彼を冷たい雪が覆っていく。役所に改ざんされた記録のように女の方(ラブ)は死亡し、男(K)の方は行方不明、雪によって隠されてしまった。Kは木馬になることを求めたが、木馬はその存在の初めから生きた物ではなかった。

数々の人物を創造する能力を考察しよう。これらの人物について、われわれは彼らの物語を自分自身に物語る。この能力は小説家と劇作家において特別に強い生気を得る。彼らのうちには、自分の主人公にまさに取り憑かれたものがおり、この場合、彼らがその主人公を導くというよりもはむしろ、彼らのほうが主人公に導かれている。彼らは、劇作品もしくは小説を完成したときに、その主人公から自由になるのに苦労しさえする。このような作家は必ずしも最も高い価値を持つ作品を書いた作家であるわけではない。しかし彼らは、意志的な幻覚の特別な能力が、少なくともわれわれのうちの若干の者に存在していることを、他の人々よりもはっきりと悟らせてくれる。真実を言えば、誰のところにもこの能力はある程度見出される。この能力は子供にあってはつねに活発である。子どもたちのうちある者は、想像上の人物と日常的な交流を続け、あなたがたにこの人物の名前を教え、また、一日の些細な出来事の各々についてその人物が持った印象を知らせるだろう。しかし、虚構の存在を自分で創造することこそないが、数々の現実に対してと同じく、数々の虚構に関心を持つ人々においても、同じ能力が作動している。劇場で涙を流す観客を見ること以上に驚くべきことがあるだろうか。(p268、269)

道徳と宗教の二つの源泉』ベルクソン
9/10/2020
更新

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