概念のパラダイス 沈黙-サイレンス
17世紀の日本のキリシタンは「パラダイス(劇中ではパライソ)」の概念がはっきりしない。それは現世にあるのか来世にあるのか。
宗教について何か書こうと思うと途方もなさを感じる。何しろそれは科学よりも歴史が古く科学以前にも存在し、それが不合理であると科学が反駁してもなお存在し続けている。それは今でもそうだ。いくらそれが不合理だからと言ってそれをやめさせることはとてつもない困難を要する。われわれの時代に宗教があるように、17世紀の日本にも宗教が存在していた。宗教は明らかに人間が作り出したものなのだから、それに固執し続けることは単純な間違いであり、この映画に描かれている人物たちの行動も壮大な茶番劇の一部であると断じることもできるだろう。しかし実際にそれを信じて死んだ人間がいるのは事実である。そのことについてどう考えるべきか、この映画は教えてくれるだろうか。また、この映画を観る限り新しくキリスト教徒になった人物は存在せず、肉体的あるいは精神的拷問によって人の思想や信仰を変えさせようというのは全く不当なことなのだが、この映画は拷問のシーンから始まり拷問があることが前提になっている。もちろん宗教において現実こそが弱点であり、宗教は可能性においてしか存在しえないから、宗教の欺瞞を暴こうと思えば現実における力の行使ということが一つの選択肢として考えられる(実行したほうがいいかどうかは別として)。現実性によって神は実在はしないことがあきらかになるが神という概念は存在する。この映画では神の概念は日本人にはわからないものなのだという。キリスト教にとって日本は沼地でその種子は発芽しないとセリフで言われる。
上のことを考慮すると、この映画のなかで神に対してもっとも真剣だったのがキチジローだった。家族のなかで彼だけが踏み絵を踏んで棄教の意思を示したが、他の家族は彼の前で生きたまま焼かれてしまった。住んでいた村もキリシタンの疑いをかけられなくなってしまう。彼は行くところがないのだ。にもかかわらず、彼はそれを自分が逃げたとか裏切ったという風に思い、そのことに罪の意識を感じて神から許されたいと思っている。あらゆることが逆立ちしているようにみえる。キチジローは幾度もキリスト教徒を裏切ったようにみえるのだが、彼を幾度も裏切らせるのはキリスト教に対する執着である。彼は信仰故にキリスト教徒にとって裏切ったと思われるような行動をせざるを得ないのだ。彼はいちいちまともであろうとするのだが、神の概念が彼をキリスト教徒であることと現実に生きることの間を振り子のように彷徨わせる。映画の最後にキチジローはロドリゴとともに江戸に来たのだが、キリストの絵の入った小さな袋を役人に見つけられ捕らえられてしまう。ロドリゴがキチジローの住む村を尋ねた時に村人がロドリゴのもつ宗教的な持ち物を欲しがったのを不思議がっていたが、その時はキチジローはモノは求めなかった。彼は孤独のなかで単に悔いていたのだ。それはモノによって代用できるものではなかった。けれど、年月が過ぎ都市にでたことでそのことも薄まってしまったのではないだろうか。
沈黙しているのは現実のわれわれであって、神とか多様性、民主主義と言った概念ではない。神が沈黙するという時、神の存在が前提となっている。宗教の源が恐怖(『二源泉』ベルグソンp209)であるとすれば、神の概念はその合理化である。恐怖を知性によって説明することで理解可能で大したことがないと思いたいのだ。終盤に出てきた子供のように棄教したロドリゴを「転びのポール」といって笑いの対象にすることで安心したいのだ。昔の人は動物を殺して食べることに罪悪感を覚えたが、それを合理化して動物は神様がその中に入っていてそれを殺すことで神様は動物の形から解放されるという物語を作り上げた(『生きるよすがとしての神話』のアイヌの例)そうやって概念を弄ぶことで悲劇をやり過ごしていないだろうか(『この世界の片隅に』のように?)。民主主義が何も言わなかったからシリアに悲劇が起こったのだろうか。あるいは民主主義が失敗したのだから多少の犠牲は仕方がない、彼らは独裁制だったのだから仕方がないと思ってはいないだろうか。何十万人の人々が死んでしまったにもかかわらず。われわれの沈黙がアレッポを破壊したというとき、彼らはわれわれを石女にすがっていると非難してはいないだろうか。彼らは世界の混沌を嘆くわれわれを非難してはいないだろうか。
英語においてParadiseという単語は、ペルシャ語のpairi-(まわり)とdaeza(壁)という語からできており、正しくは「壁に囲われた土地」という意味です。(p48)
『生きるよすがとしての神話』ジョーゼフ・キャンベル
17世紀。江戸初期頃の日本では、幕府により厳しいキリシタン弾圧が行われていた。日本での布教活動に情熱を注いでいた高名な宣教師フェレイラ(リーアム・ニーソン)が捕らえられ棄教したとの報に接した弟子ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は、日本人キチジロー(窪塚洋介)の手引きでマカオ経由で長崎に潜入。そこでは、想像を絶する光景が広がっていた。弾圧の目をかいくぐった隠れキリシタンたちの現状も目の当たりにする。幕府は一層取締りを強化、キチジローの裏切りに遭い、ロドリゴたちも捕らえられてしまう。頑なに信心を曲げないロドリゴに対し、長崎奉行は彼のために犠牲になる人々を突き付ける。信仰を貫くべきか、棄教し目の前の人々の命を守るべきか。追い詰められ自身の弱さを実感したロドリゴは、選択を迫られる。
沈黙-サイレンス- | 映画-Movie Walker
「隠れキリシタンへの拷問は暴力でしたが、西洋からやってきた宣教師も同じように暴力を持ち込んだのではないでしょうか。『これが普遍的な唯一の真実である』とキリスト教を持ち込んだわけです。それに対処するには、彼らの傲慢をひとつずつ崩していくしかないと、日本の為政者は考えたのです。そこでリーダーである宣教師にプレッシャーを与え、上から崩していく方法を見いだしました。映画の中でも、ロドリゴの傲慢が崩されていき、慈悲心を身をもって知ることで、真のキリシタンになっていきます。要するに、権威的なアプローチで教えを説くのではなく、キリスト教の中の女性的な面をもって説くのが、日本で受け入れられるやり方ではなかったでしょうか。隠れキリシタンの人たちも、実はキリスト教のそういう面にひかれていたのではないかと思うのです」
M・スコセッシ監督が語る 『沈黙』を映画化した意味|エンタメ!|NIKKEI STYLE
宗教について何か書こうと思うと途方もなさを感じる。何しろそれは科学よりも歴史が古く科学以前にも存在し、それが不合理であると科学が反駁してもなお存在し続けている。それは今でもそうだ。いくらそれが不合理だからと言ってそれをやめさせることはとてつもない困難を要する。われわれの時代に宗教があるように、17世紀の日本にも宗教が存在していた。宗教は明らかに人間が作り出したものなのだから、それに固執し続けることは単純な間違いであり、この映画に描かれている人物たちの行動も壮大な茶番劇の一部であると断じることもできるだろう。しかし実際にそれを信じて死んだ人間がいるのは事実である。そのことについてどう考えるべきか、この映画は教えてくれるだろうか。また、この映画を観る限り新しくキリスト教徒になった人物は存在せず、肉体的あるいは精神的拷問によって人の思想や信仰を変えさせようというのは全く不当なことなのだが、この映画は拷問のシーンから始まり拷問があることが前提になっている。もちろん宗教において現実こそが弱点であり、宗教は可能性においてしか存在しえないから、宗教の欺瞞を暴こうと思えば現実における力の行使ということが一つの選択肢として考えられる(実行したほうがいいかどうかは別として)。現実性によって神は実在はしないことがあきらかになるが神という概念は存在する。この映画では神の概念は日本人にはわからないものなのだという。キリスト教にとって日本は沼地でその種子は発芽しないとセリフで言われる。
タオイストたちは都市での生活を棄てて、深山幽谷にひとり引きこもり、自然との調和のなかで暮らしたと書かれることが多いのです。しかし、日本ではそうはいきません。なにしろどこもかしこも人であふれ、自然のなかでひとりきりになるのは、まず不可能だからです。少なくとも、長期にわたって孤独になりきるのは無理です。登頂不可能とも思える険しい山の頂に苦労して登ってみれば、先着のグループが陽気にピクニックしている場面に出くわすような国です。日本では人間から逃れることはできないのです。(p200)安易な日本人論や日本論などのレッテル貼りはあまり良くないが、上の文章は考慮するに値する。(復讐は創造主の手で:密室と荒野 レヴェナント:蘇りし者|kitlog)『レヴェナント』と『ヘイトフルエイト』の比較で問題にしたが、神が存在するには一人になれる広大な空間が必要だ(広大な空間が人に神を求めさせる)。『レヴェナント』では荒野や森林である人物の行いを誰も人が見ていないことが問題になったが、『ヘイトフルエイト』では密室のなかで誰かが必ずある人物の行為を見ているということが問題になった。『レヴェナント』の孤独のなかで神は問題になるが、『ヘイトフルエイト』の人だらけの密室ではそれはもはや問題にならない。日本はどちらかと言えば『ヘイトフルエイト』に傾いているということになるだろう(同じようにインターネットに日常的に触れていれば神は問題にならないだろう)。人間から逃れられないことが筑後守がいうところの沼地なのだ。
『生きるよすがとしての神話』ジョーゼフ・キャンベル
上のことを考慮すると、この映画のなかで神に対してもっとも真剣だったのがキチジローだった。家族のなかで彼だけが踏み絵を踏んで棄教の意思を示したが、他の家族は彼の前で生きたまま焼かれてしまった。住んでいた村もキリシタンの疑いをかけられなくなってしまう。彼は行くところがないのだ。にもかかわらず、彼はそれを自分が逃げたとか裏切ったという風に思い、そのことに罪の意識を感じて神から許されたいと思っている。あらゆることが逆立ちしているようにみえる。キチジローは幾度もキリスト教徒を裏切ったようにみえるのだが、彼を幾度も裏切らせるのはキリスト教に対する執着である。彼は信仰故にキリスト教徒にとって裏切ったと思われるような行動をせざるを得ないのだ。彼はいちいちまともであろうとするのだが、神の概念が彼をキリスト教徒であることと現実に生きることの間を振り子のように彷徨わせる。映画の最後にキチジローはロドリゴとともに江戸に来たのだが、キリストの絵の入った小さな袋を役人に見つけられ捕らえられてしまう。ロドリゴがキチジローの住む村を尋ねた時に村人がロドリゴのもつ宗教的な持ち物を欲しがったのを不思議がっていたが、その時はキチジローはモノは求めなかった。彼は孤独のなかで単に悔いていたのだ。それはモノによって代用できるものではなかった。けれど、年月が過ぎ都市にでたことでそのことも薄まってしまったのではないだろうか。
これらの「諸価値」の価値は、所与として、事実として、すべての疑問を越えたものとして受け取られてきた。これまでは「善人」を「悪人」よりも価値の高いものと見なし、およそ人間というもの(人間の未来を含めて)の進歩・功利・繁栄に関してより高い価値をもつものと見なすことには、いささかも狐疑や逡巡の余地がなかった。しかるにどうであろうか、もしその逆が真であるとしたら?またどうであろうか、もし「善人」のうちにも後退の徴候が潜んでいるとしたら?同じく、事によると現在のために未来を犠牲にするといった一つの危険が、一つの誘惑が、一つの毒物が、一つの《麻酔剤》が潜んでいるとしたら?(p15)
『道徳の系譜』ニーチェ
律法について語られると同じことが倫理学についても言われうる、――それは要求を掲げるところの厳格な教師であり、その要求を通じて単にひとを罪におとすだけであって、生命を与えはしないのである。(p25)筑後守がロドリゴに要求するのは、一人死ぬか五人死ぬかを選ぶようなトロッコ問題を解かせることである。しかし、それは架空の設定ではない。現実に目の前で人が死のうとしている。テレビ番組や講義室で「君はどちらを選ぶかな?」とかいうことが現実化したらあまりに残酷なことは目に見えている。そしてそのような課題を単に宗教を論破するための方法(やむを得ないなどと言いながら)として利用するのも全く間違っている。間違っているが、そのことに抗うのは問題にできない。筑後守が外国のキリスト教徒一人に対して力勝負をチラつかせているからである。なので、そのトロッコ問題のような問いかけつまり、ロドリゴが棄教するか信徒が死ぬかといった問題に答えざるを得ない。宗教は現実には答えを出せない。それが出せるのは可能性に対してだけである。現実の問題は人間の問題であるが、ロドリゴは自分の沈黙を神の沈黙にすり替えってしまった。キルケゴールが言うように、それは宗教が彼を罪に落とすためである。ロドリゴはキチジローのように悔い続けるだろうが、彼はその絶望のなかで神のゆるしを願いつづけキリスト教徒として満足するかもしれない。そのことを筑後守はキリスト教は何も産まない石女だと表現している。
『不安の概念』キルケゴール
"Aleppo is being destroyed by the silence of Arabs and the entire world."
The phrase speaks volumes about the massacre unfolding in war-ravaged Aleppo while the world watches helplessly. The quote is translated from one of the top Twitter worldwide trends
Syria: 'Aleppo is being destroyed by the silence of the world' - CNN.com
沈黙しているのは現実のわれわれであって、神とか多様性、民主主義と言った概念ではない。神が沈黙するという時、神の存在が前提となっている。宗教の源が恐怖(『二源泉』ベルグソンp209)であるとすれば、神の概念はその合理化である。恐怖を知性によって説明することで理解可能で大したことがないと思いたいのだ。終盤に出てきた子供のように棄教したロドリゴを「転びのポール」といって笑いの対象にすることで安心したいのだ。昔の人は動物を殺して食べることに罪悪感を覚えたが、それを合理化して動物は神様がその中に入っていてそれを殺すことで神様は動物の形から解放されるという物語を作り上げた(『生きるよすがとしての神話』のアイヌの例)そうやって概念を弄ぶことで悲劇をやり過ごしていないだろうか(『この世界の片隅に』のように?)。民主主義が何も言わなかったからシリアに悲劇が起こったのだろうか。あるいは民主主義が失敗したのだから多少の犠牲は仕方がない、彼らは独裁制だったのだから仕方がないと思ってはいないだろうか。何十万人の人々が死んでしまったにもかかわらず。われわれの沈黙がアレッポを破壊したというとき、彼らはわれわれを石女にすがっていると非難してはいないだろうか。彼らは世界の混沌を嘆くわれわれを非難してはいないだろうか。
9/10/2020
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